百二十七話:有情と非情
身内が有情であることは喜ぶべきでしょうけれど、考えられる結果が重い。
もう色々話が重いせいか、体まで重く感じられるほど。
その上で、私も元仲たちを逃がした後のことを話さなければならなかった。
隠れて逃げる魏軍を見ている間に、合流した樊城の騎兵の声を聞いたこと。
追って来た蜀軍や、近くで足を止めた関羽、そして宥める諸葛亮の言葉を、小妹と思い出せるだけ詳細に語った。
「はぁ、そりゃまた。ずいぶん上手く突いたもんだ」
「自らのやり口をそのまま返されれば打つ手もなかろう」
私たちの対話の様子に賈文和と子桓叔父さまは何処か呆れた様子。
「上手く突いたというのは、どういうことでしょうか?」
「諸葛孔明が諸々の面倒と、後の苦労を一手に解決するため処分を即決した。だが、長姫は上手く殺せない位置につける言葉を最低限で勝ち取ったんでしょう」
大きく手を広げて見せる賈文和の後に、子桓叔父さまも続ける。
「仁義や情に訴えて冷静になれと諭した後に、情を抱かせる言葉選びを長姫がしたのだ。情に流されるななどと否定しては、自らの前言が色を失くす」
そう言われれば、あの時諸葛亮は関羽に義兄弟のことを聞かせて落ち着かせていた。
けれどあの時は必死だったから、諸葛孔明の隙を突いたり真似したりなんて考える余裕もなかったのだけれど。
「あの、正直私は諸葛孔明という方がよくわからずにいました。今もよくわかりません。本当に幾つもの理由を考えて、結果そこにいただけの長姫の処断を求めたのでしょうか?」
「それであっています。あれは常人の経るべき思考をせず、答えを叩きつけてくる手合いです。わかるわけがない」
応じる仲達さまに、疑問を投げかけた小妹はさらに困惑した。
「思考をしないのですか?」
「常人であれば一を見て二を推測する。聡い者であれば、一を見て十を察する。諸葛孔明は、推測も推察もせず、一に十を叩きつけ、飛躍して百の可能性を眺めながら、そこに辿り着く五十を振り返る」
仲達さまのとんでも解説に、私も理解が及ばない。
そして乱暴な言い方に、さすがの子桓叔父さまも笑うしかないようだ。
けれど賈文和は別のことを気にかけた。
「こちらとしては、何故わからないとわかったのかが気にかかりますさね」
「わからないと、わかった?」
不思議な言い回しだけれど、たぶん私のことよね?
「女児の私たちを見て、その上で私に目を止めて、幽鬼でも見るような顔をなさいました。あれは、きっと、私たちでは及びもつかない何かを見る人なのではと」
「それで、血にまみれた関公に声をかけるか? 豪胆なことだ」
子桓叔父さまに笑われて、ようやく状況を客観視した。
言われてみれば確かに、私の行動は状況にそぐわない。
見た目ではあからさまに怖い関羽は、武器を持って、血にも塗れていた。
比較すれば諸葛亮は旅の埃はあっても身綺麗で、長身であっても圧のない人物。
並べばどちらが話を聞いてくれそうかなんて、間違えようもないはず。
「情に訴えられるのは、関公であると思い、よくは考えずにお声かけをいたしました」
「その判断は正しいですね。諸葛孔明はいずれ、身内であっても不要となれば切り捨てるでしょうから」
何処か確信めいた仲達さまに、賈文和もそんな兆候を感じているのか頷く。
「先を見過ぎて近くを眺められない。正しいからこそ、その正しさに目を背ける人間もいる。ついて行けない人間もいる。あれはついて来れない者を置き捨て、正しい道の邪魔となる者は切り捨てる、無情の男でしょうな」
「仁義を担うと称する者に対してずいぶんだな」
お二人の考えには及んでいないらしい子桓叔父さまが、皮肉げに笑う。
ただ私は、仲達さまや賈文和が正しいことを知っている。
(泣いて馬謖を斬るという故事成語があるんだもの)
与えた命令をしくじった弟子を、責任者として処罰した逸話だ。
才能を惜しみ、その命散らすことを惜しみながらも、正しく賞罰を下すため、蜀が軍事行動を続けるために、諸葛亮は愛弟子を斬った。
他にも劉封という劉備の養子がいた。
劉備の不興を買った際に、諸葛亮は処断するよう勧めたのだ。
理由は実子の劉禅が継ぐには障害になるから。
それもまた蜀が戦い続けるために必要なことだった。
(東の海の向こうの知識からすれば、三国鼎立を続けるため、声望を一つに集めるため、継承を正しく行うため、そうしなければ後の蜀が立ち行かなくなることを見据えての判断だけれど…………)
今を生きる人間としては、仲達さまと賈文和が言うとおり無情でしかない。
主君や自らの死後を憂えて備えるにしても、そこまでと思ってしまう果断さだ。
「…………あの、では私は?」
私は確かに諸葛亮に殺されようとしたのだけれど、それほどの価値があるとは思えない。
確かに上げられた理由はあり得そうだけれど、殺して知らないふりをして、それで?
結局私が生きていても、蜀という国一つをどうにかできるとも思えないのだけれど。
「女人の力がと言っていたならば、将来的に敵となる者の母となるのを恐れたか」
「へ、そ、そこまでですか?」
子桓叔父さまのいう将来は、あまりに遠い。
実感がないと言うか、四半刻にも満たないあれでそこまで?
いえ、いっそそこまで考える異常性に気味悪さが増す気もするけれど。
「まさか、あの状況でそれは飛躍しているように聞こえます」
私と一歳違いの小妹も、生まれてもいない子供を危惧するのは考えすぎだと感じたようだ。
けれど不思議がってるのは私たちだけ。
仲達さまも賈文和も、子桓叔父さまの言葉に特別奇異は感じないらしい。
「確か長姫方は孫子を。それに呉ともまみえたとか。だったら赤壁での戦い、何処からあの諸葛孔明が、勝利を描いていたか考えてみればいいんじゃないでしょうかね?」
「勝利のその先、荊州からの巴蜀入りも、もうあの頃には描いていた計略だろう。であれば、あそこで負けるはずもないという自信が腹の立つことだ」
いつにない不機嫌さの上で、仲達さまは漏れた本音を咳払いで誤魔化した。
「今回何処を見据えているかが確定しただけでも、無理を通した甲斐はありました」
「あぁ、濡須口終わってこっちが一息入れる間に、漢中を攻める。そのためには荊州で戦はまずいってもんさね」
仲達さまに賈文和が悪い笑身を浮かべる。
それに子桓叔父さまも頷いて見せた。
「蜀本国からの手出しがまたあるということだな。…………順当にいけば、馬氏の遺児を使って涼州を支配下に入れるか。そのためにはまず巴蜀から出るためには漢中。そして長安だ」
戦略を考えれば、今荒れている荊州に手を入れるよりも前進のために漢中を狙うのもあり。
関羽を信頼してこそだけれど、漢中攻めがいつかなんてわからなかった。
ただ私たちが持ち帰った情報で近い内、すでに兵を揃え、しかも指揮する者の名が一つ確実にわかっている。
「樊城を挑発する兵が陽動だと早くにわかっていれば、逆に潰したのだが」
「それをさせないために長姫たちを留めたんでしょう」
惜しむ子桓叔父さまに賈文和も相手の狙いを口にする。
それを受けて仲達さまが考えを口にした。
「そうなると漢中攻めを急ぐか、いっそ遅らせるかですね」
「なんだ、どちらかわからないとでも?」
「どちらもしないでしょう」
「何故ですか?」
子桓叔父さまに当たり前に答えた仲達さまに、つい聞いてしまった。
「ばれたから急ぐと、荊州まで連れて行った兵たちの疲労が取れないままです。遅らせればすでに集めた兵の士気が弛緩する」
答えてくれる仲達さまに続いて賈文和も。
「荊州が争っている中、急いで漢中攻めたところで、二方面での争いなんて息切れするのは目に見えてる。呉に利するだけさね」
「遅らせ、荊州の争いがひと段落する時を待ったとして、結局漢中攻めをやめるつもりはないのだ。遅らせる理由がない」
子桓叔父さまも、予定どおりだという推測に賛同した。
それが本当なら東の海の向こうの知識にあるとおり、来年蜀による漢中攻めが始まる。
(えっと、漢中が動いたのは張魯という領主を曹家のおじいさまが降伏させたこと。その時に曹家のおじいさまは蜀に攻めかかることはせず退いて、呉のほうに向かったのよね)
今回の濡須口の戦いが終わった後には、蜀からしても魏軍が攻めて来るのは目に見えてる。
一度は曹家の祖父に攻められ弱った蜀は、攻めに転じる時期も限られているだろう。
巴蜀の覇権を脅かされるという状況も、漢中に陣取った妙才さまと張儁乂という将軍とが駐留しているので疑いようもない。
確かに子桓叔父さまたちが言うとおり、漢中攻めを早めることも遅らせることも、蜀にとっては悪手。
「つまり、兵を集めて、兵糧を蓄えて、兵を訓練して。いつ戦いが起こるのでしょう?」
「まだ来年よ。集めてもまだ、たぶん食糧が足りないでしょうし。それに今回荊州にはったりとは言え兵を回せる余裕がある日数を考えると…………」
祖父のような妙才さまを心配する小妹につい答えてしまった。
すると、大人たちが感心するように溜め息を吐く。
「その歳でそこまで。諸葛孔明めの慧眼、存外外れないのかもしれないな」
子桓叔父さまは、そんなことを言って笑ったのだった。
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