百三十四話:生きているから
江陵での戦いの終結を、私は見届けることなく安城から許都へ帰った。
(ただの女児だもの。戦を見届けられないなんて、当たり前よね)
胸にくすぶる悔しさを、そう考えて宥めた。
駕籠に揺られて許昌へ戻った時には、すでに初夏の気配がする季節。
仕組んだとはいえ勝手に争うことになった呉と蜀を横目に、曹家の祖父もすでに都へ戻っている。
次に睨むのは蜀の北部。
すでに攻め込んで足場にした地から、魏が攻めるか、蜀が奪い取るかという局面だ。
(漢中の防衛は、妙才さまに任される。けれど…………)
漢中防衛に関する戦いの中に、定軍山の戦いと言われるものがある。
それは決して劣勢ではなかった戦い。
だから曹家の祖父も、夏侯家の中でも実力のある妙才さまに任せた。
けれど結果は、釣り出されての奇襲により、名高い将軍であった妙才さまは戦死。
続く樊城の戦いで魏軍は精彩を欠き、重要な拠点を連敗の上で失うのだ。
(今の状態で、樊城の戦いが起こったら?)
きっと関羽は汚名を雪ごうと、東の海の向こうの知識よりも苛烈に攻める。
そうなると、樊城の将兵が援軍より先に降伏してしまう可能性もあるかもしれない。
私は一人駕籠の中で首を横に振る。
こんなに悪いほうに考えてしまうのは、今回やってしまったという思いから。
(今回の荊州の戦いは予想外ばかりだった。それに子桓叔父さまと子建叔父さまの争いも落ち着いていない。この先、どう転ぶかわからないもの)
結局、けりがつくはずだった内部の諍いは、場所が戦場になっただけでより悪化した可能性もあるくらいだ。
「うーん」
「いかがなさいましたか、長姫?」
いつの間にか駕籠が屋敷についていて、降りるのを手伝おうとしてた見慣れた侍女が私を覗き込んでいた。
そんな侍女の横から、見慣れた家妓も私の様子をうかがう。
「あらあら、長姫はまずお疲れを取ってから頭を悩ませられてはいかがでしょう。そうでなければ良い考えも浮かびませんよ」
「そういうものかしら?」
家妓は見透かすように笑って、私を駕籠から出す。
「離れてしまえば遠い空。手が届くわけでもなし、声を届けられることもなし。今目の前の、手の届くところで懸命に努めるしかありません」
実感の籠った家妓の言葉は、けれど同時に歌うように軽く私を悩ませない思いやりを感じる。
そうして駕籠を降りて両親に合流し、まずは先祖の廟に帰還の挨拶をする。
そして両親は不在中の報告をそれぞれ使用人たちに行い、やることのない私は早々に寝室へとさげられた。
「もう、また心配して。駕籠に揺られるだけなら倒れないわ」
「長姫は一息入れられると、突然ということもありますから」
慣れた様子で侍女が私の手足を拭う水を用意してくれる。
同じ室内で、荷ほどきを手伝う家妓の姿に、私は疑問を投げかけた。
「ねぇ、手が届かないなら、足で近づくよう努めるのはどうかしら?」
「まぁ」
私の提案に、家妓は頬に手を添えて微笑みつつ困る。
これは、そう言うことじゃない?
そして聞いていた侍女が、腰に手を当ててできるだけ怖い顔を作っていた。
「長姫、また無茶をなさると? その前にどうかひと言くださいましね」
「あ、はい」
「長姫、本当にその足を使っていかなければなりませんか? どなたかにそのお声で託すことは?」
私が否定しないことで、家妓も困りつつ別の提案をしてきた。
「…………わからないわ」
まだ明確に何をするということも決まっていない。
そう言うと、いっそ二人は安堵した様子で頷く。
「ではまずはご両親にお話ししてみてはいかがでしょう」
「それでも言いにくいならご友人にでもよろしいわ」
「あ、もちろん私でもお聞きします。まぁ、できることはあまりないのですが」
「あらあら、それでもできる者を探すことはできるでしょう。なんでも自分で背負い込むことはないのよ」
やる気を見せた途端に肩を落とす侍女に、家妓は優しくその背を叩いて慰める。
「そう、なのだけれど、やっぱり自分が何もしてないと不安だわ」
侍女に向けられた言葉に、私は思わず返す。
すると家妓は言い含めるように応じた。
「人一人でできることは限られています。けれど、そう、連環の計の話をいたしましたね? あのように、どんな勇壮な者も奸臣を排除できなかったところを、一人の女に託した知恵者がいたからこそ、救われたものもあるのです」
「それで言えば、すでに長姫はそのお知恵でもって、方々のお心を動かし救いとなっておられますから」
侍女があえて方々と濁したのは、もしかして私の両親かしら?
家妓が語ることとはだいぶ規模が違う話だと思うのだけれど。
でも確かに、誰かを動かすには、身近な人から話して、聞いて、そして託すこともしなくてはいけないのかもしれない。
「…………私、最初はただ、悲しかったのよ」
「ほほ、より良くと求めるのは人のさがですから」
私の呟きに家妓が同意するように頷く。
大層なことをしたかったわけではない。
最初は仲の悪い両親が悲しかった。
私のせいで喧嘩しているのもわかっていたから。
(けれどそこに東の海の向こうの知識が加わって、どうしても二人を止めないとって)
遠く先の未来を知ってから、恐ろしくなった。
将来死を望んでしまうほどにこじれる両親が。
力強く私を抱き上げてくれる祖父たちの、失意の中の死が。
見舞ってくれる親類の非業の死が。
「でも、生きてる」
「そうです。生きてることは素晴らしいことです。長姫も危険なことはせずにどうかご安全に」
拳を握ってまで言う侍女は、どうやら江陵に留め置かれた時に随分心配させたようだ。
生きてるから、死んでほしくない。
生きてるから、笑っていてほしい。
「生きてるから、より良く?」
聞き返す私に、家妓は微笑んで頷く。
「でもそれは、我がままじゃないかしら?」
「まぁ、長姫がお考えになっていることは、あなたさま以外が笑顔になられないのですか?」
そう聞かれると首を横に振るしかない。
それを見て侍女は、よくわかっていないなりに私を心配して声をかけてくれた。
「でしたらよろしいのでは? あ、もちろん無茶はいけません。けれど、他の者とも笑顔でより良くなりたいと言うのであれば、協力を求められて嫌な者はいないでしょう」
「あとはそうですね、この夏侯家の者として、胸を張れることであれば、きっと大丈夫でしょう」
何処まで見透かしているのかわからない家妓はそういう。
けれど家妓と違って、侍女は無茶を推奨するような言葉に複雑そうだ。
「ふふ、まるで私の行いを肯定してくれた父上と、それでも心配すぎて許せなかった母上みたい」
言ったら、侍女と家妓は顔を見合わせた。
「わたくしどもにお仕えするご家族に関して意見を挙げることはできませんが、やはり心配なものは心配なのです」
「難しい判断もおありでしょうから、私心を殺してお国のために身を挺すことも、一つお役目だとは思いますわ」
「ふ、ふふ。結局どちらも意見は曲げないのね。けれど、えぇ、そういうものよね。生きると言うことは」
心配もするし、安全も望む。
けれど同時に譲れない思いも、誰かのために動くことも、やはり当たり前の生きること。
「えぇ、私は夏侯の娘として生まれたのだもの。だったら、私にしかできないことを、諦めずにやってみましょう。それで、きっと変わることもあるわ」
誰かの死を変えたけれど、結局死の別れはいずれ訪れる。
私の行いは水面に石を投げ入れることと同じかもしれない。
一時波紋広げても、いずれ何ごともなかったように消えるかもしれない。
それでも、遠く過ぎ去った歴史を眺めるのではない、今を生きている私にできることをしよう。
抗いようもない別れが、どうか少しでも心安らかに、悔いが残らないように。
私は夏侯の娘として生きているのだから。
了
*来週も週一更新をしますが、他視点の上に時間が年単位で飛びます。
次回:法正