百三十六話:管輅
他視点
人は生まれて死に行く。
その摂理は神仙のように、人の道から外れなければ抜けられない定めだ。
私は人の命数を知ることができた。
それは生命の神秘に通じる力で、時には神通力ともなり、世の不思議に触れる。
そんな私の噂は広まり、年末の今、羽振りの良いお大臣に呼び出された。
この力を余興のようにふるえと命じられたのだ。
見世物にされて面白いはずもなし、ましてや、死相を浮かべた者たちに囲まれて、何を語れと言うのか。
「どれ、私は三公になれるかどうか、占ってみよ」
私を呼び出した何尚書が、叶わぬ未来を占えという。
この方は魏王にして、今や武帝と諡された方の養子。
祖父は漢の何将軍という歴史に名を残す人物だ。
だというのに、今の天子のお血筋に近いことを利用して専横を行っている。
「王朝から下されるそれを、どうして占いなどで言い表せましょうか。今あなたが得ておられる地位は山よりも高いほどに重要なものであるのに、引き比べるなどとても」
「ふむ、確かに少々不遜か。では最近は妙な夢も見た。鼻に蠅が数十匹もたかっているのだが、追い払っても逃げて行かん。この夢を判じよ」
この何尚書を取り上げなかった文帝、思帝は慧眼だ。
短い在位だが、続く文帝の御子であった明帝も、英明だったのだろう。
ただ今の皇帝は、偉大な父とその兄と共に育った祖父の養子という、何尚書の存在しない背後に遠慮しすぎるように思う。
そのせいで年少の宗族である曹昭伯は、何尚書を始めとした周囲の阿りに思いあがった。
実績を作るには乏しい才能を誇示し、小さなその矜持を守るために、皇帝を蔑ろにしている。
同時に、輔弼である他家の重鎮を目の敵にしているのだから、死相もやむなしか。
「…………鼻は八卦の玄であり、高山を表します。つまり夢の鼻はあなたの地位であり、本来高きに至らぬ蠅がたかっているのです。それは高山であるはずの地位が鼻ほどの高さに貶められ、今しも腐れ落ちようとして腐臭を放っているため蠅が寄る。その警告となります」
不満げに私を見る顔のどれも、年が明けてそう長くない。
ならば、私は私の赤心に従おう。
「謙虚にならねばなりません。どんな者にも栄枯盛衰は巡る。とは言え、失敗なくして人は生きていけません。ですので、過去の賢人たちに学ばれるが良い。そうして行いを正せば、三公の地位もあるべき所へ収まり、夢の蠅も追い払うことができるでしょう」
そうは言っても、聞く耳を持つならば、すでに改心しているはずだ。
私に向けられるのは古臭い、説教臭いという野次ばかり。
私を呼んだ何尚書は、少なくとも私の力を信じてはいるのだが。
「ふむ、まぁ、いい。また年が明けたら呼ぼう」
つまりは場が白けたから帰れという指示だ。
それと同時に今年の内に思い直すつもりはないという、死出の挨拶。
少しは聞き入れる耳はあったようだが、残念だ。
すぐさま動かない、自らに心地よい環境に浸りたい。
その怠惰で上辺だけの対応が、そもそもここにいる者たちの実績のなさを助長する。
その上で血筋に頼んだ曹昭伯に寄りかかっているのだから、余計に今以上になれはしないのだ。
「それでは失礼をして」
私が諦めて座を立とうとしたら、突然宴会をしていた室の戸が勢いよく開いた。
途端に酒と暖気に淀んでいた空気が、清冽な冬の風に塗り替えられる。
「来ましたよ、昭伯。まぁ、平叔さまもいらっしゃるのね。ちょうどいいわ」
「長姫、いや、司馬夫人!? 何故ここに?」
今を時めく曹昭伯が慌てるような相手らしい。
司馬家と言えば政敵のような間柄になっているはずだが。
しかも司馬家の当主が重病だと、都に来て噂も聞いている。
年齢的に子息の夫人だろうが何故ここに?
改めて司馬夫人を見れば、私や曹昭伯と同じくらいの年齢だった。
線が細く華奢だが、何処か一本筋が通った雰囲気がある。
何より私に向けられた真っ直ぐな目が、理知を物語っていた。
ただそれと同時に、私の目には何も見えない。
「あら、あなたは見ない顔ね。…………どうしたのかしら? まるで幽鬼でも見たような顔をして?」
「は、あ…………あ、なたさ、まは?」
自分でも驚くほど声が震える。
だが今まで神仙を垣間見ることさえあった私でも、このような方は見たことがない。
生きて死ぬ人間ならば、必ず天が下した天命が存在する。
そこにはその者の生きる道筋が必ず表れるのだ。
けれど、この方には何も見えない。
まるでここにはいないかのようだ。
いつ生まれ、どう生きて、何処で死ぬのか。
そんな人間なら当たり前にあるはずの運命が全くない。
「そう言えば、一人だけ…………私を見て同じような顔をした方がいらしたわ」
こんな死人のような方、ある程度力があれば異常さがわかるだろう。
おののく私に何尚書までもが心配の声を上げた。
「どうしたと言うのだ、管。神卜とたたえられたお前がそこまで取り乱すなど」
「まぁ、神卜? ではあなたは管公明? そう、あなたに私は幽鬼のように見えるのね」
何処か遠くを見るような目をして、司馬夫人が独り言ちる。
確実に私でも見通せない何かを知っている。
そんな勘が働いた。
「そんなことはどうでもいい。司馬夫人いったい何をしに来た?」
曹昭伯が不快そうに言えば、それに対して司馬夫人は胸を張った。
「あら、私はもう司馬夫人ではないわ。だって、夫には離縁を願って出て来たのだもの」
「はぁ!?」
曹昭伯が驚嘆の声を響かせる。
他も驚きすぎて、いっそ声も出ないほどだ。
「あなたが言ったのよ、昭伯。司馬家に嫁いだ身で曹家に口を出すなと。だったら、あなたと話すには夏侯家に戻らなければいけないのでしょう? さぁ、これで私はただの夏侯子林の娘よ。話をしましょう」
その名乗りでわかった。
相手は武帝の娘と夏侯大将軍の息子の間に生まれた一人娘。
曹昭伯が宗族とはいえ、こちらは血筋で言えば現皇帝の従姉妹に当たる方だ。
さらに言えば、司馬太博の長子の嫁。
そんな方が、曹昭伯の言葉で、離縁?
「待て待て待て、長姫! 見つけたぞ!」
「あら、大兄。どうしたの?」
「どうしたのではない! お前の手紙で夏侯家は何処もとんでもない騒ぎだ!」
駆けこんで来たのは、どうやら夏侯家の親類男性。
曹昭伯と見比べれば、血縁を判じられる顔相があるので、こちらも曹氏の血筋らしい。
それと同時に、曹昭伯の周囲は混乱をきたしてしまっていた。
「すでに司馬家も君を取り返そうと騒ぎだしている! ともかく子上に押さえてもらっているが、子元が荒れてるんだぞ!」
「まぁ、この歳にもなって兄弟喧嘩?」
笑う司馬夫人に、夏侯氏は何かを悟った顔をした。
その上で室内に責めるような目を向ける。
「昭伯どの、確認させてくれ。今回の長姫のこの行動は、あなたが唆したのか?」
「ち、違う! そんなつもりはない!」
「では、先ほど長姫が言っていたような発言はなかったと?」
「そ、それは…………」
どうやら、嫁に行ったなら口を出すなと本当に言ったらしい。
呆れた夏侯氏は、さらにことが大きくなることを告げた。
「これは、陛下のお耳にも入るだろう」
「こんな内輪揉めを!?」
「太傅が重い病であると知りながら、その長子の夫人につらく当たった。司馬家に嫁いだ今、口を利かないと言ったのだろう? それによって離縁の申し立てだ。さらに離縁を突きつけたその足で、長姫はここへ来ている。夏侯家に離縁の旨をしたためてな」
つまり、曹家が言い出し、司馬家を揉めさせ、夏侯家を巻き込んだ。
「ちなみに丁家も話が届けばお怒りになる」
「は? 何故そこで丁家が? 陛下のお側に届くということか?」
丁家は思帝の側近の血筋で、権勢は微妙だが今も皇帝の側に侍る家だ。
「…………親子二代で、曹家の物言いによって娶れなかったと怨んでいるのか」
何尚書は内情を知っているらしく、愕然とした様子で呟く。
丁家は司馬夫人の婚姻に関係するらしい。
政略的に考えれば、曹家が間に入ってこの夫人は司馬家へ嫁いだのが、曹家の物言いでさらに離縁となれば、確かにそれは丁家に恨まれもするだろう。
退室の機会を逸した私に、この状況を作った司馬夫人が、諍い合う親族を横目に笑う。
「これで、来年また顔を合わせられるかしら?」
確信のある言葉に私は息を呑んだ。
死相の示す天命は、年明けて数日だとこの方は知っている。
その上で司馬夫人に答えるために、曹昭伯や何尚書を見るには、私の中の常識が揺らぎそうで恐ろしく、下を向いているしかなかった。
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