百二十五話:泥に汚れる
戦場で関羽と諸葛亮に出会い、運良く無事に帰れた私と小妹。
安城で待っていた子桓叔父さまから、子供ながらに今回の裏側を教えてもらえることになった。
「もちろん、子建の獲物を横から取るでも良かった。だが、そう上手くも行くまい。相手は関羽だ」
子桓叔父さまも力不足は自覚していたようだ。
それでも虚を突くことで、機会を得る可能性くらいは考えてはいたと思う。
「ではあの子建叔父さまとの挟み撃ちは?」
「あれは偶然でしたなぁ」
賈文和は笑い、いなかった仲達さまも聞いてはいたようで頷く。
「長姫の助言で江夏へと急いでいたため、連携など二の次でしたから」
「そうなさった理由は、呉ですか?」
呉が隙をわざと見せているというのが、子桓叔父さまが動いた動機。
そこは私たちも予想できる範囲だった。
けれどその裏で何かを狙っていたとしたら?
いや、逆かもしれない。
何か仕掛けることを想定していたからこそ、呉が動けないのではなく動かないという想定と違う状態を警戒した。
動かないだけであるなら、動かない内にしかけるもの。
けれど今回の子桓叔父さまの拙速さはそういうことじゃない。
「子桓叔父さまは何を狙っていらしたのですか?」
聞くと笑いが返った。
「自らを餌に釣るならば、泥に汚れることもいとわぬことだ」
言われてすぐには、なんのことだか分らなかった。
小妹も首を傾げる姿を見て、仲達さまは苦笑する。
「そうしてすぐさま思い至らないからこそ、子桓さまが動かれた甲斐もあるというもの」
「本当に魚捕まえようってんなら、裾濡らしてこそってところさね」
賈文和も魚や水にたとえて言うので、たぶん関羽を釣り出したことが関係している。
だったらもう、私が思いつく可能性は一つだけ。
「子桓叔父さまも、釣り出しをなさっていたのですか?」
「まぁ、けれどどなたを?」
私の予測に、小妹が驚いて聞くけれど、それはわからないのよ。
さすがにあの場面で横やりを入れて来た諸葛亮なんてことはないでしょうし。
子桓叔父さまは指を立てて見せる。
「江夏へと向かった。それに合わせて江陵圧迫も指示していた。上手くはいかなかったがな」
「はい、そして結果として急いだために連携が取れずに終わりました。江夏でも、江陵でも」
あえて失敗を指摘しても動じない。
思えば連携が取れないことはわかってて急いだのだろう。
樊城相手にも、子建叔父さま相手にも。
そうまでした結果は?
「関羽の、疲弊?」
言ってみるけれどそれだけでは弱い気がする。
それに、仲達さまが先に西へ向かった。
あれは風がどうこうという賈文和の要請から。
今にして思えば、風とは諸葛亮だったのだろう。
龍は風雲を纏う生き物。
臥龍と呼ばれた諸葛亮をたとえるため、雲長という字の関羽と混同しないよう風に擬した。
もしくはただただ、蜀からの援軍を知らせるため季節的に吹く風の向き、西を指したか。
なんにしても、遅からず江陵という要地を離れた関羽を、呼び戻すための動きがあると予見していたからこその動き。
「諸葛軍師であるとわかっておいででした?」
私は賈文和と仲達さまに聞いてみた。
するとお互い目を見交わす。
「最悪大将が降りて来るかなとは思ったさね」
「それはただの暴走だ。どう考えても奴以外にない」
賈文和は可能性として劉備を挙げる。
けれど仲達さまは確信して、諸葛亮がやってくると考えていたらしい。
「関羽を止められる者として、諸葛孔明が出てくるしかないのだから」
ただそうなると、敵に援軍が現われるとわかっていて、仲達さまが逃げずに戦った理由はなんだろう。
「何がしたかったのか、私のような小人では考えが及びもつきません」
小妹がついて行けずに眉を下げてしまう。
私から見ても諸葛亮が上手く機会を捕らえたところから、這う這うの体で逃げ出したようにしか見えない。
それに呉も結局動いて江陵に侵攻している。
魏軍はこれと言った働きをしていないような?
「こちらとしても、引きずり出した成果を知っているかと思ったが」
子桓叔父さまは、困る私たちの反応を面白がる様子で断片的に言葉を投げかけて来た。
子建叔父さまと挟み撃ちは偶然で、攻撃に子桓叔父さまが加わっても効かないとわかっていた。
その上で逃げられ、追い駆け、江陵では敗走。
それでなお狙いどおり?
「いっそ諸葛軍師を引きずり出したかったのですか?」
「当たらずも遠からずさね」
驚く私に賈文和は手を広げて見せて苦笑する。
当たってはいない、けれど遠くはない。
そして釣りで裾を濡らし、泥に汚れる。
その上で呉より先に動き、蜀の援軍を知りながら江陵へと無理を通した。
引きずり出した結果があるというなら、誰かがこちらに利する動きをしているはずではない?
私が悩んでいると子桓叔父さまは満足げに頷く。
「ふふん、散々無茶だ無謀だ、一人歩きをするなとうるさかったが、場に出ていて気付けないほどとなればなかなかの結果だろう?」
そう言って目を向けるのは、仲達さまと賈文和。
どうやら今回の子桓叔父さまの拙速には苦言を呈していたらしい。
それとは別に、突然他人の屋敷に供も連れず現われる悪癖へのお叱りも含まれているかもしれない。
気づかなかったという状況で、評価はなかなか。
つまり現状すでに、当事者であっても気づけない状況がある。
今ある状況で、蜀が嫌がっていたのは?
「…………もしかして、江陵を戦地にすることですか?」
私の問いに、子桓叔父さまは笑みを深めた。
どうやら正解らしいことを知り、私は小妹と顔を見合わせる。
「確かに嫌がっていたわ。場合によっては話し合いで収めようと考えるほど」
「急いで関公を戻そうとしていらしたように思います」
「えぇ、子桓叔父さまを追わないよう言ってらして」
「呉とも戦わずに籠れと繰り返しているのを聞きました」
私たちの言葉に仲達さまが確認する。
「それは、諸葛孔明の言葉で間違いないでしょうか?」
頷けば、嫌そうに眉間を険しくされた。
それに賈文和は、何処か安心するように息を吐きだす
「ここで関公が雪辱と言って、後ろから殴りかかってくれれば、より良かったでしょうがね」
「何、公安を取られたままで済ますわけもない。地理的に守りであそこを取られているのは潜在的な脅威だ。必ず奪い返しに動く」
子桓叔父さまは、江陵に籠っているのも今の内だけだという。
「つまり、最初から呉軍を江陵に? だから江夏で動かれないよう先を急がれた?」
「関羽の首をおいても、守りの要がいなくなった江陵を取れるならば呉は動く」
子桓叔父さま当たり前にいうけれど、結果として関羽は逃げて江陵へ戻った。
となると、江夏で子建叔父さまと競うように横やりを入れたのは、呉軍の江陵攻略が進んでいた場合を考えて?
必ず二者の争いになるように、関羽をあえて戻した?
「江陵の前で、関羽の首を取る気はあったのですか?」
「可能ならな。目の前で関羽の首を取られれば、呉軍も出張った上では退けん。江陵も雪辱に燃えることだろう。だがこちらは、子孝どのと連携できぬのなら無理はすまい」
子桓叔父さまとしては、あくまで関羽の首はついで。
それよりも仲達さまを助けに向かった上で、関羽を窮地に足止めしたかった。
その本命は、関羽でも江陵でもない。
「つまり最初から、呉軍の到来を待っていらした?」
「完全に関羽の意識は呉から離れ、敗走の上に味方との連携も上手くいっていない。そんな状況で動かぬほど、呂子明が蒙昧であるとは思っていない」
自ら裾を水に濡らしての釣り出しは、関羽なんて個人じゃない。
江陵という都市での戦いそのもの。
しかも他勢力による戦乱の誘発にあった。
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