百十三話:共に並んで
元仲のところで阿栄に釘を刺した。
危うさを感じてはいても、私に庇われたという意識のある元仲も止められずにいたらしい。
阿栄には初陣へついて行くと、その場の勢いで言ったけれど。
…………ありかもしれないと思っている。
もちろんその前に、両親の説得をどうやってするかとか色々問題はある。
けれど今回で生きた人がいるのだから、もしかしたら阿栄だってと思ってしまう。
「はぁ、はぁ、長姫!」
「あら、小小? 走ってきたの?」
私は一人司馬家が借りる屋敷で待っていたら、室に小小が飛び込んで抱きついてきた。
追って来ただろう大哥も、遅れて姿を現す。
「すまない長姫。止められなかった」
「いいの。私も挨拶が遅れてごめんなさい」
寝込む以上に両親に止められ、司馬家の兄弟にも安城に入ってから会えなかった。
お互いに挨拶をしつつ、元気な姿に安堵の息を吐き合う。
そんな私に抱きついていた小小は、震えているようだ。
「良かったぁ…………」
「心配してくれてありがとう、小小」
泣いているらしく顔を上げない小小をそのままにして、私は改めて大哥に顔を向ける。
「大兄や小妹に私の様子を聞いて、気にかけてくれていたのでしょう? 訪ねて来てくれたのに、会わないままでごめんなさい」
「いや、大変なのは聞いていた。それに、母の強さというのもわかる」
実感があるのは、司馬家も夫婦仲がよろしくないせいよね。
ほぼ会ったことのない大哥と小小の生母は、東の海の向こうの知識に頼っても、相当な難物だとわかる。
「許昌に戻ったら、改めて小小まで危険に巻き込んだことを謝りに伺うわね」
「いや、その必要はない。あれは私たちの責任だ。その上で君は君の責任を果たしたんだ。謝る必要なんてない」
大哥は何処か覚悟を決めたような顔をして言う。
すると、小小が突然顔を上げて大泣きし始めた。
「長姫、帰ってきてよかったぁ!」
「まぁ、小小」
「もう行かないで!」
私が置いて行かれたのだけれど、小小としては置いて行かれたような気持ちらしい。
今はもう置いていかないと言っても、それから小一時間、泣いてぐずる小小の相手に専念することになった。
「…………本当にすまない、長姫」
ようやく疲れて寝た小小に、大哥が気恥ずかしそうに謝る。
小小は置いていかれまいと抱き着いたまま、今は私の膝を使って寝ていた。
起こさないよう私も小声になって、大哥に笑いかける。
「それこそ謝る必要はないわよ。素直に心配されて悪い気はしないもの」
「そうかもしれないが、弟は素直すぎる」
大哥に東の海の向こうの知識はないけれど、兄として弟の性状はよくわかっているらしい。
将来小小は司馬昭という人物になる。
その司馬昭は、父と兄が権勢を取るために政変を起こす際、直前まで知らされなかった。
(案外、こういう子供らしさが大人になっても残っていたのかもしれないのね)
そんな将来を想像して、私は小小の寝顔に笑みをこぼす。
すると大哥は、声を小さくした私に合わせて寄って来た。
「わかる範囲で、江陵のことも聞きたいんだ」
「えぇ、いいわ」
元仲はこういう話よりも、阿栄を気にしていた。
大哥は小小を気にかけはしても、忘れはしない。
そういう抜け目のなさもまた、将来に引き継がれていく性情なのだろう。
「なるほど、そういう動きだったのか」
「仲達さまからお聞きにはなってないの?」
「お忙しくて、話す時間はあまり…………」
次の戦いを見据えているからには、そうだろう。
場合によっては、次にこちらから攻めることも視野に入っているのだし。
あの時私と小妹には、私たちしか知れない情報があったから、時間を割いてくださったのだ。
「まだまだだな。全くわからなかった。わからずに、失態を犯した」
「それは私もよ」
違和感はあったのに、何か裏があるとも考えたこともあったのに。
けれど目の前のことで手いっぱいで、対処なんてできなかった。
ましてや、行動の結果を予測する余裕もなかったのだ。
「私も長姫のように、遠くへ思いはせるように捉えなければいけないな」
「…………私は少し先を考えられるだけよ。それに、わからないことには何もできない」
今回は特にそうで、知らない戦いに遭って反省する点は多い。
それに阿栄の初陣は変わらず定軍山でも、もしかしたら東の海の向こうの知識とは違うかもしれない。
これからはきちんと考えて対処も考えて、それから…………。
「もっと、次は上手くやらないと」
「次もあるのか?」
思わずつぶやいた言葉を大哥に聞かれて、私は遅まきながら口を閉じる。
耐えられないと言った奉小。
疲れるほど泣いた小小。
阿栄も悔しがっていた。
「長姫?」
「今のは、忘れて。なんでもないわ」
笑って誤魔化す。
これは私が見ていられないという自己満足で、巻き込むわけにはいかない。
優しい大哥は、こうして反省するほど気に病んでいるのだから。
これは私が考えるべきことだ。
そう思っていたら、大哥は私の手を取って真っ直ぐに見つめてきた。
「聞かせてほしい」
目も言葉も、真っ直ぐ私を捕える。
「私は、長姫を知りたい」
「どうして?」
思わず聞き返したら、大哥は赤くなった。
それがもう答えで、私もつられて顔に熱が集まる。
「私みたいなの、そんな…………、駄目よ」
「いや、長姫だからこそだ。同じものを並んで見られる。一緒に思い描けるなら、生涯も共にできると思ってる」
私が身を引こうとすると、大哥は真剣に言い募って、掴んだ手に力を籠める。
私はまだ誰かを、他人や異性を好きだとかは、わからない。
両親、親戚、友人、周りにいて一緒に笑ってくれる人々。
それは確かに好きだ。
けれど、例えば母を思う丁正礼のような。
幾人もの妻を抱える曹家の祖父のような。
自ら望んで得たのに、死を贈る子桓叔父さまのような。
男女の好きという気持ちは、いったいどんなものかしら?
「私には、わからないわ。生涯を共に、できるの?」
大哥の生涯は、知っている。
東の海の向こうの知識にあるほど、歴史に名を遺すから。
司馬師となって権勢をふるうため、妻である夏侯徽、小妹を殺すのだ。
(今の近さなら、そんな政略結婚あってもおかしくない。でも、同じ夏侯氏でも、別人が嫁いだらどうなるの?)
濡須口ではいないはずの私たちが関わって結果が変わった。
だったら、結婚でもそうなのではない?
ただそんな理由で、大哥の気持ちを利用していいのだろうか。
ちゃんと一緒に、せめて寄り添えるようになってから。
いえ、でも一番は譲れない私の思いをまず伝えないと。
「私は夏侯の娘として、生涯を遂げると思うわ。嫁いだとしても、たぶん、今回と同じことをする」
曹家あっての夏侯家。
だからきっと、司馬家よりも優先するし、それは将来の司馬師とはきっと袂を別つ。
けれど目の前の大哥は満面の笑みを浮かべていた。
「それこそ、私が望む未来と同じだ。父のように子桓さまにお仕えして、難しい国政にも戦場にも挑むんだ」
そう言えば、司馬師は傷が悪化しても戦場に出ていた人だ。
そういう果敢な人なのだ。
「わからないなら、君も私を知ってくれ。私は君がいいんだ、長姫」
司馬師ではない大哥は、照れながらもはっきりそう言ってくれたのだった。
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