百二十三話:猶予
「なんの報せもありません。ぐす、どうなったんでしょう」
私と小妹は、江陵に連れていかれ、それ以来無闇に部屋からも出られない状況になっていた。
日に日に小妹は不安を募らせ泣く。
つけられた侍女は心配してくれるけど、私が聞いても口止めされてて戦況なんかは教えてくれない。
「逆に考えて、小妹。もしものことがあれば、口止めなんて意味がないほどの騒ぎになるはずよ。それに私たちは客扱いのまま。つまり今蜀軍が戦っているのは呉軍だけ」
そのはずだ。
そうでなければ私たちがこうして寝台も備え付けられた部屋に留め置かれている理由がない。
「大丈夫、誰も捕まっていないはずよ」
「はい」
あえて口にしなかった、元仲たち別れたみんなのこと。
私たちのように捕まっていたら、きっと尋問か何かがあるはずで、それがないならきっとみんなは逃げ果せているはず。
「今は耐えるのよ。このままであるはずがないわ」
良くも悪くも、このまま置いておくのも蜀軍にとっては邪魔だと思うし。
そんな不安と未知にさいなまれた私たちは、結果として、小妹共々親元に返されることになった。
とは言え、江陵にひと月留め置かれるという状態だったけれど。
「ご温情に感謝いたします」
「お世話になりました」
私は小妹と共に、戦火の中江陵を後にする。
呉軍に攻められるさなかの脱出では、関羽にそうひと言伝えるだけで別れた。
私たちには守る兵と、確かに送り届けたという報告をするための文官をつけられる。
後は私たちが女だからと、江陵でつけられた侍女も一緒だ。
ひと月の間に魏と蜀の間でやりとりがあったようだけれど、子供の私たちには詳しくは知らされていない。
捕虜ではなく客扱いで私たちが遇されたことで、争いにはならなかったそうだけど。
「関公が義兄弟を大切に思う方で良かったわ。お顔は怖いけれど」
「はい、怖かったです。けれど関公はまだ呉軍と戦うことになりますし、大丈夫でしょうか」
追っ手もかけられずに済んだ私たちは、歩いて勢力の境まで旅をする。
周りは蜀の人員だけれど、私たちの会話に異を唱える者はいない。
この時代、陣地の取り合いで、人員も取られた側の勢力に街ごと鞍替えする。
兵士も民からの徴兵が主で、中には自ら望んで劉備に従った者もいるけれど。
忠誠心云々は置いておいても、きっと関羽の顔が怖いと思っているのだろう。
「…………義弟の方もお顔は怖いのかしら?」
「まさか、関公以上なんてことは…………」
そんなことを言っていたら、兵の幾人かが微妙な空気になる。
実際に見たことがあるのだとしたら、これはあり得るの?
「夏侯のおじいさまとどちらが怖いかしら?」
「お怒りになると、関公と同じくらい怖くていらっしゃいますし」
怒られた経験から甲乙つけがたいわ。
呑気かもしれないけれど、いっそ攻められる江陵から離れられるほうが気楽だ。
諸葛亮の予想どおり、呉軍は本隊を連れて戻り濡須口では叶わなかった呂蒙と蔣欽が揃い踏みの中、防衛戦が始まっていた。
「軍師さまはもう蜀の地へ辿り着いたかしら?」
「大都督がいらっしゃらないことで、すぐ発ってしまわれましたね」
諸葛亮が話そうとした相手は魯粛だった。
けれど戦場にはおらず、呼びかけにも答えがないことで何やら沈痛そうな顔を一度見た。
ただその後は、呂蒙たちとは話し合いの場を持つこともなく蜀に戻っている。
(まさか、ね)
東の海の向こうの知識によると、魯粛は今年の秋に死ぬ。
それを知っていれば、今回出てこない理由も、今後会うこともないことを予想できる。
(あり得るのかしら? 神算鬼謀というのはわかるけれど、そこまで未来を?)
正直もう会いたくないわ。
雰囲気やお顔の怖い関羽よりも、諸葛亮のほうが得体が知れない。
埒外の私たちの存在に、計算外のことが起きていると警戒していたけれど、それと同時に私に対しての過ぎた警戒が、他に理由があるのではないかと疑ってしまうから。
「江陵はどうなるのかしら?」
「もちろん変わりなく」
私の呟きに蜀の兵が即座に答えた。
そちらからすればそうだろう。
「呉軍は随分意気軒高だったようだけれど」
「こちらも劣ってはおりませんよ」
否定するにも、一応呉軍の意気の高さはわかってるようだ。
呉からすれば魏に負けた後の軍事行動で、関羽が負傷し兵も損耗している状況。
その上で魏軍の動きを囮に危険なく江陵に迫っている。
この状況は願ってもない事態だ。
濡須口で結果を残せなかった者もいるため、戦意が高い様子は江陵の奥で滞在していた私たちにもわかった。
「先は長いのですし、お喋りを続けていると疲れてしまわれますよ」
私たちにつけられた年かさで子供慣れした侍女が諭す。
夏侯家の家妓に近い気遣いがあるけれど、侍女としては私は未婚でお茶を入れてくれる慣れた顔が浮かぶ。
「帰ったら、お説教ね」
「そうですね」
もちろんお説教されるのは私たちだ。
今向かってるのは境の江夏。
そこから魏軍の手で安城へ移る予定だと聞いている。
安城には、置いて来た侍女と家妓がいた。
(いえ、その前に子桓叔父さまね。それ見たことかと言われそう)
難しい状況をわかっていて私たちを置いて行くと言ったのに、それを拒否しての失態だもの。
東の海の向こうの知識だと、自己責任というのよね。
戦場から離れられた安堵もそこそこに、先に進むごとに叱られる未来が近づく。
そんな旅が終わりに近づく江夏の手前で、蜀の兵が思わぬことを言った。
「ここでは駕籠を手配しますのでお待ちを」
江夏手前の蜀の町まで、歩きだったのに。
兵よりも気を使われたけれど駕籠なんて最初からなかった今、どうして?
「どうして今、駕籠を手配するのでしょう?」
「…………よほど疲れているように思われたかしら。実際足が痛いわ」
「そうですね。こんなに歩いたのは初めてです」
疑問を口にする小妹に、私は思いついた理由とは違う言葉を口にする。
蜀の侍女は私にこっそり目礼して来たのは、気を使ったことばれたかしら。
たぶん、蜀にお金がないのだ、
だから丞相の孫娘に駕籠を用意して旅させることもできなかった。
ただそれを敵方に見られるのも外聞が悪い。
私としてもここまで安全に運んでくれた人たちが、嘲笑の的にされるのはあまり気分は良くない。
「やぁ、良く戻ったね。無事な姿を見られて安心したよ。けれどあまり時間もない。ここから安城まで行ってもらうことになる」
「子建叔父さま、息災なご様子で安堵いたしました。ですが、安城までとは?」
江夏で出迎えたのは子建叔父さま。
さらに側近の丁兄弟もいるし、他にも見た顔がいるけれど。
「まぁまぁ、ともかく旅の疲れを癒して。夕食の時に話そう」
子建叔父さまたちは私の無事を確認したら去って行った。
まだ江夏は完全復旧とは言っていないのでお忙しいのだろう。
江夏の人員に休むための屋敷に案内され、その時には蜀の人員も一緒。
敵陣地だから、全員が警戒ぎみだけれど、扱いはどうやらちゃんとしてくれるようだ。
そして私と小妹だけが子建叔父さまとの夕食に出ることになった。
「まさか無傷で戻れるとは思わなかったよ。喜ばしいと共にあっぱれと言わせてもらおう」
「私たちは隠れていただけですので」
「戦場の殺意というのはそこまで生易しいものではないよ」
即座に否定されれば、確かにと思える緊張感を思い出す。
「それで、交渉の道具にもされずに済んだのはどんな手管かな?」
「楽しそうですわね、子建叔父さま」
「今回はしてやられたからね。うーん、関羽を釣り出せたまでは良かったんだけど。もっと武威を持つ者を…………いや、それはそれで関羽も出て来てはくれなかったか」
「あまり危険なことはなさらないでください」
諦めてないらしいので言えば、笑われた。
「では、君たちが危険でなかった理由を教えてほしいな」
「さて、私たちも江陵へ入った後はほとんど様子を知れる機会もありませんでした。いったい子建叔父さまはどれほどの危機を想定されていたのですか?」
「そうだねぇ、君たちは血筋からしてまず向こうで勝手に結婚させられるくらいは考えていたよ」
予想外の答えに、私は小妹と顔を見合わせる。
「その様子なら、そんなことはなかったんだね。いやいや、本当にどうしてだろうね?」
本当に楽しそうな子建叔父さまだけれど、その上で元気で良かったわ。
「一番は、関公の情に訴えられたことが大きいのではないかと」
無事ながら、ここに留まる子建叔父さまはまだ戦う気があるかもしれない。
そんな心配から、私は諸葛亮については言及することを避けてしまったのだった。
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