三十六話:精神的疲労
私は綺麗に整えられた石床の廊下をよろよろと歩く。
素晴らしい彫刻が施されていても、鑑賞する余裕はない。
「もう見ている者もいません。これ以上は無理です。私が抱きます」
「母上、いけません」
「でも、宝児…………」
いえ、ここ後宮ですってば。
基本姿勢、頭を下げてすり足で進むのがマナーの場所。
私を抱き上げて腰を折って進むなんてできないし、だからって立って歩くのはさすがにまずいです。
(案内の宦官は困り顔だけだから、できると言えばできるだろうけど)
宦官は後宮で帯剣を許されている。
つまり無礼者を切る権利があるし、実際その権利を行使した例が過去にはある。
けど見るからにこの宦官はその気がない。
当たり前だ。
曹丞相の娘にして、夏侯河南尹の息子嫁なんだから。
(その上、後宮の女主人とも言える皇后を、おじいさまが一度廃してしまっているのよね。強権を振る曹氏の血縁に剣を抜く勇気はないってことかしら)
ここでは私の血筋は強い。
確か東の海の向こうの知識では、印籠とか七光りとか言うんだっけ?
普段は周りに同じ血筋の人しかいないから実感はないけど。
この強権を振るうのは簡単だ。
一言命令するだけで済む。
けど使ってしまえばその時点で奸雄の孫娘という悪い印象がこびりつく。
(前例、いるのよね。そう昔でもない時代に、董卓の孫娘、董白っていう人が)
董卓は言わずと知れた悪漢。
その董卓に溺愛された董白は、成人もしていない女児にも拘らず権能の印である印綬を与えられ、高位の役人を従え、領主としての地位が与えられた。
そして分不相応な受領をした二年後、董卓の誅殺と共に族滅させられている。
これは他人ごとじゃない。
曹家の祖父はあと四年でこの世を去る。
その後に子桓叔父さまという強い後継者がいたから族滅はなかったけれど、その後は曹家の魏王朝は衰退していくのだ。
魏王朝から離れる夏侯の者も現れるようになるほどに。
(私も、旧悪を並べたてられて罰される可能性はないとは言えない。だって、私は私の未来を知らないんだもの)
だから今、特別扱いをされるわけにはいかない。
それにこんなに私がふらふらなのは、精神的疲労のせいでまだ足は動く。
牛歩でなんとか後宮内部に用意された控えの間に辿り着くことには成功した。
会ってすぐ帰るということはできない。
何せここ、すごく広い。
なのに移動に車を使っていいのは皇帝だけだから、どうしても中継ぎが必要になる。
「医生を呼んでまいりましょうか?」
「大丈夫です。少し、静かに休みたいだけですから」
後宮のこの部屋つきの侍女が気遣ってくれる。
すると私の言葉に母がすぐさま命令を下した。
「あなたたちは出ていなさい。用があれば呼びます。静かにするように」
なんの権限もない母の命令に困った様子だったけれど、結局侍女たちは下がる。
立場上は皇后の姉で清河公主だ。
抵抗できるわけがない。
「あぁ、宝児。辛いかしら? やはりあの子の呼び出しなど無視すれば…………」
「それは、駄目ですよ、母上」
私の疲れた様子に母が後悔を口にする。
その後悔の言葉は、今の私にはちょっと申し訳ない。
「出すぎた真似を、したでしょうか?」
母のためとは思っても、関係のない死者を利用したことに変わりはない。
だからこそちゃんとお墓には謝りに行こうとは思う。
どうか祟らないでくださいって。
私の問いに母は溜め息を吐いた。
その意味するところを不安に思って見ると、母は微笑み浮かべている。
「よい、機転でした。わたくしを思って、答えをはぐらかしたのね」
どうやら本気かわざとか計りかねていたらしい。
ごめんなさい、わざとです。
「最初から話しておけばよかったわ」
何やら母は、今の私の疲れ具合に言うか迷う様子だ。
なので、横になったままだけど口を閉じて待つ。
「実は、あれで向こうに優位を取られていたら、太子との結婚話をねじ込まれていたかもしれなかったのよ」
「え!?」
予想外すぎです!
でも献帝の皇后に曹家の娘を出している現状。
もしもを考えて次代の関係を考えるとなると、曹家の母を持つ夏侯家の私を後宮に入れるのは、政略としてありだ。
「でも、どうしてですか? 皇后さまのご意向で? 天子さま、その、あまり…………」
「えぇ、天子さまは乗り気ではないわ。あちらは父祖の代から今まで漢王朝に仕える者を好まれるもの」
母が毒をちらつかせる。
何せ曹家は祖父の代から漢王朝に仕えている。
当時の皇帝に、曹騰という私の高祖父にあたる方が認められて建てられた家だ。
暗に曹家を信用してないと言ってしまっている。
「あの子も馬鹿な子。利用されているのに調子に乗ってしまって。父の代は安泰でも、子桓たちが放っておくわけないのに」
憂いを帯びた母の呟きは、不仲とは言え妹を思いやる言葉。
しかもわかってらっしゃる。
曹家の祖父は漢王朝は終わらせないことを。
けれど、子桓叔父さまなら終わらせることを。
あと子建叔父さんもきっと、子桓叔父さまと同じで、考えが案外過激というか、武闘派だったというか。
「おじいさまは、幸せにならない結婚を勧められたのですか?」
「あ、違うのよ、宝児。そんな顔をしないで」
どんな顔をしているのかしら?
正直皇后にあまりいい印象は抱けなかった。
けれど父親から幸せになれない結婚をさせられたとなると悲しい人だと思う。
「あの子たちも、猜疑心の強い天子さまを解きほぐさんと使命感を持って嫁ぎました。けれど、あの子、皇后は思わず頂点に立ったことで熱に浮かされてしまっているの」
困った様子で母が語るには、つまり献帝が曹家の祖父に敵愾心を持っていることは周知のことで、皇后たち三姉妹は承知の上で後宮入りし、王朝と曹家の橋渡しになる役目。
三人がかりで懐柔しようとしたけれど、長姉が不意の病で亡くなり自分がやらないといけない、と皇后が奮起しているらしい。
(皇后の使命感はきっと本物ね。禅譲後も献帝に付き従って看取っている)
しかしそれを献帝が利用し、煽り立てているような状態が今。
(案外したたかね、乱世の皇帝)
私はちょっと回復して身を起こすと、母が心配そうに支えてくれた。
そこに外から何やら声が聞こえる。
「静かにするよう言ったのに」
「いえ、今まで静かでしたし、何かあったのでは?」
話している間に足音が近づく。
すり足が基本なのに、ずいぶん早い。
つまりは体勢を気にせず来てる?
「長姫が倒れたと聞いたが?」
「おや、起きているね」
現われたのは子桓叔父さまと子建叔父さま。
後ろには追い出した部屋つきの侍女がおろおろついて来ていた。
母は途端に眉を跳ね上げる。
「控えなさい。子桓、子建。女性しかいない室に断りもなくやってくるとは何ごとですか」
母が叱りつけると侍女のほうが首を竦めた。
そして当の叱られた叔父たちは何処吹く風だ。
「皇后が呼び出したからご機嫌斜めなようだ、兄上」
「ふん、姉上が麗しい機嫌の時とはいったいいつだというのだ」
「宝児は休んでいるのです。静かになさい」
母も叔父たちの皮肉を叩き払うように言い返す。
私は妙に耳の早い叔父たちに疑いの目を向けていた。
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