百二十二話:縁を頼る
東の海の向こうの知識でも有名な人物は、今私が生きるこの時代に数多くいる。
その中でも、いっそ劇的な成果を収めたのが巴蜀で帝位を宣言した劉備。
貧困から始まる劉備の人生は、主人公として物語にも描かれる。
何よりも劇的に描かれるのは、乱世にあって、違う生まれ育ちの三人の勇士が出会い、義兄弟の契りをかわして世を正そうと志す誓いの場面。
長兄劉備、次兄関羽、末弟張飛という桃園での誓い。
そしてこの張飛が、夏侯家の娘を妻に迎えているのだ。
(妙才さまの姪で、阿栄の従姉に当たるはず)
私の記憶にはない方。
けれど早くに父を亡くし、伯父の妙才さまに育てられたのは知ってる。
そこは大兄と小妹のお父上と同じ境遇だから。
張飛の妻となった夏侯氏は、娘二人を産んだことが、東の海の向こうの知識にもある。
何せその二人、後の蜀君主、劉禅の皇后となるのだから。
(だから、たぶん、夏侯氏だからと冷遇されているなんてことはないはず)
私は半ば祈りながらじっと反応を待った。
「そのような者たちが、何故このような場所に?」
関羽が乗って来た。
夏侯氏と言えば曹家の股肱。
けれど義弟の妻の身内となればまた見方が変わる。
「少々遠出をしてしまい、帰れなくなってしまったのです」
「遠出?」
訝しげというよりも不思議そうになるのも、当たり前だろう。
周辺に夏侯氏は住んでない。
荊州は魏の勢力圏もあるけれど、子供二人でいるのは明らかにおかしい。
それでも話を続けなければいけないし、不審がられてもいけない。
正直血臭を纏った関羽は怖く、間違いなく命の危機に私は直面している。
それでもこれ以上ない状況だ。
(関羽も諸葛亮もここで足止めできれば。元仲が逃げ延びて味方に見つけてもらえる時間を稼げるかもしれない)
関羽と諸葛亮という指揮官二人がこの場に釘づけになれば、私と話してる限り他に指示出しもできない。
何より諸葛亮はすぐに帰る算段でいることが知れた。
(近くに元仲がいることに気づかれてはいけない)
せっかく関羽を止めるために出て来て、そのまま籠城で退いてくれるなら願ったり。
それに呉軍のこともある。
先遣隊は諸葛亮の出現にすぐさま引いた。
その上で本隊が来ると予見されている。
だったらここで備えを遅らせれば、さらに魏軍を追う余裕はなくなるはず。
「私は生まれつき体が弱いのですが、去年からずいぶんと快方に向かいました。そのためこうして長く外に出ていることも初めてで。浮かれて供と離れてしまったのです」
ちょっと大げさにいうけれど、後でばれても嘘ってほどじゃないように留める。
できれば見逃してもらいたいし、全く無害なのは本当だ。
放り出されてもその後はなんて不安は、今は無視する。
ともかく敵軍の前から逃げられたらいいし、これで時間が稼げるならなおいい。
「お血筋を尋ねましょうか」
諸葛亮は完全に疑うような目で私を見ていた。
最初の幽鬼を見るような目を向けた私を、完全に不審に思っている。
いったい何が見えているのだろう。
ただ嘘を吐いてもしょうがないので、ここは情に訴えるためにも正直に答える。
「私は夏侯子林の子、清河公主の娘でございます。こちらは夏侯伯仁の子、徳陽郷主の娘」
父は決して名の知れた武将じゃない。
けれど祖父の名前は広く知られており、蜀の側でその子の名前を把握していないわけもない。
さらに公主を名乗る者は限られるため、その血筋も知られている。
「魏王と、夏候河南尹の、孫…………もう一人も夏侯家と曹家の姫ですね」
「本当にどうしてここに?」
渋面になる諸葛亮の言葉を受けて、関羽が当たり前の疑問を口にする。
「やはり、私に見えていない何かが動いている…………? 想定外の事態も考えなえれば…………」
「うぅむ、夏侯妙才の甥の娘か。それは悩ましいところだが、ただの子供ではないか」
唸る関羽からすれば、義弟張飛の妻は妙才さまの姪。
私が言った身内というのは正直言いすぎだけれど、否定できるほど遠くもない。
その上、子供で女。
関羽からすると知ったからこそ迷う事実だけれど、諸葛亮の厳しい表情は何故なのか。
「…………やはりここで処分をすべきです」
「何を言う。相手は子供だぞ」
関羽としては殺したくないと思ってくれたようだ。
けれど、諸葛亮は冷静な声で返した。
「逃げ散って誰もいないと気を抜いたこちらの手抜かり。とは言え、いらぬことを聞かれたことに変わりありません」
「む、そうか」
まさかそこを理由にされるとは。
確かに諸葛亮が無理して来たこと、漢中攻略を企図して兵を集めたこと、さらにはこの後籠城をすることも聞いてしまっている。
そしてそこに今いる援軍の兵はいないことまで。
軍としての今後の動きを知ってしまった。
実際この情報を持ちかえることができれば、有利に動く目もある。
(今漢中に動きがあって、警戒した子孝さまを足止めされている。けれどそれが見せかけだけの欺瞞とわかれば、こちらから欺瞞行動をする隊を倒して、あちらに打撃も)
いらない欲が顔を出す。
そのせいか、諸葛亮の私を見る目が冷えたように感じた。
まさか心が読めるなんてことはないでしょうけれど。
私の浅知恵なんて見透かされていても不思議はない。
「誰もおらず二人だけでというわけがない。何者かに連れられてきているはずです。現状、停滞する両軍の狙いと動きはわかっていたつもりでしたが、何か私でも見通せない策略が動いているかもしれません」
「それほどのことか?」
「存在しないはずの者が今ここに生きて存在している。この不自然さは見過ごせません」
「それなら、曹子桓のはずだ。子供と行楽しているという情報があった」
どうやら安城から南下の様子は、関羽止まりの情報だったようだ。
諸葛亮が共有している情報は、江陵由来ということになる。
「今となってはその子供と行楽というのが欺瞞だとはわかる。だが、まさかここまで連れてくる理由はなんだ?」
「えぇ、曹子桓からしても不自然な行いです。ただ他に帯同できる者がいるとも考えられない。その上で、こうして置いて行っている理由など、ないはずです」
ここまで子連れで来たことに思い当たり、関羽は引いてる。
そして諸葛亮は、どう考えてもいるはずのない私たちの存在に違和感が拭えず警戒しているようだ。
いえ、最初から私を見据えていたのは、小妹を引き連れて主導権を握っていると見定めたから。
頭がいいからこそ、どうやら私の埒外の行動と結果を深読みしてしまっているらしい。
何か自分の想定を越える策略、もしくは見落とした危険があるのではないかと。
「…………今ここで処断すべきでしょう」
「子供だぞ?」
「そうであっても後の憂いとなりかねない。ありえないはずのことが起きている。いるはずのない者が存在している。このいびつな状況は、いずれ災いの元となる」
断言する諸葛亮は、どうやら想定外で埒外である私たちの存在が、より悪い結果に繋がると考えているようだ。
情報を得た自覚がある分否定はできないけれど、関羽は首を横に振る。
「いや、夏侯氏との縁者、ましてや曹孟徳の孫となればそのような暴挙はできぬ」
「女人の力を侮ってはなりませんよ。長じて後に禍を生みます」
諸葛亮の夫人も才媛と言われる。
その上でこの状況を作ったのが私だと断定して、異常なほど警戒しているらしい。
天才だからこそ少ない情報でも見透かすけれど、同時に天才だからこそ深読みして警戒が強くなりすぎているようだ。
でもこれなら小妹は助かるかもしれない。
そう思ったら引き留めるように袖を引かれる。
小妹は責めるように私を見ているのだけれど、そんなに顔に出ているかしら?
「こんな娘と同じくらいの子を手にかけるなどできぬ」
互いを庇い合う私たちの姿に、関羽はもう一度言う。
けれど諸葛亮も退かない。
「では命じればよろしい」
「先を考えるように言ったのはそなたであろう。魏に追い詰められ、追い返したところで、逃げ遅れた女児を手にかけたなど、武人にあるまじき蛮行ではないか」
どう考えても関羽が女児に対して八つ当たりしたようにしかならない状況。
劉備に任されたという意識を呼び起こされたことで、関羽は悪名を嫌う様子で言う。
自らの言葉が元と言われて、諸葛亮はようやく退く様子を見せた。
ただそれは、次の動きのための時間を惜しんだ上でのこと。
その心情は、不満そうな横顔からも読み取れたのだった。
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