百三十二話:帰還の約束
奉小は、先に許都へ戻ることになった。
夏侯氏は私の両親の元に固まっているし、元仲は成人している、子桓叔父さまという親もいる。
司馬家の兄弟も仲達さまという親元。
奉小だけが荀家の大人の下におらず、今回のことで許都へと早期帰還を言い渡されていたそうだ。
それぞれに挨拶をして、私が最後だったとか。
だからまだ帰れないと、許昌から送られた迎えを頑なに拒んでいたという。
「長姫、わざわざ来てもらってすまない。もう疲労は取れただろうか」
元仲が幼さに負けない美貌で微笑みかけた。
私は奉小が安城を去った後、元仲に呼ばれている。
熱が引いた後は元気だったのだけれど、こうして家を出られなかったのは両親の心配がまだ続いていたからだ。
「謝るなら、夏侯氏として私が謝らなければいけないわ。阿栄が泊まり込んでるんだもの」
「よ、夫婦喧嘩は終わったか?」
「あぁ、そういうこと」
聞けば、最初に逃げ出そうとしたのは大兄らしい。
けれど小妹が私の側を離れたくないと言うので、妹につき合い屋敷に残った。
結果、阿栄だけが元仲のところに避難していたそうだ。
「俺も何回か戻ってまだ会えないかなって様子は見てたんだぜ」
そうして阿栄は元仲に経過報告をしていた。
「もう大丈夫よ。母上も私を心配しすぎて、父上と落ち着いて話せなかっただけ」
「そう言えるのが長姫の強いところだな」
元仲も両親の不仲に頭を悩ませている一人。
私より難しいのは、夫婦があまり一緒にいないせいでもあるけれど。
濡須口から引き続き、我が家は両親一緒にいるからこそ、わだかまりの解消もできる。
けれど元仲のところは、妹が病み上がりで甄夫人は許昌に残っているのよね。
どうにかしてあげたいけれど、物理的な距離はさすがにどうしようもないわ。
「…………悔しいな」
「え、なぁに?」
思わず漏れたらしい元仲の呟きに聞き返したら、阿栄も頷く。
「うん、悔しい」-
わからない顔の私を置いて、同意された元仲はいっそ笑った。
「長姫に守られ、小妹に庇われ。悔しい思いが改めて、長姫の稚い姿を見ると、湧いてきたんだ。だが、ここからだとも思う。そうして他者に命を救われ、丞相まで上り詰められた方もいる」
それは曹家の祖父のことかしら。
息子に、忠臣に、守られ、庇われ、生きてこそ、今の栄達がある。
そう思ってくれるなら、傷ついて笑えもしなくなった奉小よりも、私も心が軽い。
それなら一つ、思ほえず聞いた、とある方の言葉もお伝えしましょう。
「女人の力を侮ってはいけないと、諸葛軍師は関公におっしゃっていたわ」
「女人の力か。そう言えるだけの含蓄があるのだろうか?」
「うーん、やっぱり戦功をあげられる人は違うなぁ」
考える元仲に対して、阿栄は素直に力量差を受け入れる様子。
できればこの言葉で、将来的にあるかもしれない元仲のお妃問題を自重してほしいのだけれど。
(何故か母上が正室の座から追われて不遇をかこつのに、自らも正妻を排して寵姫を皇后にするのだもの。わからないものね)
今こうして私の話を聞いてくれる元仲からは、想像もできない。
将来どんな心持ちでそんな選択を強行するのだろう?
それとも親の決めた結婚に対する、元仲なりの抵抗だったのかしら。
考えても歴史にその真相はないのだから、今の私にわかるわけもないけれど。
「うん、やっぱり助けられなかったのが一番駄目だ」
阿栄が強く言うので見ると、拳を握ってまで何か決心したような顔をしている。
「戦うつもりなのに、武器がないからって逃げるなんて男らしくないよな。それに戻っても何もできないままじゃ、そりゃ女人にも力負けする。こんなんじゃ、父上の下で何もできない」
いつにない様子で、真剣に阿栄は握った拳を見下ろしていた。
驚く私に、元仲が近づいて来て囁く。
「奉小も様子がおかしかっただろう。実は、阿栄もあれからちょっと変なんだ」
「えぇ?」
私と小妹が囮になったことを、奉小は気に病んでいた。
あの場でも、すぐに受け入れなかったし、引き摺るほど苦渋の決断だったのもわかる。
けれど阿栄は即応したのだ。
夏侯家として、曹家の元仲を守ろうと迷いもしなかった。
「別に間違ったことをしたとは思っていないんでしょう?」
「その上で、今度こそと気負ってしまって。元から妙才さまに置いて行かれていたところに、あれではな」
一緒に濡須口に行った時にも、目立ったことはできなかった。
それどころか、敵に一撃で昏倒させられもしている。
そして江陵ではただ逃げるだけ。
それが本人としては、今度こそと思い決めて気負ってしまうほどの事件だったようだ。
「戦場でもないのにずっと言ってるし、戦意の高さは悪いことではない。ただ、危うくて」
「そうね」
見るとちょうど拳を見つめていた阿栄が、こっちを見た。
なので、言うだけは言ってみる。
「阿栄、やる気はいいけれど、その勢いで時期を待つことをしなくてはいけないのよ」
「時期?」
「今回私と小妹が無事だったのは、じっと草むらに隠れることをしていたからよ」
「それは二人が戦えなかったからだろう。俺ならもっとできることがある」
これは駄目ね。
「同じよ。あの時あそこにいたのが私じゃなく、阿栄と大兄だったら? そんな二人で飛び出すの? 敵の中?」
「それはあまりに考えなしだ。うん、決して褒められた行動じゃない」
元仲も、私が阿栄を諌めようとしているとわかって加勢してくれる。
「ほら、私であっても阿栄であってもやることは変わらないわ。だったら、ちゃんと想像して、考えて。敵が目の前にいるからって、すぐさま飛び出すなんてしちゃいけないの」
「戦場に立つなら隊列もある。模擬戦闘を見たんだろう? だったら、隊列を乱すように前に突出することがよろしくないのもわかるはずだ」
私の切り口で、元仲も言うべきことがわかったように続けた。
「戦功を求めることは悪いことじゃない。けれど敵の前で悪目立ちしてもいけない。濡須口の本陣でも、身を持って経験しただろう? 最初に狙われるなんて、最初に脱落するだけだ。それじゃあ、本当に何もできないと言うものだろう」
功績を挙げたい、戦いたい阿栄だけれど、それもできないと言われては返す言葉もないようだ。
明確に討ち死にして華々しく、なんて危ないことを考えているわけではないのなら、ここで釘を刺すべきね。
「それと、最後はちゃんと逃げることを考えないといけないわ」
「え、それはないだろ。戦う者が逃げてどうするんだ」
「何を言ってるの? 兵を率いるのに、どれだけの損害を出したかも、どれだけの戦果を引き出せたかも報告しないつもり?」
不満そうな阿栄に指を突きつけて迫ると、元仲が笑う。
「確かに、長姫はそうして戻って来た。その上で、報告すべきことも保持して、自らが戦火にならないよう立ち回りもした。阿栄は同じ夏侯氏として、そういう立ち回りを求められることもあるかもしれないな」
「うぇー。む、難しすぎるって…………」
「前例がいるんだ。期待されることもあるはずだと、今から備えるべきじゃないか? それとも、自分よりも幼くか弱い女人にできたことを、できないというのか?」
先に成人した元仲の言葉に、阿栄は悩み始めた。
けれどその様子は、何処か思いつめた先ほどまでと違う。
(そうね。それくらいじゃないと、夏侯栄は死を恐れずに走って行ってしまう)
東の海の向こうの知識を思いながら、私は阿栄にもう一度言い聞かせた。
「帰って来て。そしてこうして、私に話を聞かせてね」
帰る約束を取り付けようとすると、阿栄は黙る。
死を恐れない勇猛さに憧れがあるからこそ、後ろを振り返る約束はしたくないんだろう。
けれどそれでは駄目だから、私は今度は指を立ててみせた。
「そう、約束してくれないのね。だったら阿栄の初陣について行くわ。そして最後は連れて帰る。もし無茶をすることになってしまった時には、一緒に怒られましょうねー」
「嘘だろ!? あれだけ心配されたのにまた無茶する気か!」
行く末を知ってるからこそ本気の混じる私に、阿栄も気づいて声を裏返らせ、元仲も唖然として私を見る。
私もこれ以上両親を心配させたくないし、喧嘩の種にもなりたくない。
けれど、知っていて阿栄を死に走らせることもしたくはないからこそ、本気なのだった。
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