三十二話:玉粥
まだ風が冷たいけれど、日差しは刻々と暖かくなっている。
そんな日に、私は文をしたためていた。
正直、調子のいい時にやらないと頭も回らないこの体。
けれど予定していたお客が来てやめた。
相手は仲良しの兄妹、夏侯の大兄と小妹だ。
「最近起きてることが多くなったけど、文は誰に?」
大兄が、室内に漂う墨の匂いに気づいて聞いてくる。
先ほどまで書いていたから、墨を乾かすために広げておいてあった。
覗き込むようなことはしないけど、大兄も小妹も気になる様子だ。
「荀家の末子で、奉小と呼ばれる方よ。お正月の後から文通を始めたの」
「奉小? 聞かないな。令君のほうの荀家か?」
「れいくん?」
大兄はわかったみたいだけど、この中で一番年少の小妹わからないようだ。
年齢的には仕方ない。
私だって直接は知らないし、夏侯家では活躍も耳にしない相手。
知っているのはひとえに、後々まで海の向こうまで名を知られる功績を残した方だから。
「荀令君、荀文若さまよ。四年前に亡くなられた、おじいさまが子房と讃えた才人なの」
東の海の向こうの知識にもある方で、王佐の才を持つと言われた軍師だ。
いつでも香しいと言われ、令君とあだなされた。
荀家自体が儒教を重んじるため、常に規律正しく生きたお方だ。
そして、死の直前におじいさま、曹操に歯向かい暗殺まで噂された方。
そのため、あまり私たち幼い者の前では語られない。
「なんで奉小と呼ばれているんだ?」
大兄も私たちとそう歳は変わらない。
だから荀令君は馴染みはない方で、その死にまつわる話は知らないようだ。
逆に知ってしまった私がちょっと奉小に対していたたまれない。
けどさすがに苦いお茶と違って、共有するほど私も鬼じゃない。
ここは当たり障りのない話題で答えよう。
「令君のご子息は皆、字に倩がつくの。だから奉小は字を貰ったら、奉倩を名乗ることが決まってるのよ」
「あぁ、あいつが阿栄と呼べとうるさいのと同じか」
大兄が言うのは夏侯栄と名乗ることが決まっている親類。
決まってすぐに阿栄と呼べと言うのだけど、意味は栄未満、転じて栄ちゃんというような呼びかけなのよね。
とても待ち遠しいのがわかるけど、成人として字を貰うのだから落ち着いてほしい。
「一緒にしたら可哀想よ、阿栄ほど落ち着きがない方ではないし」
たぶん家での呼び名からそう名乗っているだけだ。
兄弟は上から順に伯、仲、叔と名付ける風習がある。
親戚である夏侯妙才さまの息子もそうなので、きっと阿栄は幼権という字になる。
「それで、どのような方ですか? 阿栄よりも落ち着いていらっしゃる以外に」
「奉小? うーん、まだよくわからないわ。だってお正月の終わりくらいに出会ったばかりだもの」
興味を窺わせる小妹に答えたいところだけれど、言ってしまえば顔を合わせたのは一度切りのまだ知り合いていどの相手。
悪い人ではなさそうだけれど、それでもまだ探り探りの文通だ。
「まぁ、大哥よりは文通はしやすい、かも? 物腰も柔らかい感じだし」
「それ、司馬家の? 性格に問題があるのか?」
大兄が前のめりになって聞いて来た。
心配してくれているのかしら?
ただ相談が重いくらいなんだけど…………その、仲達さまと奥方の夫婦喧嘩の止め方を聞かれても、ちょっと困る。
それで言えば子桓叔父さまの息子の元仲も、文通に頭を悩ませる相手だ。
母である甄氏の下へ父である子桓叔父さまが現われないなんて、そんな話の解決方法なんて七歳の私が知るわけがないのに。
えぇ、どちらも親の夫婦仲についての相談が来るのよ。
「大哥は弟思いの良い方よ。知識も豊富だし、見識の深さに驚かされることもあるわ」
なんというか、大哥が真面目。
奉小はちょっと洒落た話題もいける。
家風なのか、長子と末子の差かもしれない。
「政略としてどちらの家もありだしな。長姫はどっちがいいとかはないのか?」
「なぁに? おうちから探るよう言われたの?」
踏み込んでくる大兄を軽く睨むと、小妹まで胸の前で指を組んで言ってきた。
「あの、長姫が何処へお嫁に行くかで、私も何処と縁談を結ぶべきか変わるそうなのです」
小妹の無邪気だけれど、重大な話しに、私は衝撃を受ける。
いや、今さら衝撃を受けるなんておかしなくらい当たり前の話だ。
司馬師となる大哥は本来小妹の夫となる。
それがどうしてか、今、私に求婚しているのだから小妹に影響しておかしくはない。
(けれど小妹は結婚すれば殺される。つまり、これは、いい変化?)
けれど次に危なくなるのは結婚話が出てる私だ。
小妹が殺されてしまう理由が、夏侯家出身というだけだから。
「いえ、その、私…………体が、弱いし…………」
苦しい言い訳に小妹は無邪気に笑う。
「長姫は頑張っていろいろしてるのですから。お茶やお粥を作って、体を丈夫にしようとしていますし、きっと大丈夫です」
心からの応援だぁ。
ありがたいけど違うのぉ。
「確かに、最近は起きて出迎えることが増えたもんな」
「そうね、小妹が言うとおり気をつけているもの」
大兄も言うので頷きはする。
するけど、これは南征で父を見張るための努力だ。
別に結婚のためじゃないのになぁ。
「お粥きれいって聞きました。長姫はすごいって」
「あれね、あれは元から野草を入れて食べるお粥の色味を気にしただけで。物は元からあったのよ。言うほどじゃないわ」
小妹がいうのは実はただの七草粥だ。
東の海の向こうでも食べ続けられている。
その知識があるせいか、初めて見た時に色が悪いと私は思った。
何せお米がまず黄色味を帯びている。
そして野草は全て茶色。
全体的に茶色っぽい色のついたお粥。
「私がしたことと言えば、野草を煮る時間を短くして、上に陳皮を乗せたくらいよ」
お米は突いて精米をすれば白くできるけど、それじゃ栄養価が落ちると言う知識がある。
ただ糠の味が強くてあまり美味しくはない。
野草も土っぽくて困ってしまった。
だから陳皮を添えてみただけ。
「陳皮ってなんですか?」
「お薬の一種よ、小妹。蜜柑の皮を干して作るの。食欲を良くしたり、痛みを和らげたりするそうよ」
蜜柑は高級品だ。
けれど曹家の祖父の好物なので、案外簡単に陳皮は手に入った。
香りをどうにかしようと思い、東の海の向こうの知識に頼った結果である。
そこでは七味と呼ばれる薬味に、陳皮がいれられ香りづけから食欲増進に使われていたのだ。
「まるで玉のように美しい粥を作ったそうだな」
「そこまでじゃないわよ?」
大兄がずいぶんと大仰な言い方をするので、私は驚いてしまう。
玉は乳白色の宝石で、東の海の向こうの知識だと翡翠なども玉と言われるらしい?
「黄味がかった白に、緑が差して、濃い橙も見られます。確かに磨く前の玉にたとえられておりますよ」
部屋に控えていた侍女が補足してくれた。
どうやら私が知らないだけでそういう噂になっているそうだ。
ただ健康と食欲のためだったのにな。
「うふふ、長姫は色んな人が話題にします。それだけ長姫の才知は、体の弱さがあっても曇らない証左です。きっとお嫁にも行けますよ」
「小妹、それいい話題? 病弱なくせに口だけ達者とかじゃなくて?」
疑う私に笑顔で頷くので、嘘はないようだ。
自分でも色々やってる気がするけど安心?
いえ、結局結婚相手を選び間違えたら命の危機もあるんだけど。
「…………負けてられないな」
何故か大兄が真剣に呟く。
けれど今の話の何処に勝ち負けの要素が?
私は自分で手いっぱいです。
大兄もそんな張り合おうとしないで。
ただのお粥の話なんだからね。
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