夏侯の娘～あと四年で祖父たちは死にます～

本編

百二十六話：二虎供食の計

　最初は子建叔父さまが、濡須口のための模擬戦闘を見て思いついた策だった。

　あえて自分を餌に関羽をつり出し、その背後を呉軍に襲わせる。

　そうして自らは争う両軍を高みの見物。

　けれど結果として、呉軍は江夏では動かなかった。

「子建の策が上手くいかないと見て、利用を考えた」

　子桓叔父さまは、安城で眺めつつ、樊城の曹子孝さまに連絡を取ったという。

　最初は戦いが始まる前に、兄弟が争うように見せかけるための欺瞞。

　けれど濡須口で戦っている間の推移を見て、江陵へ狙いを定めて樊城に働きかけ始めたという。

「呉軍の想定は？　呉軍も江陵を狙うとわかっていてのことですか？」

　驚いて聞く私に、仲達さまは息を吐く。

「関羽の隙を狙ってはいると考えていました。ただいつまでも魯子敬が動かない。濡須口のことで兵を出し渋っている可能性も考えてはいましたね」

　子建叔父さまが関羽と戦っている時、東では濡須口の戦いがあった。

　あまりに動きがないため、呉軍は二方面での戦いはしない可能性も視野に入れていたそうだ。

　そんな安全策を取るのなら、濡須口で消耗してすぐに荊州で兵を損耗させる行動はしないかもしれない。

　だからこそ引きずり出す。

　それが子桓叔父さまの考えだった。

「だから濡須口での戦いが終わるのを待っていたんさね。ま、予想外の報告も多かったが」

　賈文和が私たちを眺めて笑う。

「呉軍の将を人質に取るとはな。お蔭で、いい火種ができた。活躍の場を奪われた者たちは、争いの気配となれば勇んで前線へ行くだろうからな」

　子桓叔父さまに言われて浮かぶのは、朱然と徐盛という将軍二人。

　本来戦場にいない私たちが関わったことで、結果の違ってしまった人たちだ。

　張遼に生け捕りにされた上、歴史に残る活躍が消え、汚名まで負ってしまっている。

「呉軍を連戦させて、弱める狙いでしょうか？」

「いや、奮戦を期待しているとも」

　子桓叔父さまが喉を鳴らす笑い方で、小ばかにするように応じた。

「つまり、弱った関羽、焦った呉軍で、潰し合えと？」

　内心を想像して言ったら、大人たちは真顔になる。

「…………それを姉上には言うなよ？」

「やはり女児を戦場に連れて行くなど、教育に悪いのでは？」

「いやぁ、そこはご本人の心意気で学んでるんでしょうよ」

　これは怒られる気配ね。

　私も口は閉じておこう。

　でも他に言い方はないわよね。

　東の海の知識でもさすがに…………あ、あった。

「二虎競食？」

「「「それだ」」」

「なんでしょう？」

　大人たちはほどよく乱暴じゃない言い方に反応するけれど、小妹はわからない。

「確か、おじいさまが天子さまを奉戴された時になされた計略だったはずよ」

「ようは都の足場固めが必要な時に、外敵をどうしましょうかねってなった時の方針ですな」

　そういう賈文和は、まだ敵方だったころの話だ。

　大敵袁紹も存命で、呂布は徐州を荒らしていた頃。

　つまり敵が多かった時期の対策。

「二匹の虎の間に肉を投げ込むようなもののはずよ。虎同士が争い弱れば、どちらも討ち果たすのは容易になるとか？」

「あの頃は呂布が誼を通じては、手を切って暴れ、暴れてはまた別勢力と誼を通じることをしていたな」

「思えば暴れ回って消耗した虎そのものですね。袁紹と袁術の勢力間の確執も良く引っ掻き回した」

　当時はまだ若かっただろう子桓叔父さまに、仲達さまが頷く。

「それを、江陵でなさろうとしたのですか？」

「たぶん、お肉が子桓叔父さまだったのでは？」

　小妹に答えつつ聞けば、大人たちは否定しない。

　つまりは関羽を釣り出した子建叔父さまに対して、子桓叔父さまは自ら裾を濡らし泥を被るように江陵まで出向いて、呉軍を釣り出した。

　挟まれることを嫌って魏軍が逃げても、揃った呉軍と蜀軍が矛を収めるのは難しい状況。

「両軍が揃えば、争うしかないわ。そしてそうなれば弱る」

「では、軍師さまが兵を使わずに帰ったのは、わかっていたのでしょうか？」

「えぇ、仕組まれたと気づいていたのかもしれないわね」

「きっとそうです。守りに専念するようにと関公におっしゃっていました」

「つまらぬことをする」

　私たちの話に子桓叔父さまがそんな感想を投げる。

　たぶん諸葛亮の対応が予想以下だったから。

　予想以上に、蜀軍の損耗を避ける方針で、予想よりも江陵が弱りそうにないためだろう。

「まぁまぁ、それで？　他にも何をお聞きになったんですかね？」

　賈文和が、今度は私たちが話す番だと手を差し向けた。

　ただそこで私が思い浮かぶのは、諸葛亮の顔。

　正直わからない人だった。

　怖いけれど関羽のほうが、どう心を動かすかがわかる人物。

　諸葛亮は目の前のこと以外を見ていたような、不気味さがあった。

　それが子桓叔父さまの狙いを見定めてのことだとすれば、あれにも何か理由があったのかもしれない。

「あの、妙に私を殺そうとしてきたんですが？　お心当たりは？」

　聞いてみたら全員が渋面になる。

「それは長姫の血筋を知った上でもか？」

「はい」

　子桓叔父さまに答えると、さらに眉間が険しくなった。

　賈文和は親指のほうから指を立てて数える。

「一、知らぬ存ぜぬ押し通すためにさっさと殺す。二、一見して情報漏らしたらやばい手合いに見えた。三、確実にこっちが動く口実にされるんで引き取りたくなかった」

「四、兵の損耗を抑えるためにさっさと帰るためにも、切って終わりにしたかった。五、また夏侯氏から誘拐だかどわかし婚だと噂される」

「…………六、そもそも引き取って返すのが手間。金銭的に」

　賈文和に続いて子桓叔父さまが二つ指を立てる。

　出尽くしたと思ったら仲達さまも一本指を立てた。

　六つのどれだろうと思っていると、仲達さまが教えてくれる。

「これらすべてを綯い交ぜにした状況があるからでしょう」

「あちらさん、江夏直前に駕籠を用立てるような涙ぐましさですからなぁ」

　手を振る賈文和の言葉から、ばれてる。

　どうやら私たちが接近してる様子は観測されていたようだ。

　その上でお金を渋った様子まで把握されているなんて。

　そう言われると、後で酷い待遇だったと言われないよう気を使われていた気もする。

　金銭的余裕もないのに、確実に暮らしぶりは敵方の上位陣に伝わる娘たちの世話。

　財政を知っている者からすれば、大変な時に面倒な出費の元、と言うことなのかしら。

（世知辛い。そんな理由で私、命の危機に陥っていたの？　防衛を敷く前には差し迫った問題でもあるけれど）

　後は殺して終わりで早く次の動きをという、これは頷ける。

　呉軍が迫る中、兵は漢中攻めのため連れ帰らなければいけない。

　私の身元確認や、魏軍からの問い合わせに対応するなんて時間の無駄だ。

「全く、こちらの問責をことごとく無視しておいて」

「はい？」

　子桓叔父さまに聞けば、どうやら私たちが江陵に留め置かれてる間、私たちを保護してないかと何度も問責の使者を送ったという。

　それに対して知らぬ存ぜぬでまともに相手しなかったとか。

「それは、軍師さまが魏からの責めは相手にするなと言っているのを漏れ聞きました」

　とは言え、私たちを保護してること自体、知らないふりしているなんて思わなかった。

「はぁ、あちらさん。こっちが迎えに行くって名目で兵を立てるのくらいは見透かしてるか」

　賈文和がとんでもないことを言い出す。

　驚いていると仲達さまも頷いていた。

「あの混乱状態であれば、方々が動いてくださる好機ではありましたね」

　小妹ともども、戦に通じるその真意を聞く気にはなれない。

　だって、方々って誰なんて、ねぇ？

　曹家の祖父に夏侯の祖父、小妹の父である伯仁さま、祖父に等しい妙才さまもいれば、曹家の伯父にあたる曹子丹さまもいる。

　誰もが一軍を率いれる将で、もし実行されていたらと考えると、そんなこと聞けるわけがなかった。

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