二十話:母の涙
母が泣いていた。
私が熱で意識が戻らなかった時にも泣いていた気がする。
けれど今は童女のように丁氏に縋りついて涙しているのだ。
また丁氏を訪ねてやって来た日のこと、私がお手洗いで中座した少しの間。
戻ってきたらこうなっていて、声が聞こえたからつい隠れてしまっている。
「あの子が早世してしまうと思うだけで、こんなにも、苦しい…………!」
母が泣いている理由はどう聞いても私だ。
けれどこっそり盗み見た姿は、母ではなく不安に泣く一人の人間だった。
「ごめんなさい、私はあなたを怨みました。だって兄たちがいなくなっても私がいるのに、どうして置いて行ってしまったのかと」
「それは、ごめんなさい。けれど、どうしても、耐えられなかったの」
「いいえ、母になった今ならわかるのです。他に一人いるからいいという話ではないのだと」
丁氏は母を含む曹家の祖父の子を三人養育した。
そして長兄は戦争で、次兄は病気で、どちらも若くして亡くなったという。
「私も、今にして思うのです。どうしてあの時、亡くした子のことを思って涙にくれて、あなたを顧みる余裕を持てなかったのだろうと」
丁氏の声も湿って震える。
「あの頃、泣く母上を見て、いつ儚くなってしまわれるか、私も不安でした。それだけ愛してくださっていたのだと今ならわかります」
「えぇ、愛していたわ。愛しているわ。だからこそ、あなたまで死んでしまうのが怖くて、私は逃げ出した。あなたを残して。恨み言なら受けましょう。けれど、あなたはどうか恐怖で自身の子を見ないふりはしないで」
「はい、はい。あの子も生きようとしてくれています。けれど、どうしても、どうしても思い出してしまうのです。まるで…………倉舒のようだと」
丁氏も泣いてるけどそちらは後悔の涙なのだろう。
母はもう声を詰まらせていて恨み言も不安も漏らさない。
けれどその泣き声は悲痛だった。
立ち尽くす私に影が差す。
「しぃ…………」
振り返るとそこには正礼どのがおり、案じるように泣き声の聞こえる室内を見る。
そして私に向き直ると片目を困ったように細めて手を取った。
そのまま手を引かれて部屋から離されることに安堵する。
正直居づらかったけれど、どうすることもできなくて、前にも後ろにも行けなかった。
(泣いているのは知っている。不安がっているのも知っている。けれど、私では母の不安を受け止めきれない)
正礼どのに連れられて、私は奥のほうへと導かれる。
十分離れると、正礼どのは短く告げた。
「君が悪いわけじゃない」
「ですが、母上が涙されるのは、私に関わるためです」
正礼どのは困った様子でこちらを見下ろすけれど、言葉が見つからないらしく沈黙した。
もしかしたら慰めのつもりで言ったのかもしれない。
だったら否定するだけでは申し訳ない気がする。
「お、兄よ。何処へ行っていたんだ?」
私が口を開いた瞬間、正礼どのに声がかけられた、
聞こえる別人の声に見ると、小さな脇の庭を巡る廊下に座敷を設けて四人の人物が座っている。
「おや? 見たことがあるな、その子は。姉上の長姫じゃないか?」
言ったのは両親と近い年代の男性。
向こうが覚えていたように私にも覚えのある方だった
「子建叔父さま」
「おっとしまった。姉上に挨拶もせず飲んでるのがばれた」
悪戯っぽく笑う、子建叔父さまが笑っている。
曹家の祖父の三男で、子桓叔父さまの弟。
子桓叔父さまも意地悪は言うけれど、進んで誰かを殺すような凶暴さはない。
先を思えば今この時の平穏が嘘のようだ。
けれどそんな先を思っている人なんて、私以外にいない。
(…………どうして私は辛い未来を知ってしまったのだろう)
母が先を思って泣いている姿に引き摺られている自覚はある。
けれど自覚していても感情は追いつかず、そう考えた時私の目からも涙が零れた。
正礼どのはぎょっとして私の手を放す。
「兄よ、まさか夏侯子林憎しで幼子に何か…………」
「ち、違う! 私とてそこまで大人げないことはしない!」
疑いの声に正礼どのが慌てる。
兄と呼ぶならきっと弟の敬礼どのだろう。
(だからどうして族滅なんて知識出るの…………)
将来、子桓叔父さまに睨まれて、兄である正礼どのといっしょに族滅されるという。
もう何が悲しいかわからないけれど、私はさらに涙が零れた。
「ともかくこちらに座らせて落ち着かせるべきだろう。あぁ、可哀想に。泣きたいなら声を放って泣いていいのだよ?」
そう言ってくれるのは私の祖父くらいのお年の方。
「季才どののいうとおりだ。まずは座ろう、長姫。徳璉、そっちに避けてくれ」
子建叔父さまが手招きするので従うと、私が座る場所を父くらいの年齢の方が避けてくださる。
もしおじいさまくらいの方が楊季才というのだったら、この方も継承争いのあおりを食らって死に追いやられる。
そして徳璉と呼ばれた方は一年後に疫病で…………そんなこと知りたくもないのに、思考が悪い方向へ行ってしまう。
「病がちと聞いているけれど、何処か苦しいかい?」
「子建どの、たぶん健康面ではないと…………」
心配する子建叔父さまに正礼どのが言葉を濁す。
「なん、なんでも、ないのです。こまらせて、しまい、申し訳、ございません」
なんとか引き攣る喉を動かして言うけれど、周囲の目は納得してない。
情けない。
気分が落ち込む。
涙も止まってくれない。
母が泣いている姿が酷く胸を塞いだ。
「その、清河公主が、少し内密な話しをしているのを、この子が聞いてしまって」
「子供には衝撃的な内容だったと?」
言いつくろおうとする正礼どのに対して、敬礼どのが首を捻る。
けれどそれに他の方々もそれぞれが解釈をして言い合い始めた。
「よくあることだが、家を離れて家庭内の愚痴を零す。あの夏侯子林が相手ではな」
「子供が聞いてるとは思わなかったということですか。それはなんとも不幸な」
変な方向に話が進み始めるので、私は父の名誉のためにも訂正を試みる。
「違うのです、私が、生まれなければ、母も…………泣かず…………」
声を詰まらせながら言おうとすると、何故か正礼どのに疑いの目が集まった。
「違う! 私ではない! いや、別に清河公主もそういうつもりで言ったのではないはずだ、長姫」
私に言い聞かせるように言う。
そんな慌てる正礼どのを子建叔父さまが片手を上げて宥めた。
「まぁ、落ち着け」
そして私に向き直る。
「父もこの子の聡明さを高く評価していた。母も察しが良く、周囲をよく見ていると言っていた」
安心させるように笑って見せる心遣いが子建叔父さまにはある。
基本的に不愛想な子桓叔父さまとは対照的な方だった。
「まずは長姫の言葉を聞いてみよう。だから焦らず、ゆっくり話すといい」
そう言って子建叔父さまたちは、乱入者である私を慰めてくれる。
母が私の病を不安だと丁氏に縋って泣いていたのを見てしまったこと、その姿を見て申し訳なく思ったことなんて、面白くもない話に耳を傾けて。
「あぁ、だから生まれなければ、か。すまない、兄よ」
「いや、あれは、うむ。しようがない」
私が話すのを、子建叔父さまを筆頭に静かに聞いてくださったけれど、敬礼どのが思わず声を漏らす。
正礼どのは居心地が悪そうに答えて目を逸らした。
何かあるのかしら?
気になった私は、気づけば涙が止まっていたのだった。
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