百三十七話:王元姫
他視点
春、義姉が梅の梢を見あげて、睦み合う小鳥を二羽見ていた。
昨日で義兄である武公の喪が明けた。
それでもなお、この義姉は葬礼である白を着ている。
「姉上さま、お着替えなさいませんか? それとも、暇なく、葬礼が必要なのでしょうか?」
「王氏」
私の問いに、こちらを見た義姉は、驚いた様子で眉を上げた。
「まぁ、そんなつもりではなかったのよ。ごめんなさい。…………でも」
「また乱が起こるのでしょうか?」
義兄が最後に戦ったのも、乱だった。
そして今年の二月までかかった乱でも、多くの者が黄泉へと下った。
「乱、ではないわね」
まさか変?
政に関わるほどのことが起こるというのでしょうか?
この義姉は不思議な力がある。
まるで未来を見通すような。
「姉上さまは、いったいどこまで先を見ておられるのでしょう?」
「何処までも、見えていても、あまり関係はないわ」
思わぬ言葉に驚くと、こちらを見て困ったように笑う。
「知って、足掻いて、結局誰かを救うなんてできたかどうか。大きな流れは私という小石一つでは変わらないし、変わっても、数年の誤差なのよ」
言って義姉は、白い袖を見下ろした。
「かつて神卜と呼ばれた方と語らうことがあったわ。その時に聞いたのだけれど、生まれた時から天命は決まっていて、命数を変えることは神に弓引くも同じだそうなの。神卜であっても、神に命数を変えるよう仕向けた時には、次はないと警告を受けたそうよ」
そう言ってまた、梅の梢を見あげる義姉が思い描くのは、今は亡き武公か。
「ではやはり、数々の珍奇な行いは全て、武公を思ってのことだったのですね」
この方はやることが破天荒だ。
けれど身内の中でやるので、あまり外には漏れていない。
「珍奇だなんて、まぁ、そう思われることをしてはいたけれど…………」
「一番周囲を騒然とさせたのは、武公との離縁騒ぎでしたね。もう十年前ですか」
「あ、あれは、昭伯と平叔さまに態度を改めてもらおうと、思って…………」
「それで、お父上さまの政変を抑止なさった」
私が言えば、義姉は黙る。
やはりその意図があったのだ。
そしてこの、先を知る神通力を持つ方は、誰にも漏らされなかった計画を知っていた。
私もその時には嫁いでいたけれど、夫である方は知らされず、義父と義兄の間で密事が進んでいたのに。
言われもせずに政変を知った義姉が、そもそも義父たちが反そうと思いあまった理由である方々を、改心させるため離縁騒ぎを起こした。
そんな珍奇な行動で、本当に皇帝陛下の前に関係者を引きずり出して見せたのだから、呆れるほどの神通力だ。
「まるで愛を試すようなことをなさいますのね」
「…………今だから言えるけれど、殺されると思っていたわ」
「はい? 武公にあれだけ愛されていたのにですか?」
この方はとても尊敬できる。
周りに目配りをして、快くいられるように心を砕かれる。
他人の安らぎに己も安らぐ性質の善なる方だ。
そんな方が、夫からの暗殺を疑うなんて。
とは言え、ないとは言えないのが武公という義兄でもある。
やると決めたら徹底されていたし、乱の鎮圧をやり果せるために自らの命数を縮めることさえされた。
「王氏、後から悩まないでほしいわ。私も、何度も霊前で疑ったことを謝っているし、当時も情けないって怒られたのだから」
「いえ、その、姉上さまであれば、事前に漏らすようなことをしてはすぐに曹家にご注進されるのも、想像できますので…………」
「私もそうすると思うわ。だからこそ止められないとなれば、口を封じられると思ったもの」
はっきりと頷く義姉は、今でもその点では武公と夫婦として折り合わない。
そう確信して、自ら離縁を叩きつけるというのも思い切りが良すぎるけれど。
「結局、司馬家へお戻りになられましたよね?」
「えぇ、私に離縁を唆したと広まってしまって、陛下から軽率な言動を諌められたから、昭伯がお父上さまに謝られたもの。私もそうして行いを改められては、我を通すのが難しくて。早世してしまった妹のような子の墓に参って報告できるのかと、怒られもしたわ」
「お戻りになられないつもりだったのですか?」
「だって、嫁いだ先を裏切るようなものでしょう? どんな顔をして戻れと言うの? 娘たちにまで泣かれてしまったのだけれど」
私もかつて、幼い頃には父から男であればと惜しまれたことがある。
けれど、この方は私よりもずっと、家の中にいるべきではない人だったのかもしれない。
珍奇な行動は誰かの不幸を避けるためで、自らの人生をかけてまで走れるなんて。
「…………武公と離縁される時に、泣いていらっしゃったのに」
「見ていたの? 恥ずかしい」
赤くなる頬を押さえるけれど、当時の大変な騒ぎを思えば、そんな反応で済ませるのも、いっそこの義姉の大物である証なのかもしれない。
私の夫はこの義姉を本当の姉のように慕っているからこそ、突然の離縁宣言に慌てふためき、泣いて出て行った義姉を思って武公を責めるという、ずいぶんな醜態をさらしていた。
義母が亡くなった後、屋敷を取り仕切っていた義姉の突然の出奔に、屋敷も大変な混乱に陥ってしまっていたのを覚えている。
「お父上さまも、あの時には本当に病を得られたのではないかという顔色をなさって」
「…………お父上さまにも、改めて参って謝罪するわ」
「皆の記憶に新しいのは、武公を追って寿春にまで出奔したことですが」
「う、それも、その…………」
俯いてしまう義姉だけれど、こちらも慌てたので言わせてもらう。
けれど、結果を見ればやはり、誰かのためにこの方は走られたのだ。
「おっしゃってくだされば、私も共に夫を伴い武公をお止いたしましたのに」
「…………どうかしら? あの人は正しいと思えば貫く人だから、反対に洛陽を放り出した士上が叱られてしまうかもしれないでしょう?」
結局武公は、愛妻の言葉さえ聞かずに、無理をされて乱の平定を優先された方だった。
それでもこの方は、死のその時まで武公の側に立ち続けたのだ。
酷い傷の痛みに悩まされる武公を思いやって、夜も寝る間を惜しんだと聞いている。
「きっと、その枕頭に姉上さまがおられて、武公は安らがれたことでしょう」
「そうかしら? そうだといいわね」
一粒、義姉の頬を涙が伝う。
きっと白い衣を脱げないのは、今もなお武公を思うからなのだ。
また葬礼を纏う必要があるなど、私の思い過ごし…………と言えないひと言が義姉からあった。
ここ数年は内乱が続いているし、そうでないなら政変が起きている。
やはり内側の問題が解決していないことが、葬服を片付ける暇をくれない。
「王氏、あなたは慎み深いのが長所よ。けれど、慎みだけでは誰かを動かすことはできないわ。言葉は選んでも、吞むことがないようにね」
「それは、戒めでしょうか?」
「いいえ、あなたはあなたのままでもいい。けれど、周りは違うでしょうから。もし、悩むことがあれば、誰かの立場や思惑ではなく、礼節と道理に従って声を上げなさい」
なんとも難しいことをおっしゃる。
私は私の成すべきことを、婦道として仕えることを良しとしてきたのに。
けれどこの方は、いずれ私に声を上げなければいけない時が来るという。
それはきっと、この方が何を置いても走り、人生をかけてまで行動を起こしたような大事なのだろう。
「その時には、どうか私を導いてくださいませ、姉上さま」
優しく微笑むけれど、返事はない。
まるでその時に居合わせないことを知っているように、義姉は遠くを見つめる。
なんとか引き留めようと口を開いた時、別の方向から声が上がった。
「姉上、それに元姫。二人で梅を見てるのか?」
明るい声は私の夫である子上さま。
そしてその声に、鳴き交わしながらつがいの鳥が飛び立っていく。
「…………あ、もしかして、鳥だったか?」
先月までかかった乱の鎮圧の後、戦勝を寿がれての休暇中で、気が緩むのも仕方ない。
「あなたもあなたのままでいいけれど、その素直すぎるところは少し心配だわ、小小」
「う、いつまでも子供扱いしないでくれ。兄上ほどではなくても私だって…………」
「えぇ、ごめんなさい。少し、懐かしい気分になっていたの。ほら、まだ朝夕冷えるから、氷が張っているのよ。あなた、初めて会った時に大喜びで張った氷を集めていたわね」
「え、そんなことしたかな。覚えてないし、確か初めて会った時には兄上と一緒じゃなかったか?」
「えぇ、三人で屋敷中の氷を集めて廊下に並べたのよ」
「まぁ、お可愛らしいこと」
思わず笑うと、夫は照れて目を泳がせる姿が確かに子供のようで、この六歳上の夫が可愛らしく思える。
これも身内にだけ見せる、この方の素直さ。
だからこそ一度懐に入れると、仕事ではできる厳しい判断が鈍るのも、想像できた。
ではきっと私への義姉の忠告は、より良く、そして笑って過ごせるように望んでのこと。
だったら、胸に刻んでいずれ来るだろう時に備え、夫と共にあれるよう努めよう。
そしてその笑顔の中に、この破天荒だけれど優しい義姉もいてくれるよう祈るばかりだ。
了
お読みいただきありがとうございました。