三話:老生の奸雄
「ほう、愛らしい白狐を抱えておると思えば、珠のような長姫ではないか」
満面の笑みで毛皮の上着に包まれた私を覗き込む老年の男性は私の祖父。
名は曹操、字を孟徳。
乱世の奸雄と歴史に名を遺す英傑にして、この国の人臣の長、丞相を務める偉い人だ。
そんな人が相好を崩して父の腕から私を受け取り抱き上げる。
完全にただ孫を溺愛する祖父のそれだ。
「熱はもういいのか? うぅむ、軽いのう」
「お父さま、宝児が冷えてしまいます。話すのならば室内で」
母はこの国一番の権力者、曹丞相を相手にはっきりと物を言う。
(まぁ、母はその権力者の愛娘で、祖父の子供の中で一番の年長者だし)
東の海の向こうとは常識が違う。
年功は重く、それだけ長生きが難しい時代でもある。
知識を紐解けば、母には二人の兄がいたものの二人とも結婚もせずに死んでしまっているらしい。
そのため生き残った母をこの祖父は可愛がり、また幼くして生死の境をさまよった私を気にかけるのだろう。
「おう、来たか。子林」
「これは父上。また曹丞相の所にいらしていたのですか? 遅れたご挨拶は屋敷に窺ってと思っていましたが」
奥の部屋に向かう間にひょっこり上背のある五十がらみの男性が現われた。
顔には特徴的な眼帯をはめている。
そう、この人も私の祖父。名は夏候惇、字は元譲。
父の父であり、河南尹という名誉職を十年以上務める、やはり国の偉い人。
「まぁ、おじさま。お久しゅうございます。のちのち改めてご挨拶に参りますが今日はどのような御用向きで?」
母も親しく義父に声をかけ、婚家を後回しにして新年の挨拶に来ていることを悪びれもしない。
何せ血縁であり、家の上下がはっきり決まってしまっているので、私も身に覚えのない知識がなければ全く不思議に思わなかった。
「そろそろお役御免してもいいだろうとな」
「またですか」
夏侯の祖父に対して母が『また』というと、それに曹家の祖父も頷く。
「まただ。高位に上っていることの何が不満なのか。わしの思いやりを無下にしよる」
「何が思いやりだ。わしだけ所属が違うほうが問題だろう」
夏侯の祖父が不服を隠さず、また私邸の内ということもあってか気安く言い返した。
これは元から私も知っている。話の内容から不臣の礼のことだろう。
夏候惇にのみ与えられた特権であり、曹操が臣下としては扱わないという特別待遇だと東の海の向こうの知識にもある。
つまり、名だたる魏王曹操配下の中で夏侯の祖父だけが漢王朝の臣下という身分で、自らの下として扱わず、そうであっても信頼するという意思表示。
夏侯の祖父はそれを長年不満がっているというのは有名な話だ。
(そして両親の反応からこの不服申し立ては今に始まったことじゃないと)
そんな話をしつつ、屋敷奥の家族のみが入れる空間へと私たちは移動した。
そこには曹家の祖父の未婚の子供や夫人たちが暮らす場所。
何故か私は祖父に抱かれたまま毛皮に包まれて動けないのだけれど。
あの、これいつまでこのままなんでしょう?
「もう、勝手に迎えに行ってしまって。困った方」
正妻の卞夫人が私を放さない祖父に向かって微笑みかける。
挨拶は通り一辺倒で、母と卞夫人は仲が悪いわけではないが親しみは薄いようだ。
(母の生母も養母も違う人だからなぁ。そうか、子供も死にやすいけれど母親も死にやすいのよね)
七歳になったばかりの私では知りえない内情だけれど知っている。
母の生母は曹操最初の正夫人、そして養母は次の正夫人だ。
卞夫人は三番目の正夫人にあたる。
(これはちょっと、違う国の常識を知ってしまうと複雑な家庭に思える)
けれど今は珍しいことではない。誰も死にやすいから。
そしてこの場にいるのは正夫人のみならず側室たちも一緒だ。
つまり一夫多妻が珍しくない時代。
そして若い妻には若い子供もいるし、まだ十代の叔父や叔母もいた。
そんな人たちの中でひときわ小さい私。
うーん、これは祖父に可愛がられているというよりも心配されてるのかな?
「長姫よ、向こうに美味い菓子を用意しておるから行こう。お前たちはゆっくりしているといい」
「おい、いい加減降ろしてやれ。もしくは俺に貸せ。夏侯の子だぞ」
「いやじゃ、お主はなんでも粗雑であろう」
「そっちこそ度が過ぎてやらかすのはいつものことだろう。やらかす前に引き受けてやろうというんだ」
何故か祖父たちが私の取り合いを始める。
父母や親類たちは笑って見送るのだけれど、あの、歩けるんですけど?
(一番の年長者たちがこれだと誰も文句は言えないんだろうけど。猫可愛がりというか)
私は祖父に連れられて食堂である建物へ。
正直運んでもらえるのは楽なので大人しくしている。
何せこの国一番の権力者のお屋敷、広いんだ。
まだまだ成長しきれない足では追いつかない。
「これは丞相、む? 何を抱えておられる?」
「子桓ではないか。いつ来ていたのだ?」
食堂では先客がお菓子をつまみ食いしていた。
まだ若く理知的な顔立ちが状況と合ってない。
いえ、私は知ってる、この方も親類なのだから。
名は曹丕、字は子桓といい母方の叔父に当たる方。
(うわー、将来皇帝になる人がつまみ食いしてる…………)
そう思ってしまっている時点で、やはりすぎた知識のせいで人を見る目が歪んでしまっている私。
今までも顔を合わせたことのある方なのに。
(しかも曹家の祖父が死んですぐに帝位へ…………あれ? 今なん年だろう?)
私は思わず抱きかかえる腕を掴んだ。
「うん、どうした? 菓子は十分用意したから子桓に盗み食いされてもまだあるぞ」
「盗みとは失礼な。ちゃんと屋敷の者には声をかけましたよ」
曹家の祖父に子桓叔父さまが悪びれもせず答える。
「その上でわしらに言うなとでも口止めでもしたか?」
「おや、元譲おじは今日の空のように珍しく冴えていらっしゃる」
片目で見えにくいのか、表情が厳めしい夏侯の祖父に睨まれても子桓叔父さまは気にしない。
その辺りは曹家の祖父と同じで親子らしいとも思えるけれど。
けれど私は平静でいられなかった。
今が西暦でなん年か。
それはとても重要な問題だ。
(いえ、そうよ。ここにはちょうど指標となる方がいる)
私は曹家の祖父を見つめた。
「おじいさま、私は今年で七つになりました。おじいさまはおいくつになられたのでしょう?」
「おぉ、もうそんなになるか。わしも六十一、いや、二か? なんにしても老境よな」
「衰えを語るのだったらその子をこっちにだな」
夏侯の祖父が手を出すけど曹家の祖父は身を翻して避ける。
抱かれたままの私は茫然としていた。
(曹操は西暦百五十五年生まれの、二百二十年没。つまり…………)
楽しげに孫の私を抱いて戯れる祖父を見る。
(数え年で六十二なら、今は西暦二百十六年。おじいさまたちは、あと四年で亡くなってしまう)
夏侯の祖父も、曹家の祖父の後を追うように同年亡くなる。
茫然とする私と目が合った子桓叔父さまは、四年後など知らず笑って菓子を手にこっちへやって来た。
「ほら、美味いぞ」
「…………うぅ」
「む? 子桓、長姫に何をした?」
「あなたが用意させた菓子を食わせただけです」
「お前が振り回すから気持ち悪くなったんじゃないのか?」
菓子を含んだ私の呻きに、男三人が長椅子に私を降ろして言い合う。
(違う、違うけど、言えない。…………この叔父もあと十年で亡くなるだなんて)
そして知識が教える。
これから先の四年で、祖父の晩節を汚す大敗が待っていることを。
私は家庭事情以上に重い事実に、甘いお菓子を噛み締めながら涙を浮かべることになった。
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