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百二十話:風を吹かす人

 私と小妹はあえて戦場に残った。

 足手まといは小小一人くらいしか背負えないだろうから。

 そして大人では入り込めない低木の中に身を隠す。

 場所は戦場が見える辺りから離れた所を選んだけれど、どれだけ誤魔化せるか。


 ほどなく武具を鳴らす音が大地を揺らして聞こえて来た。

 陣を敷いていた開けた場所を、逃走のため目指して走る人々だ。


「走れ! 逃げるんだ!」


 たぶんこれは魏軍で、戦場からこっちまで逃げて来たのでしょう。

 私たちの側にも走る者が来るけれど、低木を避けて逃げていく。

 隠れたこちらに気づいた様子はない。


 ただ残っていた物資が乱暴に蹴られ踏みつぶされて、破片が低木の中へ飛び込んだ。


「ひぅ!?」

「我慢して」


 泣きそうになる小妹は、頷くと袖を噛んで耐える。

 私も荒々しさに悲鳴を上げそうになるのを必死に歯を噛み締めて耐えた。


 味方だけれど、こんな混乱状態の中に入っては蹴られ踏みつぶされるのは私たちだ。

 ただただ隠れているしかできない。

 そんな中、騎馬の音が聞こえた。

 相応の身分の人、もしかしたら子桓叔父さまの可能性もあるため耳を澄ます。


「樊城より参った! 大将はいずこ!?」

「すでに前を! しかし、数が少なすぎはしないか?」

「漢中に蜀軍が進む気配あるため動けず! 我ら五百騎のみだが参じた」

「くそ! ともかく魏王の太子の下へ!」


 叫び声もある中、なんとか聞き取った指揮官同士だろうやり取り。


 樊城からの援軍が来たけれど、規模が少なすぎる。

 それに、決死隊としてしんがりをするにも、敵味方が近すぎた。


「は、樊城の、兵は?」

「きっと子桓叔父さまを守ってくださるわ」


 かき消されそうな声で聞く小妹に、私も震える声で強がってみせる。


 四半刻も経てば、逃げる声は命乞いに代わった。


「助けてくれ! ぎゃ!?」

「いやだぁぁああ! が…………」

「逃がすな!」

「追え! 追え!」


 逃げ遅れた者たちが少数、私たちの隠れる方向にもやって来ている。

 固まっていれば同じ方向に向かうけれど、逃げ遅れた少数は散り散りになって少しでも敵の目を逃れようとしたらしい。


 片手を小妹と握り合わせ、もう片方の手でせめて血なまぐさい臭いを防ごうと鼻を覆う。

 それでも聞こえる赤いだろう水音。

 命乞いと無慈悲な恫喝。


(早く去って! 早く!)


 耳をそばだてそうになる自分を誤魔化すため、私は別のことを考えようと腐心した。


(隠れてやり過ごしたら、その後はみんなを追って東へ。途中で荷車から見た村を探さないと)


 とてもむずかしい。

 子供の足では辿り着けるとも思えない。

 けれどそれ以外に頼る当てもない状況。

 何よりここで見つからずに済ませられると言う微かな期待を潰したくなかった。


 そう考えていたら、いつの間にか命乞いも恫喝も聞こえなくなる。

 けれど周囲には足音や武器が鳴る音が確かに聞こえていた。

 どうなったのかと耳を澄ませようとした瞬間、思いの外近くで怒声が上がる。


「一人たりとて逃すな! 調子づいて追って来た若輩に目にもの見せてやるわ!」


 怒りのままに叫ばれる追討の命令。

 お腹の底から震えるような強い声だ。

 同時に、袖で覆っても漂う血臭が濃くなったのがわかる。


「なりませんよ、髭どの。そろそろ気を鎮めて手当てを受けてください」


 怒声を放つ恐ろしい人に、場違いな落ち着いた声がかけられた。


「何を言うか!? この関雲長ここにありと示すのだ!」


 怒声を上げた人物の名前に息が詰まる。

 小妹もびくっとして、お互いに息を殺し震えそうになる体を必死に抑えた。


 よりによって関羽が来るなんて。

 しかも敗走した際に負った傷を放置した状態で。

 挟み撃ちを二度受けて疲弊しているはずなのに、血にまみれながら今も健在で、追討を指揮しようとさえする。

 これが、猛将と呼ばれる人物だと言うなら、そんな方を討ち果たさんと追った子桓叔父さまの恐れ知らずに称賛すら覚えた。


「なりません。呉軍もいるのですから。先ほど見えたのは先見の隊。ほどなく本隊も現れる。あちらとも話し合わねばならないのですよ」

「話し合いだと!? こそ泥のような真似をした奴らなどに耳を汚される以外にあるものか! 軍師どのの言とて聞けぬ!」

「今回、こうして攻められる隙を作ってしまったことに関しても、話し合わねばならないのですよ」


 荒れる関羽を諭すように、静かに告げる。

 それだけのことが言えて軍師と呼ばれる相手。

 それはつまり、名だたる希代の軍師諸葛亮だ。


 そんな二人がよりによって私たちが隠れる低木の近くで話し合いを始めた。

 関羽が突き進み、ようやく止まったのがここだということなんでしょうけれど。

 早く他へ行ってちょうだい!


「今回のことは何よりも子方の不手際であろう!」


 東の海の向こうの知識にその名前はある。

 糜芳、字は子方。

 関羽を裏切って死に追いやる一人であり、不忠な大罪人扱いで蜀に強く怨まれることになる人物。。

 けれど今回は裏切っていない。

 ただ、門は開かなかっただけだ。


「魏軍の次は子方めをこの手で折檻してくれる!」

「あなたの勇猛さは誰しも理解しております。しかし、今は冷静におなりなさい。それが玄徳さまから任された地を失陥しかけた者の言ですか?」


 声は柔らかい。

 けれど言ってる内容は厳しい。


 敗走の責任と、土地を守護することの重大さを諭すように語る。


「この地を失った時、我々の計略の全てが無に帰します。それを寸前のところで守っていたのが、糜子方どのなのですよ」

「そ、それがしをもっと早く中へ入れていれば良かっただけの話であろう!」

「それで、魏軍と争いに? 呉軍が現われていた状況を考えれば、そこから内へと攻め入られていたでしょう」

「いや、だが、矢での応戦もなく………」

「そこで敵対を選べば、江陵は戦場になります。曹子桓が率いていた軍をとなれば、次に出てくるのは何者か、おわかりでしょう」


 諸葛亮が言うとおり、出てくるのは曹家の祖父だ。

 そして魏が江陵を取りに行ったとなれば、やはり呉軍も黙っていない。

 孫権はもちろん、呂蒙も荊州の奪還は悲願なのだから。

 奪われたまま魏軍に攫われるなど許さないだろう。


「もし今回のことであなたが打ち取られたとしても、奮戦し、敵にも多くの血を流し、猛将として歴史に名を残すことになったでしょう。しかし、江陵を失陥し生き延びたとあれば…………」


 諸葛亮は一度言葉を切る。

 荒れていた関羽はいつの間にか静かになっていた。


 思い返せば、劉玄徳の名前が出てから勢いが陰ったようだ。


「あなたは後の人々にこう言われたでしょう。玄徳さまの正しき志を躓かせた、最大の失態を犯した者と」

「なんだと? そんなこと、いや、そ、れは…………」

「ないとおっしゃらないでください。そこまであなたがこの地の守りを任されたことを、軽んじているとは思っておりません」


 諸葛亮の言葉は正しい。

 死後贈られるその人の功績を顕す諡号と言うものがある。

 関羽の場合は壮繆侯。

 意味は、強いが失態を犯したという、死後にまで責められるべき過ちを犯したことを記録される名前になる。


 関羽が死後も責められる失態、それは江陵の失陥のことだ。


「それを子方どのは防いだのです。あなたの名誉を守る行いだったのですよ」


 当たり前に語る諸葛亮を、私は怖いと思った。


 私は知っている、何故かはわからないけれど未来を知っている。

 私と同じなんてことはないはずなのに、諸葛亮は未来を言い当ててみせた。


「…………義兄の未来を閉ざすことほど、耐えがたきことはない」

「そうでしょうとも、あなたはそういう方だ、髭どの」


 諸葛亮の説得に、荒れる猛将だった関羽は鎮まる。

 いったいこの人には何が見えているのか。

 敵であることが心底恐ろしい人であることだけは、私にもわかることだった。


週一更新

次回:借り物の兵

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― 新着の感想 ―
[一言] 諸葛亮は誰が居るかも気がついて話を聞かせてそうな気がする 兵の士気が落ちそうなこと周りに誰がいるか分からん状態で 話すような人物では無いと思うし
[良い点] 歴史上の偉人の真価を肌で感じる。未来知識ものの主人公としては本懐ですな!(命がけ) 実際、頭のよすぎる人の脳内はどうなってるのか見て見たいもの。 [気になる点] なんだかんだ言って関羽や諸…
[良い点]  この状況で逃げる(動く)より留まる(状況が安定するまで待つ)を選択出来るのがもうね。  知識チート云々以前に本人の判断力が素晴らしい。  いやそれも前世持ちだから精神年齢がーとか言われた…
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