十七話:武家の奥方
食事会の主催は、曹操の正妻にして次期皇帝曹丕の生母卞夫人のはずだった。
けれど上座に腰を据えたのは、主賓の丁氏であり曹操の元正夫人だ。
私は複雑な曹家の祖父の結婚事情による現状を思い返して、母を窺う。
(そして母上は養母の丁氏に私を会わせるために連れて来られたのよね)
母が浮かれて自身の生い立ちと丁氏との関係を教え忘れたことも含めて予想外の状況だ。
ただこうして招かれなければ丁氏もやってこれないらしいことは会話の中でわかった。
正直生まれの身分は卞夫人よりも上。
けれど現状の、丞相の正夫人という地位においては、丁氏から卞夫人を訪ねるようなことはできない立場らしい。
(そして母と丁氏が会うためのお題目でしかない食事会の会話内容は、井戸端会議のようになっているわ)
ただし集まっているのが人臣の長を務める曹家当主の身内ばかり。
そして軍事で大きく名を知らしめる夏侯家の身内も含まれる。
そんな婦人方ばかりがいて、ただの井戸端会議になるはずもなく…………。
「やはり次は南なのね? 昨年敗したとはいえ、今も交通は維持してあるから進軍に問題はないわね」
「西が落ち着いたのだもの。南を押さえるなら今よ。二面攻撃だなんて実効性の薄いことはなさらないわ」
当たり前のように軍事について話してる。
いえ、母が珍しくこの都を離れて南征に同行なさるという話からこうなったのよね。
他にも同行する方がいるから内情はある程度女性陣にも知られている。
「けれど西涼の馬氏は撃ち漏らしたのでしょう? あそこは族に別れているけれど、その分集まった時は一気に漢中にまで攻め込んで来た前科があるじゃない」
「征西将軍が目を光らせるそうよ。それに負けた者の声望が瞬く間に潰えるのも西涼じゃない。もう山にまで逃げた馬氏の復権は無理よ」
そう、確かに西涼の馬氏は逃げた。
けれど後年舞い戻るというか、攻め込んでくるんですよ、その馬孟起という方。
東の海の向こうの知識によれば、確かにすぐではない。
けれど次に攻めて来た時には妙才さまが倒れるのだ。
さらにその後、司馬家の晋王朝になるまで北伐と称して何度も攻めて来る勢力となる。
(平穏に暮らしたい私としては迷惑な話ね)
その上、妙才さまが亡くなると父が西の守りの拠点である長安という街に派遣される。
そこで妾を囲って浮気をすることで母を激怒させるのだ。
あら? これは案外まずい話なのでは?
「昨年は戦果なく退くことになりましたが、西での勝利を勢いに今度こそ南を平定できれば良いわね」
「けれどまた船という問題があるでしょう。大丈夫かしら? 父が以前の南征においては酷い疫病があったともおっしゃっていたわ」
「そうねぇ、単純な数に頼んでの攻勢は危険かもしれないわね。けれどそれはわたくしどもが案じるべきことではないでしょう」
大敗としてのちのちまで語り継がれる赤壁の戦い。
その後も曹家の祖父は、十万の兵を擁して仕掛けた戦がある。
まぁ、その結果は夫人方が言うとおり、去年の敗戦だ。
けれどここにいるのは戦場に立つような夫人ではない。
(何を言っても無駄よね。人材の乏しい地方だと、軍才のある夫人が夫に代わって指揮を執るということもあるらしいけれど)
そこは国の中枢を担う一族の夫人たち、肝は据わっているけれど戦場に立つことのないお嬢さま育ちばかりだ。
それで言えば私もだけど。
どうにかして戦に口を出せるようになったほうがいいのかしら?
「長姫、南で生水は決して口に入れてはいけませんよ」
「はい、おばあさま」
「言いつけは守るいい子なのだけれど、やはり心配な子です。南に悪風などは吹かないでしょうか?」
丁氏に答えると母が本気で空気が合わないんじゃないと心配し始める。
確かに元から弱い私の体は風邪で死にかける。
だから食中毒になったらひとたまりもないかもしれない。
(困るのは手洗いに使う水も一度煮沸する必要があることね)
燃料を余分に使う手間と贅沢は使用人に戸惑われるほどだ。
なのにお願いすれば二つ返事で応じてくれそうなのが父と母だった。
(ここはおばあさまの言いつけを口実に手洗いうがいのために贅沢を許してもらおう)
私は密かに決意したけれど、心配ごとは他にもある。
(次の南征、負けるのよね)
それで曹家の祖父の権勢が揺らぐことはないし、だからこそ全部で四回も大軍で攻めていくことになる。
けれど結局一連の南征に戦果は挙げられない。
というか、子桓叔父さまが魏王朝を立ててからも南征が行われるけれど、それでも攻めきれず孫呉は続くのよね。
三国志と言われるだけあって、三国の均衡が崩れるのは魏王朝の後に晋王朝が立ってから。
曹家の祖父は、南の孫呉の地を踏むことはない。
「また十万の軍勢を組織なさるのかしら?」
「以前はそれで戦果もなかったのだから十万は下らないでしょうね」
それでも防がれます。
そして妙才さまが亡くなった同年、南でも大敗をする。
曹家の祖父が死ぬ直前、この西と南の戦いでの大敗が困る。
(だって父上が何処に配属されるかわからないのよ。その後に長安で浮気をすることしか。今回南に行くのも歴史には残らなかった。名を残すような活躍はないということよね)
戦争について話す夫人方に耳を傾けて、私はできるだけ情報を集めようとする。
けれど結局未来を知るのは私だけ、そんな私も不確かなことしか知らない。
誰も未来を確定させてくれるようなことは話さないのは当たり前なのに、妙に疲れてしまった。
「さぁ、長姫。今日は来てくれてありがとう。難しい話で退屈ではなかった?」
「いいえ、おばあさまとお話できて光栄でした」
丁氏はすっかり私を孫として可愛がってくれるし、疲れが顔に出てしまった私の身を案じてくれる。
母も上機嫌なのでそこは素直に娘として嬉しい。
「お方さま、丁家よりお迎えが参りましたよ」
卞夫人が丁氏に声をかけた。
「まぁ、母上。どちらにお泊りに?」
移動する丁氏に母がついて行って聞く姿は、母親の後追いをする子供を思い起こさせる。
「正礼どのが都にいる間は客間を貸してくださるとおっしゃってね」
「まぁ、正礼の所にいらっしゃるのね」
「どなたですか?」
母の親しげな様子に聞くけれど、途端に母と丁氏が視線を泳がせた。
思わず答えを求めて見送りに立つ卞夫人を見るけれど、そちらもそっと顔を横向けられる。
(何その反応! 逆に気になる!)
状況からしてたぶん丁氏の親類だろう。
遠路の親類を屋敷に泊めるのは珍しくないし、なんだったら一族で同じ屋敷に複数家族が住んでいたりするし。
そう思っていると、家族だけが入ることのできる門の向こうに一人の男性が立っていた。
つまり曹氏ではない人であり、歳の頃は私の両親と同じくらいだ。
(あら? 片目を閉じている?)
私が気づくのと同じくらいに、片目の方も近づく私たちに気づいた。
そして母の姿に閉じていた目を開く。
けれど何か煩いがあるのかその片目は半分くらいしか開かないようだ。
「小母上、お迎えに上がりました」
「あぁ、正礼どの。手間をかけてすみませんね」
「いえ、寒い日ですので。それと、久しぶりだね。清河公主」
正礼と呼ばれた片目の方は母を見つめる。
なんだかその視線は熱量があるような?
「あの…………」
一番目上であるはずなのに何故か空気に徹する卞夫人に聞こうとした。
けれど声を上げたことで正礼どのが私を見る。
「そ、ちらは…………まさか…………」
「よく、わかったわね。えぇ、私の娘よ」
「わかるさ、幼い頃の君によく似ている」
「そう、かしら?」
どうやら母と幼い頃からの知り合いらしいけれど、二人揃って歯切れが悪い。
「そうか、君が、あの夏侯子林との…………」
何やら含みのある声で正礼どのは私を見る。
これは、嫌な予感しかしない状況だった。
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