十八話:元婚約者
丁氏の親戚で片目が不自由な方は、母とは親しげなのに何やら含みがあるようだ。
私にというより父の名を口にした様子から夏侯に対してかもしれない。
だって父の人柄から個人で、しかも不仲が有名な母を介して問題があるとも思えなかった。
そんなことを考えて、私は将来の不安材料の可能性を考慮する。
…………目の前の不安から、知識に頼って後悔した。
(名は丁義、字は正礼。曹家の祖父の臣下の一人で有望株。母の養母である丁氏の親戚)
そこまではいい。
けれど歴史に残る記述がまずい。
「正礼、娘には」
「邪推しないでくれ。隔意はないんだ」
母が不安げに声をかけると、正礼どのは気まずそうに私から目を逸らす。
それを丁氏が心配する様子で声をかけた。
「正礼どの、この子はすでに嫁した身。あまり殿方が正面から見るものではありませんよ」
「失礼。幼い頃の思い出がよみがえり無礼をいたしました。小母上に連れられて遊んだ日が懐かしまれて、目が、離せなかった」
どうやら丁氏の親戚ということで養育されていた母と遊んだことがあるようだ。
懐かしさを語りながら母に向けられる目には熱がこもっている。
いや、うん…………。
知識云々抜きでその視線ってまずいんじゃない?
「小母上は寒い盛りが過ぎるまでは滞在なさる。清河公主も我が家へ訪ねて来るといい」
「まぁ、いいの?」
喜びを声にまで表す母がわかりやすすぎます。
丁氏も呆れてる気がする。
けど止めない。
うん、私の母上をお育てになった方ですものね。
娘に甘いのでしょうね。
「会えるのは嬉しいけれど。そうね、ではその時には長姫とも会わせてちょうだい」
「えぇ、もちろんです。母上」
母は丁氏の提案に喜ぶけれど、正礼どのはちょっと残念そうだ。
そんな会話をして、私たちは帰る丁氏を見送った。
母は上機嫌で室内へ戻り、私たちの帰りの準備はまだなので温かい部屋で待つ。
「長姫、よろしいかしら」
母が他の親族と話している隙に卞夫人が私に寄って来た。
こちらとしてもちょうどいい。
「あの」
「まだあなたには早いことよ」
正礼どののことを聞こうとしたら、わかっていたように先に釘を刺された。
五十代の卞夫人は老いを隠せない年齢だ。
だからと言って衰えという言葉とは縁遠そうで、女性としての清潔感と言うか、綺麗な雰囲気がある。
「もっと分別がつくようになってからがよろしいわ」
そんな方に笑顔でぴしゃりと深入りを禁じられてしまった。
「…………私の意に関係なく知ることがあった場合は、どのように振る舞えばよろしいのでしょう?」
私の返しに卞夫人がちょっと驚く。
私としてもまさか卞夫人のほうから口止めが来るとは思わなかった。
いえ、そう言えば知識を見るに正礼どのの隔意の発端は子桓叔父さま。
母親として一抹の責任を感じているのかも知れない。
「今年で七つのはずね? あまり生き急いではいけませんよ」
「はい、そのようなことはいたしません」
何故か心配されるんだけど、あれ?
病弱で健康気遣われた感じじゃない?
生き急ぐってなんだろう?
「振る舞いは、慌てず、騒がず。知っていたという顔でいられれば一番ね。きっとあなたにあえてそれを言う者がいるならば、決して味方ではないでしょうから」
何やら含蓄がおありだ。
そう言えば卞夫人は身分の低い出。
曹家の祖父の長子と次子が亡くなり、正夫人だった丁氏も里に戻ったことで長子となる子桓叔父さまを産んでいた卞夫人が繰り上がって今の地位にいる。
(ご注進のような形で悪いことを吹き込む人いたんだろうな)
卞夫人の忠告はしっかり聞こうと、私は居住まいを正す。
その意志が見えたのか卞夫人はまた驚くように眉を上げた。
「もしや…………すでに知っているかしら?」
「なんのことでしょう」
実践してしらばっくれる。
けれど筒抜けらしく困ったように笑われた。
そして優しく頭を撫でられる。
「困ったこと、父や母に言いにくいことがあれば私におっしゃい。根本的な解決にはならないでしょうけれど、処世術なら教えてあげられるわ」
「お心遣いありがとうございます」
そんな卞夫人の気遣いをもらって、私は母と帰宅した。
私は一人部屋に戻って寝台へ登り、誰もいない今こそ思いのたけのまま突っ伏す。
(そんな刺客あり!?)
さすがに叫ぶと近侍に気づかれるから心の中に留めた。
それでも上掛けに顔を埋めて呻き声が漏れる。
「まさか正礼どのと交友があるなんて。母上は魔性の女?」
呟いてみるけれどあまりピンと来ない。
今は知ってしまった知識を整理するほうがいいだろう。
「正礼どのは、曹家のおじいさまの部下。文才があって、同じく文才のある子建叔父さまと仲良し」
丁氏との血縁から、どうやら姻戚関係という伝手も曹家の祖父とお持ちのようだ。
そして子建叔父さまは今後継承争いを起こす一人。
同時に正礼どのは発端となる側近同士の権力争いを起こし、子建叔父さまを継嗣にと強く推す側近中の側近だった。
「この時点で、もう…………」
できれば子建叔父さまに身を引いてほしいけれど、兄より先に動き出す歴史を考えればその気はない。
そしてそんな子建叔父さまを焚きつけるのは側近が、つまり正礼どのだ。
「そうする私怨が、正礼どのにはある」
それが子桓叔父さまとの間に継嗣争いを起こす発端とも言える。
正直なんでそんなところに不和の種がと言いたい。
そして私が無関係でないことが悩ましい。
「まさか、母上の元婚約者だなんて…………」
正礼どのは口約束とはいえ、曹家の祖父から母を嫁がせると言われていた。
曹家の祖父が心ならずも別れた正夫人、丁氏の親戚で正礼どのの才能も評価しているとなれば政略結婚として十分な相手だ。
けれどそこに口を挟んだ人物がいる。
子桓叔父さまだ。
「なんで容姿を貶すなんてこと」
東の海の向こうの知識でも禁句扱いなのに、子桓叔父さまは正礼どのの片目が悪いことを引き合いに出して反対した。
親子の気軽な会話だったかもしれないけれど、結果的にそれが正礼どのの耳に入ってしまっている。
曰く、醜い男の妻になっても姉上が気の毒だ。
「ただの悪口ぃ…………」
その上で子桓叔父さまは私の父である夏侯子林を推した。
夏侯家との婚姻もまた政略としてありだ。
そのせいか曹家の祖父は子桓叔父さまの意見を入れて父と母を結婚させる。
「そして私が生まれるのね」
どう考えても正礼どのはまだ母に未練があったようだ。
そして歴史を見ればよほどこの時のことを恨みに思っている。
そして続く歴史的事実は、争いに敗れた正礼どのの族滅。
「もう、こんなのばっかりぃ」
子桓叔父さまが即位すると即座に逮捕、処刑。
そして丁一族は男子が根絶されて族滅に追いやられる。
子桓叔父さまの言葉が発端の上でこじれた末の悲惨な報復だ。
「…………これ、もしかして母上のほうも父上から心が離れる要因があった?」
思いついて、自分の言葉に頭を抱える。
明らかに母は正礼どのに悪感情はなく、親しいと言える関係だった。
幼少から知る者同士、婚姻の話も当人たちの耳は早い段階から入っていたかもしれない。
そんな母が浮気した夫に何を思うか。
別れるには周囲や実家の思惑が強く、母が望める最良の結果は、夫の死の後での再婚。
(うわぁ、そんな人じゃない、そんな人じゃないと思いたいのに)
母が父を処刑させようとするのは、子桓叔父さまの死後だから正礼どのもすでに亡くなっている。
父への過剰にも思える浮気の制裁が、元婚約者への思いも絡むとしたら?
両親を信じたいけれど、始めから望んだ相手を袖にしての結婚だとしたら?
(別に浮気じゃないはずなのに、まるで自分が不義の子のように思えてしまう!?)
私は目に見えない心の機微という問題にぶつかり、寝台を転げまわることになった。
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