三十四話:忠孝の優劣
「夏侯子林の長姫よ」
やっぱり来た。
皇后が怒りの表情を取り繕って、私に上から声をかける。
名指しだし、これは母に隠れて無視もできない。
「はい、皇后さま」
「そう、皇后として、この後宮の女主人としてあなたに直接下問するという栄誉を与えます。答えなさい。孝と忠どちらが優れた徳目か?」
わー、大人げない。
しかも前振りが雑だし、ないほうがいいくらいだし。
これは母に言われたことを相当に怒ってるか、母が言うとおり驕り高ぶって理不尽をする性格か。
どっちにしてもこんな叔母、嫌すぎる。
「…………まず、ご挨拶申し上げてもよろしいでしょうか」
答えるため前にでて、時間稼ぎで直答する。
呼ばれたしね、その上で礼儀は大事だし、挨拶は必要だよね?
後で無礼打ちされても嫌だから、礼を失したことはしたくない。
だって、宦官っていう後宮で佩刀許された人そこにいるんだよ。
「も、もちろん。ふん、いい心がけじゃない」
皇后はどうやらガツガツ前に出る割りに、その他のことはするっと頭から抜ける性格の方のようだ。
代わりにハラハラしてるのが妹の貴人。
母と違って同母姉妹なのにだいぶ違うなぁ。
「続きまして、曹貴人さまにもご挨拶をお許しいただけましょうか?」
「わ、私? まぁ、えぇ、もちろん。うふふ」
時間稼ぎもあり言ったんだけど、思いの外貴人は嬉しそうだ。
姉の皇后を窺い、許諾のため頷かれると笑みを深めている。
そんなに喜ばれても、私が言うのはとおり一辺倒な挨拶なのだけれど。
七歳だし、型に沿うだけでも及第点だと思ってほしい。
その上で、この意地悪な問いにどう答えようか考える必要があるのだ。
(孝は親や兄や姉、先祖を重んじ敬う徳目。忠は…………あら? 知識にはある。けれど、直接教わった中にはないわ)
母を見ると不安そうな目を返される。
どうやら忠を習ってないのは私の気のせいではないようだ。
今の時代、まだ忠という主従の思いは重く見られない。
裏切り裏切られる乱世だ。
必要なのは天下を憂う仁、正道を尊ぶ義という多くの人間に関わり救いの可能性を示唆する徳目らしい。
忠義という言葉のように、どちらかと言えば義に近い思想の徳目かしら。
(そう私は知ってる。知ってるけれど、この質問はそこが問題じゃないわね)
意地悪な二段がけの罠だ。
この場で主君に尽くす忠をあげれば、孝の範囲に入る母を目の前で蔑ろにすることになる。
だからと言って親子の絆を重んじる孝をとると、ここは後宮。
天子を蔑ろにするも同じだ。
(たぶん、私はまだ誰にも仕えてないとか言い逃れさせてもらえないだろうし…………)
逃げようとしても、たぶん天子を軽んじるような教育をしているのかと、皇后として居丈高に母を攻撃する口実を与えるだけになる。
(すでにある虎の威を借りる狐という言葉は、この叔母のためにあるのかもしれないわね)
なんて、現実逃避してしまいそうだ。
とはいえ、あまり考え込んでもいられない。
「…………何故、私に聞かれるのでしょう? 天子のお住まいであるこちらには、知謀に長けた方などいくらでもおられるはずでは。それとも、何か訳あってのことでしょうか?」
私は逃亡の道を探って、深刻そうに聞いてみる。
これはちょっとした意趣返しでもあった。
「べ、別に? ただの好奇心よ」
さすがに意地悪ですと言うほど厚顔ではなかった。
その上で私にこう聞かれるとは思わずその場しのぎで答えているのがわかる。
だったらきっと、私が孝か忠か質問に沿って答えることしか想定していない。
違う方向に話しを持って行けば、逃げ道はありそうだ。
子建叔父さまたちにはいまいちだったけれど、皇后にはこの手でいける気がする。
「孝と忠、あ、まさか…………」
私はわざとらしくならないように気をつけながらも、結局大袈裟に息を飲む。
「曹家のおじいさまにご相談なさりたいことがおありなのですか?」
「え…………? ち、違います。違いますから妙な気は回さないように! いいから私の問いに答えなさい。孝か忠か答えるだけです」
婉曲に言いつけることを匂わせると、すぐさま慌てて釘を刺してくる。
なのにまだ引かないって、思いの外子供っぽい方だ。
改めて皇后を見ると、私に比べれば大人ではあるけれど、母と比べればまだ若い。
十以上離れていそうだ。
あら? もしかしたら本当にまだ十代かも?
お化粧でわかりにくいけれど、20代前半以上ではなさそうね。
「本当に大丈夫ですか? あ、直接が駄目なら卞夫人がご相談に乗ってくださいます」
諦めろという願いで畳みかけてみる。
「必要ありません。というかあなた、病弱だというのにそんなに頻繁に会っているの? いいえ、いいわ。お父さまは幼い子供を可愛がるもの。ともかく答えをおっしゃい」
私の願い虚しく、やはり拒否した上で催促して来た。
(別に忠だとおべっかを使うのはありなのよ)
ただそうなるとやはり母がマウント取られるだけになる。
私は身近な幸せを望んでいるだけで、徳とか天下とかそんな大きなもの見ていない。
つまり、母を蔑ろにしたら私の目的意識がぶれることになる。
「好奇心であるならば、他の方にも聞かれたのですよね。なんとお答えになったのでしょう?」
「もちろん忠よ」
偉そうに応じる皇后は、そう言うと思った。
「では私に聞くまでもないようですね。聞かれた方が全員一致しておられるのならば」
「み、皆が同じだと面白くないから聞いているのよ」
「では、皇后さまのためにも私は孝と言うべきでしょうか?」
面前でもう忖度しますよと言ってしまう。
しかも皇后が面白いほど素直に応じてくれたので、望む形が作れた。
ここで私の忖度を責めては、あまりに理不尽だし、あまりに見苦しい。
今のさっきで言った自らの言葉があり、皇后もさすがに飛びついては来ない。
どう答えても望むとおりにはならないとわかって、皇后は渋面にすらなる。
貴人は困り顔の上で、ちょっと私に首を傾げた。
(わざと逸らしてるのばれたかな)
一つに集中している皇后はまだ気づいてない。
けど落ち着いたらさすがにわかるだろう。
そうなると余計に嫌がる答えを強要してきそうで怖いけど、この場を逃げれば私には床に伏せているという言い訳がいくらでも使える病弱さがある。
「姉上、あまり子供を惑わせても可哀想ですよ」
貴人が助け舟を出すと、ムッとする皇后。
けれどここで会話のボールを持ってるのは皇后で、私はお伺いを立てた側。
助け船は皇后に引く機会を与えるものでもある。
(忖度しなくていいと言えば、孝と答えても責められない。忖度しろと言えば、結局私は孝と答える)
今度は上手くいったかもしれない。
そう思っていると衣擦れが幾つも重なる音がする。
そして大勢の気配が迫っている様子が音で、空気で、肌で感じられた。
「下に、下に! 天子さまのおなりにございます。皆々さま、お控えください」
入って来た宦官が突然宣言する。
皇后も驚き、母もすぐには動けない。
それほど予定にない、埒外の報せだった。
(今、え? …………天子?)
私たちは慌てて床に正対するような形で低く低く頭を下げる。
嘘でしょ?
場所は後宮、天子の住まい。
けれど私は、こんなところで後漢最後の皇帝と会うことになるなんて思ってもいなかった。
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