百三十話:逃げた後に
不安が暴走していた母を宥めて、私はようやく面会を許された。
まずは、夏侯家として仮住まいの同じ屋敷にいた大兄と小妹と再会する。
「また倒れたと聞いて生きた心地がしなかったのに、会えもしないで心配したんだぞ」
「そうです。熱は下がったはずなのにお会いできないので、皆で心配をしてました」
小妹から私の無事は聞いていても、大兄も心配していたらしい。
夏侯氏として同じ屋敷にいるのに、両親の喧嘩もあっては悪い想像も膨らんだんだろう。
私に会えない分、二人が私を訪ねて来た人の対応をしていてくれていた。
ちなみに、同じ夏侯氏の阿栄は、元仲のほうへ行っていて未だに会えてない。
「私も様子を聞きたいけれど、まずはどうやって戻ったかを教えてほしいわ」
私たちが別れたのは戦場。
逃がしたとはいえ、決して大兄たちも安全な状態じゃなかった。
「運が良かったのは、元仲さまの指揮する兵と合流できたことだ」
大兄がいうには、逃げた先でその日の内に合流できたんだとか。
元仲を守る兵としては、前任者が濡須口で一度はぐれてしまっている。
また守るべき相手を見失ったなんてことになったら、軍に戻っても厳しい罰が待っているだろう。
だから逃げる兵たちをかき分けて、捜してくれていたそうだ。
「そうして合流できたのも夜になる寸前だったそうです」
「まぁ、寝食には不便しなかった私たちより大変じゃない」
「そんなわけはないだろう」
小妹の言葉に驚いたら、大兄から力強く否定された。
「こっちは変装もそうだが、派手に逃げる兵たちから離れて追走もなく済んだんだ」
まず子供だけの集団で、さらには武装もしてない。
そのせいで無関係と思われたのか、足が遅くても兵を追うことが優先されたらしい。
そして元仲を捜していた兵に見つけられ、その後は一日遅れで、兵を纏める子桓叔父さまに合流できたとか。
「俺たちがただ後ろを見ながら歩いている時に、長姫と小妹は関羽と諸葛亮に睨まれたと言うじゃないか」
「それでも夜は寝台があったわ。食事も十分にいただいていたのよ」
「はい、怖かったですけどひどいことはされませんでした」
私と小妹がそう酷い状況じゃないと言うけれど、大兄は呆れた。
「怖かったんじゃないか」
そう言われては、否定もできない。
小妹なんて泣かない日がないくらいだった。
「ともかく、こちらは全員怪我もなく戻れた。ただ…………」
大兄が言いかけた時、外から窺う声が上がる。
私が部屋に呼んでいた人物だ。
「大兄。こちら、江陵で小妹とお世話になった侍女よ」
「そうか、この者が。妹たちが世話になった」
「い、いえ、滅相もない」
下働きしていた江陵の侍女は、大兄の感謝にうろたえる。
なので、小妹の兄ということを私から説明した。
その上で、小妹が家に帰って十分世話をしてもらったと言ったから、こうして呼んで直接礼をしたのだとか。
しかも私の無事も確認した上で、妹たちと括って。
「まぁまぁ、才媛であられる理由はあるものなんですねぇ。礼節を重んじる素晴らしい若君が兄君であれば、さもありなんと言うものです」
江陵の侍女は感心した上で、不思議なことを言い出した。
「それで、弟君とも再会をなされましたか?」
いない相手のことを聞かれ、大兄が私たちを見るけれど、こちらにも心当たりはない。
「私たちに弟はいないわ」
「まぁ、そうなのですか? あ、では妹君でしょうか。泣いていらっしゃるときに大兄、小小とおっしゃられていたので」
侍女として部屋に待機していた時に、小妹が泣いている声を拾っていたようだ。
「あ、それは司馬家の…………」
「待って、小妹。…………あなたは江陵に所属する時には、私たちの様子を報告していたのよね。その際に、その兄と弟のことを言ったかしら?」
「えぇ、それは仕事でしたから。ですが、心細く兄弟を思って涙することにはなんの警戒も必要ないかと。実際、取り上げられた様子もありませんでしたし」
私が確認した内容を聞いて、大兄が手を打つ。
「そうか、いても夏侯家のみと思ったか」
「えぇ、そうではないかと思うわ」
「どうしたのでしょう? 私は何か?」
小妹が不安そうに聞いて来るし、敵方として動いた江陵の侍女も粗相があったかと心配そうな顔になっていた。
なので私は笑ってみせる。
「いいえ、今回は功を奏したわ。ありがとう」
改めて大兄側の夏侯家からも礼金を出すと言う話をして、江陵の侍女は下げた。
「私の存在を訝しんでいた軍師さまなら、あの場で私たちがいたことに疑問を持てば、偵察を出したはず。けれど、大兄たちは捕捉されなかった」
「見つかった可能性はあるが、それでも追われなかったのは夏侯家関係の者たちのみだと思われたからだろうな」
私と大兄は小妹に説明して聞かせた。
「あ、私の発言で兄と弟、つまりは夏侯家の男児が複数同行していたと勘違いして?」
「えぇ、けれどそれでまさか曹家や司馬家、荀家の若君たちが揃ってるなんて思わなかったんでしょうね」
そもそも最低限で、供もろくに連れずにいる子供集団に、兵を割いても功はない。
それに蜀側が隠したいお金の問題もある。
食べるには困らなかったから、たぶんお金そのものが不足しているんでしょう。
武器も燃えているし、軍備のためにお金を減らすこともしたくはなかったのではないかしら。
私たちがいることで、魏軍の介入の踏み台にされることさえ嫌がっていたのだから、さらに夏侯家の人間を増やすことはしないだろう。
「見つけても夏侯家の誰かならこれ以上いらない。そういう判断で見逃されたのね」
「で、では、元仲さまがいらっしゃると知られていたら?」
悪い予感がありながら聞く小妹に、大兄は頷いた。
「江陵の防衛戦をしながらも、追討の兵を出していたかもな」
「私たちと違って、襲ってくるなと魏王に対して迫れるほどの方だもの」
私たちのような女児を人質とするなら、名折れもある。
けれど子供のような年齢でも、成人済みで戦にも参加した指揮官の嫡子ならまた別だ。
危うく濡須口で呉軍にしたことを、蜀軍にやり返される羽目になるところだった。
「本当に事なきを得てよかった」
「はい」
私と小妹は胸を撫で下ろすけれど、大兄は腕を組んで不満を表す。
「体に怪我がなくても、心に傷を負ってしまった者もいるのに良かったとは言えないな」
「え、どういうこと? 誰のことなの?」
「あ、阿栄がずいぶん戦に前向きになってしまっています」
小妹がいうには、夏侯家の阿栄が私たちに庇われたことで奮起したそうだ。
自分が今度こそ成人して、戦える装備で戦場に立つのだと、息巻いているとか。
ただ、大兄は首を横に振る。
「阿栄じゃない、奉小だ」
「まさか気に病んでいるの? 私の判断でしたことよ。元仲を守って無事に送り届けてくれただけで十分なのに」
荀家という名門は曹家の重臣だ。
夏侯家と似た立場で地位も責任もあるとは言え、当主の弟であってもまだ子供。
奉小が気負う必要はないはず。
私の言葉に、大兄はまた首を横に振った。
「恐ろしいと言っているんだ」
「まぁ」
小妹も聞いてないようで、驚きの声を漏らす。
どうやら弱音だから、阿栄たちにも言わず仲の良い大兄だけが聞いたらしい。
そして、私が悪いことにはなっていないと確認できたからこそ、話す気になったようだ。
「あのまま、長姫と小妹を見捨てて生き延びてしまったことを悔いている。残ることもせずに、守ることもできずに、ただただあることが苦しくて、恐ろしいと」
「そ、そんなに?」
あまりに重く受けて止めてしまっている様子に驚くと、大兄はしょうがない奴というように私を見る。
「よりによって思い寄せた相手を見捨てたんだぞ? 奉小の反応は順当だと俺は思う。だから、できれば早い内に、奉小に無事な姿を見せてやってくれ」
どうやら奉小は今回のことを思い詰めているらしい。
その上で、私にあまりにも自覚がないせいで、大兄も呆れてしまったようだった。
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