二十五話:永の失恋
はい、今日も今日とて抱えられています。
数えで七歳、病弱やせっぽちで周囲より小さいけどちゃんと足はあるんですよ、私。
なんて言いたいけれど今日はそうもいかない。
何せ私を抱えてるのは母上なのだ。
「やはりいましたね、子建」
「これは姉上、それに長姫も」
ここは丁家。
正礼どのは私たちの後ろを追いかけて来て困ってる。
そして子建叔父さまは前回いた座敷にまたいた。
母は的確に子建叔父さまがいるだろう場所を目指して私を抱えて来たのだ。
「ご挨拶が遅れましてもうしわけない」
「上辺だけでも取り繕おうとするのなら、その手に持った竹簡を降ろしなさい」
「いやぁ、これは『笑林』という笑い話を集めた物で。なかなか目が離せず」
母に指摘された子建叔父さまは、居住まいを正すどころか竹簡に目を戻す。
なんというか、身内に対してふてぶてしい?
隣に居合わせた正礼どのの弟、敬礼どののほうが慌てているくらいだ。
母は私を降ろして、子建叔父さまの手から竹簡を取り上げて丸めて返す。
「わたくしの宝児を泣かせておいて、怒り狂った子林ではなく私が来たことを喜びなさい」
「え、子林が? まさかぁ」
子建叔父さまは冗談だと思ったようだ。
けれど母は、信じないことを予想していたらしく息を吐く。
「はぁ、やはり人を見る目というのは子桓のほうがあるのね。その分あの子は融通の利かないところがあるけれど」
「副丞相どのに人を見る目?」
正礼どのがすごく納得がいかないと言わんばかりの声を漏らす。
すると母は振り返って言った。
「子桓はわかっていましたよ。子林が夏侯元譲の息子であることを。尊敬する者を侮辱することはするなと、輿入れ前に忠告するくらいには」
「元譲おじですか? あぁ、あの若い頃に師を侮辱した相手を殺してしまったという」
怖…………夏侯のおじいさま、昔やんちゃにしてもやりすぎでは?
それを当たり前に語る子建叔父さまも怖いけれど、気にしてるのは私だけみたいだ。
それだけ死が近い世界。
私は子供で守られているし、周囲の大人は死を遠ざけてくれる。
きっとこの時代ではとても恵まれた暮らしをしているんだろう。
そしてその大人の中には、子建叔父さまも正礼どのも含まれる。
やっぱりそんな人たちに殺し殺されの争いなどしてほしくはない。
「母上、私は泣かされたわけでは…………」
「わかっています、いますが、何故泣いている子を母の元から離すのですか。まずは私の下へお連れなさい。お蔭で子林を宥めるのに苦労しました」
「姉上が、子林を宥める?」
想像がつかないらしく子建叔父さまは首を捻る。
確かに私もあれは困った。
父は結局母の涙にも気づいてやはり丁家へ殴り込みに行きかねない様子で怒ってしまったのだ。
そして今日、母が話をつけて来ると父を説得して出て来た。
私は念のため一緒にと言われて来たんだけど、いきなり子建叔父さまに突撃されて驚いてばかりだ。
「それはいいのです。話は子桓のこと。子桓の人物眼です。あの子は…………私が求めていたのが、正礼でないこともわかっていました」
母が言いにくそうに告げても、子建叔父さまはわからない顔のまま。
敬礼どのも話の繋がりが読めないのか、私と母の顔を順に眺めて首を捻る。
けれど正礼どのだけは思うところがあったらしく言葉を紡ごうとした。
「それでも」
「いいえ、私もあなたももう婚姻を果たした者同士。それ以上はいけません」
母はきっぱりと、言われる前に正礼どのの言葉を拒絶する。
二人にしかわからないやり取り。
だけど正礼どのは拒絶を確かに聞き取って拳を握った。
「何より、子桓が私を最も重く用いる相手を選んでのこと。その判断は父も支持しました」
「しかし! それなら曹丞相は後悔を口にするなど…………」
「他人に決断を任せればそう言うこともあるでしょう。けれど、私はこれで良かったと思っています」
母はいっそ言ってすっきりしたように顔を上げる。
「よく掴めないけれど、たとえばどこが子林と結婚して良かったのかな?」
子建叔父さまは怖いもの知らずに質問した。
見れば、愁嘆場の気配をまったく気にしない純粋な疑問の表情だ。
「私のために正房の奥に正房と同じ規模の棟を建てるなんて、正礼はしないでしょう?」
「う、いや、君が、望むなら」
「私が夏侯家の方を慕っていたとして、子林の元へその方を訪ねに行くのを小言の一つもなく見送れて?」
「そ、れは…………つ、妻として節度が、あるなら」
「自家より先に新年の挨拶を曹家になさる? 自らの死後を思って私と娘のために吝嗇のそしりを受けても蓄財に励む?」
「そんな、え? 夏侯子林がそう言ったのか?」
正礼どのが驚くけれど、子建叔父さまも驚いていた。
「商人の真似事が好きなのかと思っていたな。あれは戦働きができないことを理解した上での備え? それにしてもやり方が不器用だ」
「夏侯の祖父にずいぶんと怒られてもやめないので、好きではないような気がします」
口を挟む私に、子建叔父さまは頷く。
「確かにあの元譲おじに怒られてはやってられないね」
「だが、それで君まで恥ずかしい思いをするのは違うだろう?」
納得する子建叔父さまを横目に、正礼どのは食い下がるように言った。
「確かに恥ずかしい思いはしましたが、知れば納得もしました。この子を思えばいくらあっても足りない。私の化粧領の碌もきちんと積み立てないといけないと、いっそ先見があったことを見落とした自身の不明を恥じる思いが強くなっています」
「今から? ずいぶん派手な婚礼をするつもりなんだねぇ」
「教育資金ですよ」
子建叔父さまに母は言い切る。
もう敬礼どのは首を傾げたまま動かない。
話について行けてないようだ。
「母上、話しが逸れています。今は私のことではなく」
「そうでしたね」
母は、正礼どのを見る。
そして頭を下げた。
「私は丁家に入りたかっただけ。そんな私欲にあなたを惑わせたことを謝罪いたします。おこがましいことでしょうが、どうか、今後も母と会うことをお許しください」
「…………それでも、私は…………清河公主、君を」
「私も母となり、子を得て、夫を思っております。それ以上のお言葉は、なんの益にもなりません」
愛を囁かれても靡かない。
そんな母の拒絶に正礼どのがふらりと体を揺らした。
「あ、兄よ! 危ない!」
敬礼どのが慌てて立って支える。
ここは回廊で、庭より一段高いのだ。
落ちて打ちどころが悪ければ怪我をする。
正礼どのの腕を取った敬礼どのは、戸惑いも露わに母を見た。
「兄とは、相思相愛だとばかり…………」
「親しみ、好ましいとは思っているわ。けれど、それが恋だったかと言われると違うのでしょう。愛と呼ぶには私の思いは打算でした。けれどそれが正礼の思いを否定することにはならない」
母は私を見てから正礼どのに視線を向ける。
私を見る目には確かに親としての愛情がある気がした。
「私は、今後南へ行くだろう子林についてここを離れます」
「姉上が?」
子建叔父さまはもちろん、丁家の兄弟も驚きを満面に表す。
その様子に母はばつが悪そうに視線を逸らした。
誰でも母は危険にはついて行かず残ると思っていたし、父に対する思いもその程度だと認識していた証左だ。
それを改めて他人の目を通して突きつけられている母は、一度気まずげに視線を泳がせた。
子を鎹として育った父への思いはあっても、表してこなかった過去にばつの悪い思いがあるのだろう。
「宝児が、子林の怪我を心配してついて行くと言うのです。私も行くしかないではありませんか」
言い訳のように言って母は頬を染めた。
泳ぐ視線の先で、私と目が合うと照れたように笑う。
回廊を吹く風は冷たく、母は風から私を守るようにもう一度抱き上げた。
寒風の中、回廊に座り込んでしまった正礼どのは、母を見上げていた首を落とすように曲げる。
「…………あぁ」
正礼どのの失恋の弁は、万感の思いの籠った嘆息に集約されたようだった。
週一更新
次回:難題を振る