四十一話:死後の皇后
春の花も散り始め、季節は初夏に日に日に近づく。
私はこの日、子桓叔父さまのおうちに行くことになった。
けれど訪ねる相手は叔父ではなく、その夫人の甄氏だ。
「良くおいでくださいました、義姉上さま」
出迎えた甄氏は三十代でまだ若々しい。
色々手入れに気を使っている様子がわかる肌つやと、真っ赤な紅。
髪型も凝っていて、人の噂になるほどだった。
「長姫はお久しぶりね。覚えていてくれるかしら?」
「はい、甄夫人におかれましてはご機嫌麗しく」
私も挨拶をすると、応じてまだ幼い私に礼を取ってくれる。
外見は流行りの化粧や目を引く髪型が印象に残る女性だ。
けれどその振る舞いは落ち着きと丁寧さを感じさせた。
「どうぞ、こちらへ」
そして自ら案内に立つ姿には、今一番の権勢を誇る曹丞相を舅に持つ者として権威に溺れる様子はない。
子桓叔父さまは一夫多妻。
その中で最も位が高いのがこの甄氏だ。
最初の妻であり、県令の娘というほどほどの出生。
何より最初に継嗣となる男児を生んだことが大きい。
(現状では、と前置きがつくけれど)
夫人という地位は、王朝の臣下の妻としては最上位にあたる。
そして夫人を名乗れるのも、臣下の妻の中だけでは一人だけだ。
では夫人が最上位でなく、複数夫人を持てるのは誰かと言えば、もちろん天子。
天下の皇帝の後宮での話になる。
(えっと、一番上が皇后で、三夫人がいて、その下が妃嬪と言う人がいて…………あら?)
私は東の海の向こうの知識が混じって混乱してしまう。
のちの時代、はっきり言ってしまえば五十年後には、妃嬪の制度や名称が変えられることになる。
もちろん五十年後は今の漢王朝ではなく、魏王朝の後に立つ晋王朝。
その皇帝の姓は司馬だ。
(改めて考えると、魏王朝って五十年続いてない…………)
あまり考えないようにしていたのにがっくり来てしまう。
「まぁ、やはりまだ体は弱くあるのね。抱えましょうか?」
「大丈夫よ、私が。さぁ、宝児」
「あ、大丈夫です、母上」
断ったけどがっくりしてしまった私を母が抱え上げる。
だいぶ元気になったのに、未だに過保護だわ。
「本当に血色は良くなっていますわね、義姉上さま」
「えぇ、寝込むことも少なくなって。そちらはどうかしら? 少しは枕をあげられて?」
「はい、今はずいぶんと元気になっているのですが。やはり目を離した隙にまた伏せてしまうのではないかと気が抜けませんわ」
甄氏は母と娘の健康について話す。
視線の高くなった私目が合うと、優しく微笑んでくれた。
けれど、その笑みの奥に寂しさに似た色があるようだ。
元仲さまの妹にあたる方がどうやら今伏せているらしい。
(この方にも、早世した娘がいるのね。まだ、生きているけれど)
そんな知識にがっくりがひどくなる。
私はこうして持ち直しているけれど、甄氏の娘は早世と残っているのだ。
けれど歴史に残らなかったせいで、今の私でも死因はわからない。
悩んでいると、母が声をかけて来た。
「宝児、あなたが考えた玉粥が良かったみたいよ」
「え?」
「ありがとう、長姫。娘が食も細くなっていたのに、あれは見た目も良くて喜んで食べてくれたの」
思わぬところで評価されていたあのお粥は、役立ってもいたらしい。
「それと煮た桃。あれも食べやすいと喜んでいたわ」
それは春の上巳の節句のこと。
東の海の向こうでは桃の節句という祝いの日だ。
お正月に私が桃といったため、父が用意していたのに祖父も用意していてくれた。
(父上より早く用意したつもりだったおじいさまが悔しがっていたわね)
けれど私たちは家族三人。
丞相が用意した桃は多すぎて困った。
だから私はちょっとした実験をすることにしたのだ。
知識にある桃よりも硬い桃を、煮て柔らかくできないかと思っただけ。
その上で少し甘味が強くなるよう水分を飛ばした程度だ。
(東の海の向こうだと、多くの砂糖を使って甘くするらしいけれど。さすがにないものはしょうがないし)
それでも歯ごたえがするくらいの桃が、少しは知識にあるような柔らかさになって食べるのも進んだ。
体調の悪い娘を持つ者同士、どうやら母と甄氏は情報交換をしていたらしい。
そうして母と話す甄氏は、意思ははっきりしていそうだけど優しげな方だった。
(…………なのに、子桓叔父さまはこの方を皇后にはせず、死を賜るのよね)
甄氏が皇后として名が刻まれるのは死後のことだ。
元仲さまが即位してから、生母である甄氏の名誉を回復し皇后位を追贈した。
波乱の人生を歩んだ女性だと、東の海の向こうの知識にある。
元は曹家の敵である袁家に嫁いだ女性であり、攻められ逃げられず、袁家の妻子たちと共に囚われた。
その中で子桓叔父さまに見初められて妻となっている。
(ちなみに夫である袁煕という方はその時にはまだ生きていた、と。やっぱり私には受け入れがたい気がするわ)
負けて置いて行かれた子女は、生殺与奪の権利を敵に握られる。
曹家の祖父はそうして残された敵の妻を娶り、子を養育して来た人なせいか、置いて行く人に私は不快感を覚えた。
(あ、もっと信じられない話があったわ)
それは蜀の地で敵対する劉備という方。
人望があり、大義名分を掲げて戦う方だけれど、一度どころか二度三度と妻子を置いて逃亡している方でもある。
しかも今いる継嗣である劉禅という方も、赤子の頃戦乱から助け出されたのに、劉備は投げ出したという話があった。
親として、それはどうなの?
(わからないわ。男性側の結婚観に不審しか抱けなくなりそう)
部屋についてもまだ悩む私に、母も訝しげに聞いて来た。
「どうしたのです、宝児? なぜそんなに難しい顔を?」
ここは先達のお知恵をお借りしてみようかしら?
「どうすれば私は母上のように、一途で誠実な父上のような方と巡り合えるだろうと思いまして。けれど、子桓叔父さまをお頼りするには不安が大きいのです。あの方の行状を思えばいっそ不安しかありません」
「な、なな、何を言い出すの宝児?」
母が動揺で赤くなる。
その横で甄氏は口元と言わず顔全体を袖で隠して震えている。
もしかして笑ってらっしゃいます?
「子林だっていいばかりではないことを知っているでしょう。気が利いたことも言えないし、気回しをしてもから回るし。誠実さも私の実家があってこそで、子林が父親として考えた時には宝児を婚家で守れるほどの存在感もなく少々望むには困ったことになりますよ」
母が早口で言うのだけれど、もう何がいいたいか本人もわからない様子で目が泳いでいる。
「まぁまぁ、愛らしいこと」
笑いを収めたらしい甄氏が袖を降ろした。
「わたくしの夫君は、いったい長姫にどんな悪戯をして嫌われてしまったのかしら?」
「嫌ってはいません。優しさもあるとわかっています。けれど、悪戯に度を超すのはやめてほしいのです」
「ほほほ、夫君が長姫をことのほか愛顧なさる理由がわかりましたわ」
「そう思うのなら、自身の子を近づけるべく手を打ってはいかが?」
母の言葉に甄氏は微笑む。
「子に、生き方を強制するつもりはありません。あの子が父と別の道を行くというのなら止めませんし、従うというのならば尊重します。私は、健やかでいてくれれば…………」
これは一種の放任かしら?
けれど語る甄氏は、何処か堪えるような横顔に見えた。
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