三十五話:献帝
献帝三十五歳。
私の両親と同年代。
そして私は、三百年続いた漢王朝、最後の皇帝であることを知っている。
しかも献を号する由来は、子桓叔父さまに帝位を譲った英断を讃えてだということも。
(ただこの禅譲、無理矢理だったって知識で出てくる…………)
全て東の海の向こうの知識で、私が知ってることではないけれど、あの子桓叔父さまならやりかねないと思えてしまう。
その上で今は、曹家の祖父の力で帝位に座っている状態の天子。
そんな方が何故いきなり乱入してくるの?
(わからない。献帝のこの行動に至る何か手がかりは…………おっふ)
とんでもない知識が最初から出て来た。
母親は皇子である献帝を産んだことで皇后から毒殺されているそうだ。
さらには病、もしくは罪を得た後宮の女性が入れられる暴室という後宮の一画で育てられたとも。
その後は皇太后に養育されるものの、その頃には兄と皇太子の座を争うような立場になっていた。
そして九つで父である皇帝が死去し、そこからは政変に次ぐ政変。
同じ年に、皇帝であった兄が殺され即位。
十六歳になって、曹家の祖父に保護されこの許都に安住したという。
(同情は、できない方ね。保護された後におじいさまを暗殺しようとしてるわ。だから近い者を遠ざけられたのに、忠誠を誓えないなら禅譲しろと言えなんて、おじいさまに迫っている)
曹家側の人間としては、自分勝手な皇帝という印象が強い。
その上で、決して曹家とそれに連なる者を快くは思っていないこともわかる。
なのに、母と皇后という仲が悪い曹家の祖父の娘二人がいる所に乱入してくるなんて。
これはあまりいい思惑はなさそうね。
私の予想は外れず、今までの話の経緯を皇后から聞いて、献帝は一笑に付した。
「そんなことは気にせず思うとおりに答えよ。朕が許す」
もう! 私がせっかく頑張ったのに!
また皇后の狙いよろしく、忠孝の優劣を論ずることになってしまった。
(これ絶対、仲悪いから仲裁とかそんなんじゃない。曹家の娘たちが喧嘩するの眺めに来てる)
私の悪い想像かもしれない。
けれど私でさえわかる皇后の意図を、皇帝を名乗る大人が読めないわけがない。
止めない時点で揉ませに来てると疑ってもおかしくないだろう。
「直言も許そう。幼く稚い物言いでも寛大に聞こうではないか」
しかも私に特別扱いをほのめかした。
普通に考えれば寛大な皇帝だ。
けれど直言を許されたせいで、母が私に助け船を出すこともできなくなる。
子供だから失言しろと言ってるようなものだ。
(さすがに意地が悪すぎる…………!)
ここで母の味方は私一人。
その私も敵に回れと画策されている中、はいそうですかと従うわけがない。
こうなったらやってやる。
とてもいやらしい手で使いたくなかったけど、もうこれしかない。
「では、まず主上へご挨拶させていただく栄誉を賜りたいとぞんじます」
「ふむ、良い心がけだ」
寛大なふりでいくらしく、献帝は私に答えを催促しない。
なのでこっちも表面だけへりくだった定型文の挨拶を投げかけた。
身内感覚で許してくれた皇后相手とは違い、顔を上げることができないので、私からは献帝の表情は見えない。
大した反応はしてないだろう。
その上で、私はあえてここで黙る。
「これ、どうした?」
声をかけて来たのは、位置からして皇帝と一緒に入室した宦官の一人だろう。
つまり、たぶん偉い人だ。
「その、主上と、叔母上は、ご一緒ですか?」
「皇后さまと曹貴人なら最初からいらっしゃる」
「いえ、入内なさったのはお三方。もうお一方は?」
私の問いに室内が静まり返る。
皇后である曹節、貴人である曹華。
そして、その二人の姉に曹憲という人物が、いたはずだった。
「…………あ、姉上? まさか…………」
「こ、この子自身生死の境をさまよったのです。死に対してとても感じやすくなっているの。言えるわけが…………」
皇后と母が早口に言い合う。
その言葉ぶりが示す事実は一つだ。
(まぁ、想像はついていたことだけれど)
献帝に入内したのは同母の姉妹が三人。
その一人が皇后に召し上げられるとすれば、年功序列で曹憲が皇后になるはずだ。
けれど現実はそうなっていない。
つまり、もう曹憲という叔母はこの世にいないのだ。
「…………いったい、いつ、身罷られたのですか?」
考えていた台詞を言うだけなのに、声が震える。
わかっていて聞く。
話をそらすために利用する。
死者に対してとても失礼で、おこがましい行いだとわかってはいる。
私は罪悪感から情けなく声が震えた。
「一昨年ですよ」
母が短く教えてくれる。
けれど予想外すぎて、私は思わず母を見た。
だって、去年くらいかと思っていたのだ。
それが一年以上知らずにいた?
寝込み過ぎてて、一昨年のいつなのかさえ予想もつかない。
(あぁ、申し訳ない。申し訳ないけれど、これは利用させてもらうには好都合すぎる)
私は自分の腹黒さが嫌になりながら、なんとか言葉を続けた。
「叔母上の死も知らず、陵に不義理を詫びもせず、私には、孝徳を語る資格は、ないものと、考えます」
「ふむ、身内への不義理故に語ることはないと持ち上げるならば、では孝が上と言いたいわけか」
献帝が空気を読まずそんなことを言った。
さすがに姉のことで皇后も黙ってしまったのに、この方にとって曹憲というかつての妻はその程度ということなのか。
「いいえ」
私はイラッと来て少しやる気になる。
「生まれ育つからには父母の孝、先祖の孝、一族の孝悌のお蔭をもって徳とは何かを学ぶもの。基となる孝さえままならぬ身で、どうして徳目を語れましょう。まずは、叔母上の陵に参って、不孝をお詫びしたくぞんじます」
他人の死を利用した逃げなんて、とてもじゃないけど誇れることじゃない。
(でも、ちゃんとお墓参りはしますから許してください)
念じていると、すすり泣くような短い息遣いが聞こえた。
音の方向を探れば、どうやら貴人が泣いているようだ。
「姉上も、幼くして病に伏せるあなたの話を聞き、気にかけていたのです。こうして、通じる思いもあるのかと、嬉しいような、寂しいような。きっと、あなたがこうして訪れられるほど回復したのは、先に黄泉に降りた姉上のお取り成しもあるのでしょう」
貴人は涙ながらに言い募る。
そんな心配してくださる優しい方だったなんて、余計にいたたまれないわ…………。
私はただ返す言葉もなく一層深く頭を下げるしかなかった。
「本当に、感じやすい子なのね」
皇后も短く湿っぽい声で呟くのが聞こえる。
けれど、利用しようとして話題に出した私は不純で、そんな私より、きっと深くその死を悼んだ方は他にいた。
「きっと、最も感じやすかったのは曹家のおじいさまです。新年のご挨拶に赴いた際には、私の快復を大変喜んでくださり、自ら抱いて祝ってくださいました」
「そう、そうでしょうね」
「父上が…………」
貴人が頷くと皇后も沈痛に呟く。
もう孝だ忠だと言っている場合ではない空気になり、さすがにここまでになると献帝も口を挟まない。
(そこは一言慰めるくらいしてもいいと思うのですが?)
そう思った時、東の海の向こうの知識が湧きあがる。
そこには、以前の皇后である伏氏を、曹家の祖父が暗殺したという歴史があったのだった。
週一更新
次回:精神的疲労