百二十一話:借り物の兵
元仲を逃がし、私と小妹は茂みに隠れた。
そして戦う兵士たちが走り去ったところに、関羽と諸葛亮がすぐ近くで足を止めてしまっている。
しかも魏軍の兵を殺し尽したせいか、立ち話を始めてしまった。
どうやら関羽は自ら追討しようとするのを、諸葛亮が止めている。
「しかし、この兵は何処から持ってきたのだ?」
「経路で言えば白帝城から」
江陵の西、山間を抜ける巴蜀の地への交通網の一つ。
そこを守るために作られている城砦が白帝城。
白帝城を越えると、次に巴蜀への入り口を守るのは江陵となる。
他は漢中から抜けるしかなく、その漢中の入り口は妙才さまが、出口は曹子孝さまが押さえ、魏軍が目を光らせている。
確かに援軍を通すなら、白帝城しかない。
けれどそこは山間だからこそ隊列が乱れ、戦うために移動するには不利な場所。
そう、東の海の向こうの知識で、後年の諸葛亮が諫言する地でもある。
(そこをあえて通って来た?)
それだけ、江陵への救援を重視したということかしら。
「兵の出処は、漢中攻めのために孝直どのが集めていたものをお借りしました」
「は? あの者が?」
関羽が驚く孝直という名は東の海の向こうの知識にある。
法正、字が孝直。
元は蜀の地、益州を治める者に仕えていたけれど、劉備と出会い主人に降伏を勧告した。
その後、主を劉備に変えて謀臣として漢中攻めを行う。
妙才さまと、その息子の阿栄を間接的に討った人物だ。
「良く頷いたものだ、それがしのために」
「いいえ、あくまで主君のおんためだそうです」
訂正に関羽は無言。
諸葛亮も苦笑する気配がする。
「ここが失陥してしまえば、元より孝直どのが提言した漢中攻めも難しい。遅れても、二度と行えなくなるよりはましとのことです」
「うぅむ」
「もし仮に、何がしかを思うことがあれば、働きにてお返しいただきたいと」
「わかっている…………」
ちょっと嫌みっぽいけれど、それが法孝直という人なのだろう。
東の海の向こうの知識にも、あまり素行が良いとは言えない歴史が残っている。
その上で、身を挺して劉備に諫言をしたり、死後に諸葛孔明にいてほしかったと惜しまれもする人物。
そんな人が関羽を助けるため、いえ、荊州を保持するため諸葛亮を送りだした。
「この兵は、このまま損耗させずに孝直どのへお返しなさるのが良いでしょう」
「これ以上の貸しはいらぬ」
関羽は助けられた立場なのに不服そうだ。
そう思ったら、東の海の向こうの知識が出て来た。
関羽は実績のないものは認めない。
それで言えば法孝直は益州への手引きという、劉備からすれば勢力的な安地を得る実績を残している。
けれどすぐに荊州へ移った関羽に見える形で同じ戦場にも立っていない人物でもあった。
「えぇ、髭どのは実力主義。恩に着せるようなことはあちらもしません。ただ孝直どのが期す漢中攻めのためには、この兵が必要なのです」
諸葛亮は関羽の性格もわかった上で、応じる。
「この失態の埋め合わせは必ず戦功にて」
「あぁ、そのようなことではないのですよ。求める働きとは無理に攻めず、守りに徹すること。今回のことは釣り出されてのことでしょう」
「むぅ」
「あなたに危険が及ぶやも知れないと申し上げた時、大変でした。殿が自らあなたの危難を救うと剣と取られて…………」
「ぐ…………」
諸葛亮は関羽が、子建叔父さまに釣り出されたこともわかっているようだ。
その上で関羽が危険になることも予測して動いていたらしい。
それで危難と言うくらいだから、呉軍が動くことも織り込み済み。
諸葛亮はきっと、これ以上関羽に江陵を危険にさらさせないために言っている。
関羽は劉備を重んじ、不利益になることは良しとしない。
それだけ主君を、義兄弟の契りをかわした者を重んじるからこそ。
「兵を集めた孝直どのが出向くのが筋ですが、髭どののことであればと私が。殿からもくれぐれもと仰せつかっておりました。お役目が果たせて安堵しておりますよ」
もう関羽は好戦的なことも言わず、諸葛亮の話を聞く。
その様子に諸葛亮は満足げに一つ頷く気配があった。
「私もすぐに戻らなければ。ここまでで急ぎ過ぎて兵も疲弊していますが、今しか動けません」
「砦に入れば呉軍の本隊が来るか」
「えぇ、その前に退散させていただきましょう」
諸葛亮は本当に助けに来ただけで、兵も残さず去ると言う。
その上で関羽が江陵に入れば、負けないことを確信しているようだ。
江陵の中に関羽が入ってしまえば、攻城戦で、今は弱っていても回復の余裕もできる。
さらに諸葛亮が兵を残したかどうかもわからないとなると、呉軍も動きが鈍るだろう。
「…………獣の類かと思ったが」
「髭どの?」
関羽が声の調子を変えた。
次の瞬間、私と小妹が隠れる茂みに風が吹く。
そう思ったのは錯覚で、重そうな長物を関羽が振り下し、茂みを切り飛ばした風圧だった。
「む?」
「子供?」
けれど予想外は関羽と諸葛亮も同じ。
まさか子供が隠れてるとは思わなかったようで、お互いに無言で見つめ合う。
いえ、私たちはただひたすら怯えて声さえ出せないだけだけれど。
葉の蔭から見ていただけでも関羽は大きく厳めしい。
はっきり言って怖い。
夏侯家にはそれなりに体格のいい大人もいるし、曹家の祖父のお側の許公もいた。
けれど何より攻撃的な雰囲気が強すぎて、腹の底から震えがせり上がる。
「周辺の子供か? いやそれはないか。身にまとうものが市井の者ではない」
関羽が訝しむけれど、私たちに答える余裕はない。
同時に諸葛亮も何も言わないことに関羽が気づいた。
「どうした?」
それにも答えず、諸葛亮は私を見ている。
諸葛亮の顔には、驚きと何処か恐れがあるのは気のせいかしら。
気味の悪いものでも見たような、そんな表情だ。
「まるで、幽鬼にでもあったような顔をして」
関羽も同じことを感じたらしい。
そう言われてようやく諸葛亮は口を動かす。
「えぇ、そのような心持ちです」
今まで関羽相手にも滑らかに喋っていたのに、声が硬い。
そう思った瞬間、関羽の刃が動く。
一度は子供と降ろされたのに、その刃は確かに私たちに向けられた。
「妖異の類であれば切るが?」
「い、いいえ、私たちは人間です」
小妹が震える声で否定する。
声を上げたことで関羽に見すえられると、体中の震えを抑えられなくなった。
それでも勇気を振り絞って言ってくれたのだ。
不吉や災いを運ぶ凶兆の妖異であれば、験を担いで排除するもの。
私が妖異だなんて誤解されたら、一緒にいる小妹だって危険だ。
(そうよ、余計なことは考えないで。今必要なのは小妹と生き残ること)
意を決して、私はできる限り丁寧に腕を上げて拱手をしてみせる。
「お初にお目にかかります。関公におかれましては、身内の縁もございますので、お声かけいただけたのも確かな繋がりあってこそのことでございましょう」
私の発言に、関羽は戸惑った。
私に縁者だと言われても心当たりがないからだ。
ただ先ほど義兄である劉備に対して、殊勝な言動を取っていた。
それを思えば身内で幼ければ心寄せる可能性もある。
無理ないい訳でも、他に糸口はない。
「契りをかわされた義弟たるお方の夫人は、私どもの族姉。姻戚のある方の、血縁に劣らぬ誓いを結ばれた義兄である関公におかれては、身内も同然でございましょう」
言ってみたけれど、やっぱりすごく無理矢理だ。
それでも確かに得物の刃先は下がっている。
私の言動の謎を知りたくて耳を傾ける姿勢になったのだ。
そして、何を言っているのかも心当たりに気づいたからこそ理解した。
「義兄、つまり翼徳の…………夏侯氏か」
関羽が義兄と仰ぐのが劉備だけであるように、関羽を義兄と仰ぐ者もただ一人。
張飛、字は翼徳。
劉備と義兄弟の契りをかわした一人が、夏侯氏から妻を迎えているのだ。
私は引き攣りそうな唇を、強いて笑みの形になるよう力を込めた。
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