百二十八話:送れない援軍
安城に戻って、私は小妹と一緒に、子桓叔父さま側と情報交換をした。
諸葛亮は天才的故に変な人ってことでいいのかしら?
ただ江陵の保持という一番の目的は確かにしているし、子桓叔父さまの策には最低限のらないよう立ち回った。
その上で子桓叔父さまも江陵を戦場にしようという狙いは果たしている。
「子桓叔父さま、結局江陵はどうなるのでしょう?」
関羽を釣り出し、呉軍も利用し、利用されつつ両軍を戦場に引きずり出した。
江陵を戦場にして魏軍は敗走ながら、無事に退いている。
結果として江陵を眺める樊城の兵は無傷で、子桓叔父さま自身が危機的状況であったとは言え、無事に安城まで戻っている。
比して、濡須口での不調で呉軍は戦いに前のめりだ。
「勢いのある呉軍が江陵を落とすことはあるのでしょうか?」
「あっても構わん」
子桓叔父さまが本気か冗談かわからない笑みを浮かべる。
それを見た仲達さまが、補足をしてくれた。
「残る呉軍も攻城戦の後には疲弊します。樊城も無傷で、江夏も復興の名目で兵馬を集めても現状疑われないのですから、打つ手はいくらでもあるのです」
つまり呉軍が苦労して江陵を落とせば、江夏から兵が即応する。
どうりで出迎えることをしてくれた子建叔父さまが、夕食まで現れなかったわけだ。
すでに次の戦いを見据えて動いていたのね。
「ふむ、長姫は何やら悩ましげ。いったい何を憂いておられるのかな?」
賈文和が面白がる様子で聞いてきた。
「矢面に立った子建叔父さまが、いつの間にか子桓叔父さまに使われる立場になっているのが可哀想で」
「何、子建もわかってやっている。いっそ、今度こそ関羽か呂子明の首をと勇んでいることだろう。あれは派手な武勇を欲しがる。自らが動けないところで私が肉薄したのを、さぞ悔しがったことだろう」
子桓叔父さまは、どうやら文より武を求める子建叔父さまの性情は織り込み済み。
その上で機会はまだあるぞと乗せているようだ。
関羽の首、もしくは疲弊した呉軍の将でもと、子建叔父さまは望んでいる。
名望を得るためなのだから、丁兄弟もそこからが巻き返しだと思って止めないのかもしれない。
けれどこうしてわかっているなら、そこも子桓叔父さまは抑え込む気でいるのだろう。
「兄弟喧嘩はほどほどにしてくださいませ。命を落としては戻らないのですから」
「今回に限っては、長姫に言われたところで聞けんな」
子桓叔父さまが意地悪だわ。
確かに私も今回無茶をしたけれど、それは身内の争いではない。
とは言え、ここで言ってももう終わったことなのだから、先についてお聞きしよう。
「江陵が落ちるとお思いですか?」
聞く私の脳裏に、戦場に戻るだろうここまで連れて来てくれた蜀の兵たちの姿が過る。
「そこは微妙なところでしょうな」
「こちらとしては江陵の戦いが長引けば重畳。漢中攻めも鈍る」
賈文和と仲達さまがもっと先を見据えて答えた。
「呉軍は勝利を期して攻めている。しかし濡須口で消耗もした。諸葛孔明の援軍が城内に増えたと思っているのならば、攻め方も慎重になるやもしれんな」
子桓叔父さまもすぐさま江陵が落ちるとは思っていないようだ。
「では、蜀軍からすれば、守りを固める間に、漢中攻めの準備ですか?」
「そうでしょう。あそこで争われれば不安はある。ただ我々も目が離せない。長引くだけこちらも動きを決めかねる」
仲達さまが不利を語るけれど、蜀側の動きをすでに捉えている。
語り口に現れる余裕は、漢中は妙才さま、その出口を抑える子孝さまがいるから。
備えなければ破れないとわかる実力者たちへの信頼。
「漢中を攻められるとわかっていて援軍などはないのでしょうか?」
「長姫、それは祖父の誰にも言うな。将器を疑う侮辱だ」
「あ、これは失礼しました」
子桓叔父さまに窘められた。
確かに攻められて守れない人は置かないわ。
口に出してしまえば、任命した曹家の祖父にも、同族の夏侯の祖父にも失礼だ。
攻められるぞと伝えて、兵が足りないと求められるならまだしも、言われる前に援軍を送るなんて、こいつは負けると侮りを伝えるようなもの。
賈文和は反省する私を取り成すように声を上げた。
「まぁまぁ、お身内を心配する子供にそう言わずとも。関羽に諸葛孔明、どちらも刺激の強い手合いですから。それらを見て不安がるのも無理はないでしょう」
「こちらも荊州で戦いが続けば、漢中攻めの勢いが鈍ることを考えています。せめて出口を開くか、守って出口を開けさせないか。その二択を迫られた時、一つに邁進するよりも必ず精彩を欠くことになる」
仲達さまは、蜀も予定どおり整えて漢中攻めをしたところで、精彩を欠くだろう予想を教えてくれた。
つまり負けずとも江陵が攻められている状態は、蜀にとって精神的な圧迫。
その上で江陵自体は疲弊するのだから、さらに魏軍のつけ入る隙になる。
呉軍が退いても、呉軍が取っても、江陵にいる勢力が疲弊しているのは間違いない。
その後に魏軍が攻めいる気なのだろう。
いっそ呉と蜀が争っている今は、魏軍の兵を休ませる好機ということかもしれない。
「すでに先手は取った。あちらがどれだけ血を流すか。それは次の手の易さを変えるだけだ」
子桓叔父さまがいう血は、つまり命のこと。
怖いけれど、そういうものだ。
拙速に急いで動いて、江陵を戦場にした。
それによって打てる呉軍の手は攻めしかなく、蜀軍は守りしかなくなった。
江陵の戦いがどう転んでも、今からさらに次を備える余裕のある魏軍が攻めに回れる。
「諸葛孔明が漢中侵攻を思いとどまる様子がないと知れただけ重畳。江陵に援軍はない」
「その上駕籠を用意する資金さえ渋る、兵站も弱いとなれば持久戦もしないでしょうな」
仲達さまと賈文和が、私たちが持ち帰った情報で蜀の内情を推察した。
そこからさらに、次の漢中攻めの様相も語る。
「来年には江陵も治まっているでしょう。諸葛孔明が退いたならば、耐えるだけはできる算段があってのことと思っていい」
「しかし内情がかつかつなら、漢中攻めでも長期戦じゃなく奇襲なんかの短期決戦に持っていくんじゃないですかね」
「…………その話はまた後だ」
突然話を遮った子桓叔父さまは、私たちを見て…………いえ、私を見てる?
「長姫、暑くはないか?」
「え、あ、はい。少し…………」
言ったら小妹が慌てて手を伸ばす。
小妹の手が私の額に添えられた。
「お熱があります!」
「そうかしら?」
そう言えばちょっとふわっとした、熱に浮かされた感覚があるかもしれない。
「顔が赤くなり始めているぞ」
子桓叔父さまも、私が熱を出している兆候に気づいたらしい。
そしてすぐに手を叩く。
すると侍者が一人入って来た。
「長姫が体調不良になった。医生を呼べ。悪いようなら動かさず安静にするため臥室を整えろ。大丈夫そうなら丁重に運んで子林の下へ送れ」
熱に気が付くと、それまで大丈夫だったのに、途端に体が重く感じられる。
顔の火照りも自分で感じられるほどだ。
そんな私の様子に、小妹も慌ててしまっていた。
大丈夫と言いたいのに、全身がだるく声を出すために力を入れるのも億劫になる。
「全く、こちらの宝児を隠しておいて。駕籠を用意するくらいの誠意を見せろ」
子桓叔父さまの文句が思ったより近くに聞こえた。
次の瞬間体が浮く。
どうやら私は、子桓叔父さまに抱えられたらしい。
「少し外す。確認と誰を走らせるかは決めておけ」
「「はは」」
子桓叔父さまに言われて、仲達さまと賈文和が返事をした。
「小妹、ついて来い」
「はい!」
子桓叔父さまのいう確認は、たぶん私たちの話の裏を取れということでしょう。
走らせるのは諜報かしら?
それとも戦いに備えての地理の確認?
「長姫、子林はともかく姉上の後には、元仲たちも今かと待っている。辛いなら早めに言え。そうでなければうかうか寝込んでもいられないぞ」
「は、い…………」
他所ごとを考える私に、子桓叔父さまは叱るように言う。
ただちょっと私がそう言われてほっとしたのは、元仲たちがちゃんといること、無事なことがわかったらからだった。
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