百三十五話:法正
他視点
「孝直、どう思う?」
難しいと言うには、覇気のない顔で私に問う主君の劉玄徳さま。
渡された竹簡は、手に取るだけで墨が香る。
その時点で私も眉間に皺が寄るのを感じた。
四十を越えて皺が取れにくくなっているのに、それでもこれは眉を顰めるしかない。
「本当に夏侯の姫の筆跡だろうか?」
「おかしなものです。何故遠く許昌を離れたこの漢中に?」
言ってみても、いるものはいるのだ。
その証拠がこうして届けられた書簡。
今なお墨が香るほどの距離で書かれ、送りつけられた。
幼さをうかがわせる文字は、手が小さいからこそ小ぶりに書き連ねられている。
「しかし、河南尹の孫は、確か荊州にも現れたというではないか」
劉玄徳さまが惑われるのも、仕方ないような前例がある姫だ。
魏王の太子に荊州をひっかきまわされたのは一昨年。
関将軍が相手を軽んじて引っ張り出された上に、勇み足で呉軍まで出張った。
当の魏軍は弱ったのがふりかどうかもわからないほど、さっさと逃げて高みの見物。
漢中を先んじて取られた我々を、嬲るような動きだ。
「今なお公安は呉の手の内。面倒な場所に現れるとでもいうのでしょうか」
「そうだな、あれはよろしくないな」
思わず余計なことを漏らすと、劉玄徳さまは肩を落とした。
主君が落ち込むのは、義弟の不手際故だ。
江陵に刃を突きつけるような位置を奪われて動けず、呉もそれがわかっているから、奪い返されまいと抵抗し続ける。
この一年、攻防が繰り返され、漢中攻めを企図しながら動きにくくてしょうがなかった。
しかしここで漢中攻めを諦めては、魏軍がより弱ったほうを平らげるだけ。
呉と争うなど魏軍に利するとわかっていても、今まで呉を止めていた魯大都督はもうない。
新たな大都督は孫仲謀の意を受け、荊州奪還に前向きだ。
その他呉軍の将も、敵を前に逃げることを良しとしない血気盛んな者たちがいるという。
「嫌な手を使う」
「そうだな、これではやりにくい」
困る理由のもう一つ。
何故か戦場にいる夏侯の姫から送られた書簡だ。
内容は、主君のもう一人の義弟である方の奥方への挨拶。
そしてその夏侯氏である奥方の娘には今、主君の太子との婚姻話が持ち上がっている。
外戚となるかもしれない者への書簡の取次は、公に送られており無視もできない。
だからと言って受け取れば、義弟の身内に刃を向けるこの戦いに疑義が呈される。
「平時ではないので、取次に対しては断りを申せます」
「う、うむ、そうだな。せっかく書いたようだが、場をわきまえてもらわねば、な」
そうは言うが、主君の士気は目に見えて下がっている。
そうなると、周囲も及び腰になるのは目に見えていた。
この方は類稀な人の上に立つ天与の才を持っている。
その息に触れれば、染められるように同じ方向に気炎を吐く。
だというのに、その意気を挫くように、情に訴えての書簡。
保留という簡単な対処でいいが、一度揺すぶられては動揺を落ち着かせる必要ができる。
「こちらは私がお預かりしても? 時機を見るならば、後々にでもお届けいたします」
「あぁ、いいとも。そう、時機を見る必要があるな。何か策かもしれないのだ、うん」
主君も意気を上げようと言っているようだが、書簡には一見してわかる子供の文字。
これが偽造とは思えない。
ましてや内容が他愛なく、夏侯家の者としての親愛に溢れた内容だ。
そんな少女のいる陣地に攻撃を仕掛けることに、主君は罪悪感を持ってしまっている。
私は主君の前から退いて、思わず溜め息を零した。
「軍師どのは本当に外さないな。これは、その場で処断しておくべきだった」
成人しておらず、ただ祖父と両親の名を借りての姫でしかない矮小な存在。
だが、この夏侯の姫はかつて荊州で我が軍と出会った。
全く意味もなく、全く企みもなく。
死地にあって、ただ一つの正答を選んだという奇才。
「馬の足を痛める悪い小石のようだな」
軍師どのの話を聞いて、他人事に思った感想だ。
馬一頭もけっこうな財産で、それが足という致命的な部分を傷めるのは手痛い。
しかも上に鎧武者が乗っていれば、振り落とされて骨折などもあり得る危険を孕む。
「たかが小石。されど無視できない場所にあれば、重大な障害となる」
まさに今回はそれだ。
小さく、力なく、けれど確実に致命的なところを突いてきている。
劉玄徳さまは率いる者だ。
それ故に先頭に立ち、見える位置にいていただかねばならない。
それは、意気が低い時にも見える位置に立つことにもなる。
つまり、これから戦おうと言うところで、内容になんら問題なくとも、とても嫌な書簡が突きつけられた状態。
「意気を上げるために一度、いや、このまま…………それも上手く動くかどうか」
子供の文字を眺めながら、いくつもの策と結果の予測を検討する。
今回の作戦は正面で戦い、遊撃の黄将軍で敵の首を狩る。
「すでに黄将軍に動いていただいている。こちらの状態が見えないなら、変更は悪手」
主君には、書簡のことを頭から払ってもらえるよう、手を講じなければいけない。
ただこうして、すでに作戦が動いている今になって送られた書簡は、本当にたちが悪い。
「全く、荊州で始末できていれば良かったものを。軍師どのはどうも結果を一早く確定してしまう故に、事後の始末よりも先の大望を取る」
私であれば、江陵の城内で殺していた。
子供ならば事故とでも言って。
後から魏軍が介入することで、荊州のひっ迫は今よりも激しかったかもしれないが、それでもこの時に居合わせて、嫌な手を打たれるよりましに思える。
「関将軍には殺させることができないとなった時に、そこまでは考えたのだろうが。そうであれば、この戦いにも干渉されることは見えていたはず」
そうなると、あえて私に夏侯の姫の存在を語ったのは、警戒を促すためか。
「全くわかりにくい。それに言われたところで、対策などできないではないか」
どうも軍師どのは頭が良すぎて、情に浅薄なところがある。
尊貴な姫の動きなど大事に囲われて近づけず、監視もできない。
だからこそ予想できず、予測もできないのだ。
現地で現れたその時に、対処するしかない。
そうであるとは言え、もう少し話して諭して、共に悩むくらいの共感性があってもいいだろう。
「清いだけではない。が、合理が過ぎる。人は恩情に応え、恩讐に走るというのに」
恩と怨には、自分が重きを置いていることもある。
逆にそこで線引きをすることで、私情を抑圧する境として置いている。
そうすることで、合理を選べるのだ。
だからこそ、清廉を旨とする軍師どのとも足並みは揃えられる。
目指す先は同じだと示す指標になっていた。
ただ軍師どのは最初から、その私情がないような動きをする。
だからわかりにくく、予想もしにくい上で、他人の勘繰りをより深める。
それは主君ほどの度量、その義弟方のような一種の純粋さがなければ受け入れることは難しいほどに、非情にも見えた。
「いや、今は目の前のことだ。問題は、信頼と実績があるからこそ、任せられた夏侯将軍さえ落とせばというこの作戦だ。…………血縁でも上位者二人の、曹家と夏侯家を結ぶ血筋。その姫がいて、腰が重くなることはあっても、軽くはならん」
今までの傾向から、敵方の夏侯将軍は腰が軽い。
それ故に自ら動いて、補給路の確保や防衛の穴を埋める迅速な対応が勝利へ導いた。
つまり、動ける将を分散させれば、必ず夏侯将軍が現われるのだ。
そこを狩るつもりが、姫のお守りをしていては、放り出して単独行動などするはずもない。
「はぁ、これは最悪黄将軍は戻らないか。それを悟らせては、より士気が落ちる。やはり今のまま進めるほかあるまい」
この作戦は、漢中のみで動いているわけではないのだ。
関将軍のほうでも公安を焼き払い、返す刀で樊城を攻めてもらう。
奪還の叶わぬ公安は、もはや呉の橋頭保であり邪魔でしかない。
焼き払い拠点として使えなくすることで呉を鈍らせ、漢中を睨む魏の城を攻める。
並みの武将では決して実現できぬと及び腰になる強硬策。
豪傑とは言え関将軍一人に引き受けさせたからには、こちらも小石一つで怯んではいられない。
「あちらに血を流させるならば、こちらも血を厭うまいよ」
そう思い決めたものの、実際はやはり上手く行かず、策は外れた。
夏侯将軍は腰が重くなり、逆落としをしてその首を狙った黄将軍は、飛び出した女児に怯むこととなったとか。
結果、逆落としで本陣を襲撃した混乱に乗じ、定軍山の魏軍を追い散らすことはできたが、すぐに敵は兵を整えて奪還の動きを見せる。
長安まで押し返せなかったのは、やはり主君の意気の低さがあだとなったか。
幸いなのは、黄将軍が戻り、夏侯将軍に手ひどい傷をつけたくらい。
「本当に馬を転ばす小石だったとは。怨みますよ、軍師どの。そうとわかっていて汚名を負っても手を打たなかった不手際を」
ただ結局小石姫は、魏軍にとっては珠玉に等しい血筋の姫。
その後、私や軍師どのが処断できるような距離に現れることは、生涯ないままだった。
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