十六話:元正妻と現正妻
子桓叔父さまから拉致された翌日。
私は母にしっかり抱かれてお出かけをすることになった。
昨日は楽しかったと必死に訴えたのだ。
母のお叱りを少しでも逸らそうとはした。
けど、やっぱり子桓叔父さまは母に怒られることになったのは、もう私のせいではない気がする。
(私の必死さを眺めて笑うせいで、反省なしと余計に母上を怒らせるものだから)
そんなことのあった翌日の、このお出かけは前から決まっていたことだ。
お正月の親戚周りの挨拶の一環。
今回父は仕事関係の集まりで不参加。
そして行先は曹家。
あの広くて立派な曹家の祖父の家だった。
「よく来ましたわね。さ、先方はもうお待ちですよ」
出迎えた曹家の祖母…………と言ったら対象者が複数いるのがこの時代。
一夫多妻だから、妾も複数いれば正式な妻である夫人も偉い人ほど複数いる。
なので基本的に夫人たちは生家の姓で呼ばれた。
私たちを出迎えてくれたこの方は、曹家の祖父の正妻である卞夫人。
今日は卞夫人主催のお正月の集まりに招待されていたのだ。
親族の女性だけを招いての食事会で、子供は私だけという謎の集まり。
「卞夫人、わたくし服装の乱れなどはあるかしら?」
「お綺麗よ、長公主。けれど気になるのなら、まずは長姫を降ろしてはいかが?」
母がそわそわと身だしなみを気にする姿に、卞夫人は苦笑して助言をする。
私を抱えていた母は、すぐに降ろしてずれた袷を整え始めた。
「ふふ、長姫はいつも誰かに抱かれているわね。今日は少し歩いて行きましょう」
そう言って卞夫人は案内に立ち、私の足の遅さに合わせてくれた。
進むのは屋敷の奥。
広い屋敷の中で最も奥まったところには、家族の女性と子供が暮らす区画がある。
そこに食事会の用意がされていた。
「丁氏、長公主が長姫を連れておいでになられましたよ」
卞夫人が声をかけると、母が腰を落とす。
私は母に倣って最も敬意を表す女性の礼で、顔を隠すようにして膝ですり寄るように部屋の中へ入った。
(あれ、真っ直ぐ? そこって主賓の席だから、卞夫人の席じゃないの?)
上座にはすでに誰かが座っているけれど、この屋敷の女主人というべき卞夫人はまだ立っている。
女性もまた年功序列で上下がはっきりしており、それで言えば正夫人が最も上だ。
姑がいるならそちらが上だけれど曹家の祖父の生母はすでに亡くなっている。
「あぁ、冬にはいつも寝込んで枕も上げられないと聞いていたのに。ようやく会うことが叶いましたね。さぁ、顔を上げて」
「えぇ、母上。わたくしもこの日を待ち遠しく思っておりました」
母に続いて顔を上げると上座には知らない方が座っている。
年齢としては母の母、私の祖母に相応しい六十に届くかという女性。
けれど私は知っている。
母の生母は劉夫人という方で、すでに亡くなっていると。
「さぁ、もっと近くに。良いでしょう、卞夫人?」
「えぇ、丁氏のお気に召すように」
主催者で一番身分の高いはずの卞夫人が、丁氏という方に気を使っている。
誰も不思議に思っていないらしいので、これは何か理由があるのだろう。
そう考えていると丁氏が私の戸惑いを読み取って笑う。
「私は、今は離れてしまいましたが、かつては孟徳さまの室にいました。その折、縁あって幼くして生母を失くしたあなたの母上を養育したのよ」
「あ、まぁ、私ったら、宝児に言ってなかったかしら?」
「はい、初めてお聞きしました」
母は浮かれて私にこの丁氏という方との関係を話し忘れていたらしい。
同席する親族の女性たちからは忍び笑いが漏れるけれど、母の浮かれように慣れてそうな雰囲気があった。
「改めまして、おばあさま。夏侯子林の長姫にございます」
「まぁ、あなたの幼い頃よりも利発そうね。幼い頃は甘えん坊で」
「母上、そのようなことはありません」
母が照れる様子で強く否定する。
「いえ、私も甘えておりますので母上と似ているのでしょう」
「もう、宝児は…………」
私が同意すると母がさらに照れる。
なんだか普段の様子とはずいぶん違う少女めいた雰囲気があった。
それから見計らった卞夫人の音頭で食事会が始まる。
(なるほど。私が呼ばれたのは母の養母、祖母に当たる方との顔合わせのためなのね)
そしてその場を提供してくださったのが卞夫人。
さらに東の海の向こうの知識を覗けば情報があった。
(丁氏はかつての正妻であり、ほぼ丁氏のほうから拒否して離婚って、この時代にすごい意志の方ね)
家同士の繋がりが結婚であるのだから、個人の気持ちで離婚なんてそう簡単にできることではない。
ましてや今となっては人臣の長である曹家の祖父を相手に、離縁を突きつけておいてこうして屋敷に招かれているとは。
理由は…………うぅ、母の同母兄の戦死かぁ。
養い子の死の嘆きに耐え切れず、丁氏は実家から曹家には戻らなかった。
私の周りにも死亡フラグが多いけれど、母も時代のせいか身内に不幸を抱えているようだ。
(そう考えると、母は、血縁者が曹家の祖父しか残っていないんだわ。曹家の祖父からしても母も養母も、同母兄二人までなくしてしまった母を憐れんで、愛娘としたのかもしれない)
家では強気の母しか見ていないけれど、その過去を思えば寂しい少女時代を過ごしたことは想像に難くない。
私に甘いのも自分が寂しい思いをしたからかも知れなかった。
「宝児はよく気が回って、弁舌も立ち、それでいて気弱な夫を気遣う優しさもあるのです」
「まぁ、そうなの」
母は楽しげに私自慢。
それを丁氏は笑顔で聞いてる。
そして主催者の卞夫人は黙々とおさんどん。
す、すごくできた方だ。
母はもう少し卞夫人にも、いえ、周囲の他の親族にも目を向けるべきなような?
「まぁ、宝児。食が進んでおりませんね。どれか食べにくいものが?」
「いえ、母上があまりに、褒めるものですから…………」
私以外にも目を配るべきとは言えず言葉尻を迷う。
「何を言うの、この程度。家ではいつも言っていることでしょう」
「それは親の愛というものと存じておりますので」
「あらあら、本当に賢いのね。親の愛を悟ってくれるなんて、母冥利に尽きるでしょう」
「えぇ、本当に」
丁氏もなんだか母に甘い。
養母とは言え母を育てた人だから、愛情深い方なのだろう。
「新年に熱を出して大変だったと聞いていますよ。よく耐えましたね、長姫」
「父母の献身的な看護のお蔭です。祖父方にも大変ご心配をおかけしてしまいました。曹家にご挨拶へ伺いました折にも騒がせてしまい」
丁氏に答えつつ、私は卞夫人にもそれとなく話を振る。
卞夫人は会話の邪魔はしないけれど目を合わせて微笑み返してくれた。
知識には丁氏が正妻の頃に妾をしていたあまり身分の高くない方とある。
つまりは夫人ではなかったのだ。
夫人は妻だけれど妾は違う。
(つまり丁氏が離縁して、卞夫人は正夫人に昇格。その上でこうして丁氏を招いて敬っているなんて、人ができているわ)
丁氏もそれをわかっていて客としてもてなされる立場に甘んじているらしい。
もし母が、この方々のようなつつましさを持っていたら…………。
うーん、丁氏のように温和にしていることも、卞夫人のように敬意を忘れないこともできないから、将来父の浮気で死刑にさせようとしたとしか思えない。
今から十年は後の未来のことなので、丁氏や卞夫人が生き残ってくださっているかも定かではなかった。
「長姫」
「は、はい」
考えこんでいたせいで声が上ずる。
そんな私に丁氏は微笑んだ。
「どうか、親より長生きしてあげてね。それが何よりの孝行ですよ」
優しい声で紡がれるのは、この方の離縁理由を思えば重く実感の籠った言葉だった。
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