二十四話:愛しいという心
子建叔父さまの争う心づもりを聞いてしまった私は、仲達さまのお宅で盗み聞きした内容をちらつかせて交渉を行った。
結局互いに秘匿することで落ち着き、それだけで別れることになる。
結果としては大人に気を使いすぎだと言われただけ。
交渉でちらつかせた内容も、向こうは想像がつくという。
あまり相手にされてなかった事実にちょっといじけながら、私は正礼どのに手を引かれて母の元へ向かった。
「まぁ、遅いと思ったら正礼が見ていてくれたのね。ありがとう。わたくしたちはこれで失礼をするわ」
母は顔を隠すようにして早口に挨拶をする。
理由がわかっている正礼どのは、何か言いたげにしていたけれど引き止めなかった。
その様子に丁氏は思うことがあったようで私を見る。
「正礼どのとは楽しくお話をさせていただきました。戻らずにご心配をおかけして申し訳ございません」
聞かれる前に先手を打って何もなかったと告げると、丁氏は心配そうだけれど聞かずに送り出してくれた。
そして帰ると母はすぐに奥へと退く。
「お化粧直しをしてくるわ」
泣いたら崩れるのは、海の向こうの知識で知っているからどうぞごゆっくり。
丁氏の所で軽く誤魔化しても一度崩れると最初から直さなければいけないのだろう。
だから帰る間、私にも顔が見えないように必死に隠していた。
私は母と別れ、常に温かくされている居間である正房へ向かう。
するとそこには父がいた。
「父上、ただいま戻りました」
「あぁ、門の開閉が聞こえていたよ。お帰り、宝、じ?」
声をかけると応じてくれた父がこちらを向いて硬直する。
わからず近づくと床に膝を突いて視線を合わせて来た。
「どうされました?」
「それはこっちの台詞だよ。何故涙の痕が?」
しまった!
お化粧なんてしてないけれどぼろぼろ泣いたのだ。
そのせいで目元が赤くなっているんだろう。
「いえ、あの…………」
「言えないことかい?」
父は顔を険しくして神妙に聞く。
これほど眉間を険しくしている顔は初めて見るし、その眉の形が夏侯の祖父に案外似ていた。
ただこれは悪い想像をしていそうだ。
「な、なんでもないのです」
「だったら言えるだろう? 君が言わないということは、まさか丁正礼に何か…………」
「いえ! 正礼どのは関係ありません! 泣いている私を慰めてくださいました!」
「なんで泣くことになったんだい!?」
落ち着こうと努めていた父も取り乱す。
そしてそのまま何かを睨むように遠くを見た。
「正夫人であった丁氏の元へ行くことを止めるつもりはなかったけれど、まさか子供にまで…………。いくら本人が丁氏にしか目が行かないからといって子供に八つ当たりとは…………!」
「父上、父上! 落ち着いてください! 正礼どのは悪くありません!」
「では何故宝児が泣かなければならないんだい? 丁正礼が過去のことを引き合いに傷つけるようなことを言ったんだろう!」
完全に悪いほうへ想像を膨らませてしまったようだ。
その上今までに見たことがないくらい声を大きくして怒っている。
「あぁ、確かに私は後から割り込んだ形だ。だからって子供に罪はないのに、泣かせるだと? 才あり、人物はできていると思っていたのになんて卑劣な!」
拳を握り締めると、父は私の目の前から立ちあがる。
危険を感じた私は、咄嗟にしがみついて歩きだそうとするのを止めた。
「父上! ど、どうするおつもりですか?」
「思い合う二人を引き裂いたと罵られるなら私だ。だからと言って宝児に手を出して指をくわえて見ているわけにはいかない!」
「私が泣いた理由は正礼どのではないです!」
「では丁敬礼か! 兄を慕うにしても限度がある! 宝児は何も悪くない!」
確かに敬礼どのは兄である正礼どのに同調していた。
けれど丁家の兄弟はどちらも子供相手に泣かせるような大人げない人ではない。
「ひ、引き裂いたとは、どういうことでしょう!」
私が言い訳をしても高ぶるだけの父の足元で、裾を掴んで思いつくまま声を上げた。
瞬間、父が私を見下ろす。
…………顔にしまったとでも書いてあるようだ。
私の父は国家運営に携わる役職についているはずなのだけれど、こんなに表情が素直で大丈夫かしら?
「い、今のは、ね…………その…………」
「母上も、正礼どのをお好きだったのですか?」
「う…………」
口にしたら父は胸を押さえて呻く。
そのまま萎れるように床に屈みこんで来た。
「もしかして、私と君の母との結婚について、何か聞いたのかい?」
「決して私に直接そう言う方はいらっしゃいませんでした。ですが、周囲の反応から察せるものもございます」
「あぁ、君は本当に私の子には勿体ないくらい賢いね」
父は己の失態を振り返るのか、溜め息を吐く。
「そうだ、私には勿体ない。それでも、選ばれたならと私なりに頑張ったんだ」
「父上…………」
「丁氏が正夫人であった幼い頃から、丁正礼とは仲が良かったと聞いている。曹丞相から結婚の打診をじかに貰えるほどの才もあった」
「母上は、正礼どのにお嫁入りしたかったのでしょうか?」
「そうだろう。だって、そうすれば晴れて母と慕う丁氏と縁続きだ。私よりもずっと、丁正礼のほうが夫として魅力的だったさ」
父は寂しげに自分の価値が下だと認めた。
そしてそう聞いて、私も否定できない。
それほど正礼どののほうが父より声望が高いし、用いられ方も重い。
そして父と母の結婚は子桓叔父さまによって結ばれたため、両親の気持ちは反映されていない。
その上で母が丁氏を養母として慕うのも周知の事実だった。
(政略結婚に文句を言うなんていい大人はしない。それでも思い合っていた二人を裂いてとなると、政略結婚だからなんて言い訳は通じないでしょうね)
父が落ち込む側で、私も落ち込む。
愛されてるとは思っている。
けれどそこに母の気持ちの上での犠牲があったのなら、申し訳ない。
「私は、母上の重荷なのでしょうか」
「宝児、それはちが…………!」
父が慌てて私の言葉を否定しようとした。
けれどその言葉を遮るように居間の奥へ続く戸が開かれる。
「そんなことあるわけがないでしょう!」
見れば奥の自室から戻ったらしい母の姿があった。
我が家は正房の奥に奥の棟があり、そこに私と母の部屋がある。
正房には父の寝室があり、父は夜母の元へ通う形を取っていた。
そのため正房の奥には別の入り口があったのだ。
「あぁ、宝児!」
母が座り込む父ではなく立っている私に抱きつく。
「こんなに目を腫らして! ごめんなさい、気づかずに!」
「え、君が気づかない? いったい丁正礼の屋敷で何が!?」
母の溺愛を知っている父がまた不安に襲われるようだ。
そんな父を母は睨むように見据えた。
途端に父は床の上で背筋を伸ばす。
「おかしな勘違いを宝児に吹き込むのはやめてください」
「それは、その、うかつに話してすまない。けれど、君には悪いと思っていたんだ」
父は悄然と肩をすぼめて項垂れる。
その姿に母も床に座り父に正対した。
「まず、勘違いを正しておきます。正礼との婚約の折、私が浮かれていたのはあなたが言うとおり母と縁続きになれるためです。決して、あれは…………恋ではなかった」
正礼どのとの結婚を心待ちにしていた母。
けれどそこに恋い焦がれる思いはなかったと、少しの罪悪感を交えて告白する。
「子桓が口出ししたと聞いて私も詰め寄ったのです。するとあの子は、私は結婚しても何処に嫁いでも曹家の長姫であり続けることをやめられないと言いました。だから、そうあり続けることのできる相手を薦めたのだと」
母は悔しそうに結婚前の顛末を語った。
「今ならその言葉が正しかったことがわかります。それに恋ではなくとも、今はこの子の父親として、あなたに情愛を抱くくらいの思いは育っているのです」
母は私を引き寄せると、まるで人形のように抱きしめて父を見ない。
けれど赤く染まった母の耳は見えているようで、父は真っ赤になって何も言えなくなったのだった。
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