二話:名前はまだない
私は宝児。
そう呼ばれる夏侯家の娘。
ちょっと熱を出して変な夢を見たと思ったら、なんだか未来の知識を得ていた。
しかもただでさえ仲のよろしくない両親が将来…………父が母に殺されるかもしれないとか…………。
「はぁ…………」
思わずため息が漏れる。
そんな私の前には見舞いに来てくれた親戚の兄妹がいた。
兄は私より一つ上でまだ幼いながら、すでに凛々しい表情が窺える。
一つ下の妹は大人しそうではあるものの、その分お淑やかな愛らしさがあった。
「溜め息なんて、良くなったんじゃなかったのか、長姫?」
「お辛いなら今日はお見舞いの品だけ置いて帰ります?」
「そうじゃないのよ。来てくれてありがとう、大兄、小妹」
お互い呼ぶのは仮の呼び名で大した意味はない。
宝児はうちの子くらいの意味だし、長姫は長女。それと同じで大兄もお兄さん、小妹も年下くらいの意味だ。
何せ成人しないと名前がないのはよくあること。
そして名前はみだりに口にしてはいけないから字がつくという、複数の名前を持つことが当たり前の世の中だ。
(同じ夏侯家だから姓で呼び合うのも混乱のもとだし。年齢が一歳ずつ違って近いだけで、血縁上は祖父の従兄弟の孫よりちょっと遠い。あ、曹家の娘を娶った夏侯家ってところも同じか。…………この場合、私たちは血縁として近いのかしら、遠いのかしら?)
埒もないことを考える私と同じ坐臥具に座る大兄と小妹。
火鉢を挟んで対面におり、そこへ壁際でお湯を入れていた侍女が茶碗を持って来る。
差し出されたのは茶色っぽいお茶だ。
「母上が用立ててくださったお茶よ。どうぞ」
「え、薬だろ。なんで俺たちまで」
「死なばもろとも。もとい、私だけ苦いお茶を飲むなんて不公平じゃない」
「もう、曹家も夏侯家も新年どころじゃない騒ぎでしたのに」
嫌がる大兄と呆れる小妹。
けれど私の元気さを見て口元は柔らかい。
そうして三人でお茶を啜る。
苦いし土っぽいし決して美味しくはない。
(これが高価な薬扱いでありがたがられるけれど、東の海の向こうの未来ではごく手ごろに飲まれていたのよね)
私たちがお茶を飲み干すと侍女が甘い干菓子をすかさず出してくれた。
口の中の渋さと苦さを誤魔化すように、私は食べながら新年の様子を聞く。
「長姫はもうどうしようもないから祈祷師でも呼ぶんじゃないかって話になってたんだ」
「長姫がお隠れになったら長公主さまは離縁するんじゃないかとも聞きました」
新年我が家がいないことで、親戚間はとんでもない話になっていたらしい。
祈祷師にすがるのは薬も手に入れられない人がやることだし、やっぱり眉唾だって意識がある。
そして私が死んで両親が離婚なんて話が出るのは、明らかに不仲が有名だからでしかない。
(熱と咳、あと季節がらと食の細さを思えば風邪なのよね。けど風邪薬なんてないし、解熱剤すらない。思えば私は本当に死にかけたんだわ)
「あと、子林さまが薬を買うのもお金を出し渋ったって誰か言ってたな」
「子林め、情けないって盲のおじいさまが嘆いておられたわ」
プライベートなんて考えのないこの時代。
家の中で起きた夫婦の会話さえすぐに親戚中に知れ渡り、子供の前でも気にせず言ってしまう。
恐ろしや。
そして小妹の言う子林は父の字で、盲のおじいさまは盲夏侯とも呼ばれる私の祖父のことだろう。
「私には良い父上でいらっしゃるのよ」
「そりゃ、長姫に甘いもんな。薬は買い渋るくらい金に汚いけど」
「大兄、お茶もう一杯いかが?」
「…………子林さまは優しい人だなぁ。うちの父は厳しいんだよなぁ」
大兄が目を逸らすと、小妹は私を見て溜め息を吐いた。
「そうですね、お父上が側にいてくださるだけで羨ましいです」
「え、伯仁のおじさまは今年お戻りには?」
「戦地からは帰って来てるけど、また戦準備だとかで営舎のほうに出てる」
新年は家に帰り、家に奉った祖霊に挨拶をするというのが習慣だ。
さすがに戦争中は厳しいけど、去年は確か戦勝していて余裕はあるはず。
そう思って自分の中に湧く知識に意識を向けた。
それは遠い未来から過去としてこの時代を見た、未来の知識。
「夏侯、伯仁?」
声に出すと知識が明確になる。
出てくる名前は夏侯尚、諱と言われる名前だ。
関連して出てくる名前は夏侯淵、字を妙才。
私の祖父に並んで夏侯家でも名の知られた将軍で、伯仁おじさまの伯父にして養父。
さらに翻って出てくる名前は、夏侯玄と夏侯徽。
夏侯尚の子供たちの中でも歴史に名を刻まれた二人。
すなわち、私の目の前にいる大兄と小妹の二人の未来の名前だった。
(わぁ、私と違って歴史に名前が残るんだ。すごい!)
三国志の中心は曹操に代表される祖父世代。
厳しい戦いを生き残って時代を拓く英雄譚だ。
それに比べれば子世代は見劣りがする。
さらに父の子林なんかは悪口しか残らないし…………。
それでも戦場に立って功を上げれば子世代も名前は残る。
けれど孫世代に至っては後に建つ王朝と共に衰亡していくという知識が出て来た。
(すご、い…………すごい…………まずい…………)
思わず知識を探って後悔した。
「どうした、長姫? やっぱりまだ本調子じゃないんだろ」
ちょっと厳しい顔をする大兄は、勇ましさと粗野さがあるけどそれでも気遣いのできる人。
相手をじっと見る癖もあるくらいには物事を見定めようとする性格で、将来は夏侯家を代表する政治家になる、らしい。
衰亡する世代の中で政治家となって、最期は処刑される。
「うぅ…………」
思わず頭を抱えて呻く。
目の前の八歳のお兄さんがどうしてそんなことに…………。
そんな私に小妹が身を乗り出した。
「まぁ、長姫。もうお休みになって。無理をなさらないでください」
今年六歳の小妹なのに、しっかりしててすでに美人になること請け合いの大きなおめめ。
もちろん将来は聡明で先見の明のある女性に成長する。
その享年、二十三歳。
若すぎる死は、夫による毒殺。
聡明すぎたせいで夫の二心に気づき口封じをされたのだ。
「…………あぁ」
あまりに理不尽な未来に嘆きの声が漏れてしまう。
そのせいで侍女まで私を寝るよう説得し始めてしまった。
私は寝台に連れて行かれながら後悔する。
(駄目だ。この知識はとても危険だ…………!)
今まで笑顔で見ていた人たちが、途端に正面から見れなくなってしまう。
何が悲しくて親しい大兄と小妹の死にざまを知らなければいけないのか。
しかも他殺とか…………。
母が父を訴えて死刑に追い込むという未来もきつかったけど、私と同じくらいの二人にそんな未来が待ってると思うと心苦しい。
「しっかり寝て治せ。元からそんなに体強くないんだから。あまり無理すると家から出してもらえなくなるぞ」
「おじいさま方は新年のあいさつにいらっしゃることを心待ちにしてますから、元気になってくださいね」
大兄と小妹が寝台の所まで来てそう言ってくれた。
幼いのにすでに利発な二人の心遣いを、素直に喜べない。
「うん…………、気を付ける。…………ごめんね」
私は布団を被るふりをして目を合わせないようにする。
胸の中は嫌な予感でいっぱいだ。
(これ! 初対面の人の死に際までわかるようだったらどうするの!?)
今後まともに人の顔を見られなくなりそうで、私は一人寝台の中でも頭を抱えることになった。
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