百十九話:女装
大きな動揺が戦場を駆け抜ける。
確かめに走った私が見たのは、蜀軍の来援だった。
挟みこまれて勢いのなかった関羽と蜀の兵たちは、増援の存在が聞こえたのかにわかに動きだす。
「あれは、諸葛亮の旗?」
「巴蜀から出てこないはずじゃ…………」
まさかと思いながら確認する私に、元仲も茫然と呟く。
けど確かに旗には諸葛氏を表す文字。
そしてそれに呉軍も動揺して退いている。
関羽も開かない江陵の門の前から離れるように動きだした。
「あ、我々の軍も動いた!」
「父上は?」
心配で注視していたらしい大哥に、小小がすぐさま聞く。
言われてみれば、離れる関羽を追うのをやめるようだ。
挟み込んでいた魏軍が、関羽の後ろに回り込むように合流する動きがある。
「だが、これはどうなるんだ? あれが本当に諸葛孔明だとしたら?」
「正否はともかく、呉軍は蜀軍に挟まれることを嫌って退くようだ」
大兄と奉小は江陵の南に一端が見えていた呉軍の動きを教える。
どう考えても関羽は手負い。
なのに打ち取ろうとはしない?
そもそもここまで戦えているのが不思議なくらいの相手。
関羽はまず江夏で攻城戦をして疲弊している。
そこに少数になったとみて奇襲をかけた。
しかも子桓叔父さまと子建叔父さまの挟み撃ちだ。
そこから撤退して、追撃を逃れる勢いで逃げてまた疲弊を重ねている。
なのに江陵の門は開かず追いつかれ、また戦うことになったのに、すぐさま崩れることはなく今だ。
(いっそ、より結束を固めるように庇い合って動いているように見える。こちらに押しつぶすだけの戦力がないこともあるけれど、それでも精強すぎる。これが軍神)
私は東の海の向こうの知識から、軍神という言葉が浮かんだ。
後にほめそやされて、関羽がそう呼ばれるらしい。
共に死んだ者たちも共に引き上げるように神格化され、関帝と称される。
見るからにぼろぼろの関羽とその兵からは考えられないようにも思えた。
同時に、相応の強さを確かに歴史に刻んだからこそだとも納得してしまう。
「あぁ! 江陵の門が!」
小妹の悲鳴に私たちは息を飲んだ。
見ればここまで沈黙を保っていた江陵が門を開き始めている。
すでに並べられていただろう兵が、慌てず門から出て来ようとしていた。
その姿に浮足立ったのは魏軍だ。
急な進軍と追走を繰り返した結果、関羽のみならず疲労が蓄積している。
そこに無傷の敵が現われては、士気さえ欠落していくだろう。
「逃げて、逃げて…………」
私は手を組み合わせて祈るように呟いた。
けれど状況が転がり続ける現場で、迅速な対応は無理だ。
軍を形成するだけの人数が集まっているのだから、命令自体が端まで行き届かないと動けない。
それでも、子桓叔父さまと仲達さまがいるだろう軍は合流した。
けれどそこから撤退のためにまた隊列を変える嫌なところで、江陵が開門しきってしまう。
その事実に、なんとか動き出した魏軍は明らかに足並みが乱れていた。
「あ、逃げられた」
阿栄の呟きに見れば、関羽が諸葛亮に合流していた。
予期していたように諸葛亮のほうは隊列の間に関羽を通す。
そして隊列を崩さずそのまま前進を始めた。
向かうのは、未だ整わない魏軍。
一気に形成が逆転していた。
「あと少しだったのに…………」
元仲が悔しげに言うとおり、あと少しだった。
関羽が体力を切らして倒れるのは誰もが予想できる状況。
けれどその前に諸葛亮が現われてしまった。
そしてその来援に江陵も呼応している。
突如横槍を入れるかに思えた呉軍も引いて、残るは疲弊した魏軍のみ。
「は、まずい! 私たちも…………!」
大哥が声を上げてから、ようやく私たちも逃げなければいけないことを思い出す。
けれど振り返った後衛は大混乱に陥っていた。
私たちから距離があるからこそ、悪い動きも全て見える。
我勝ちに走り出す者、防御か逃走か迷う者。
足並みなんてそろわない混乱状態。
「駄目だ、あんなのの中に入ったら、私たちの体格では怪我をする」
「けどこっちに退避が始まってる。子桓さま方が退いて来ても同じだ」
危険を訴える奉小に、大兄がこのままではいられないことを突きつける。
阿栄は手で庇を作って、戦場を見据えた。
「尻に江陵の兵につかれてる。あっちに合流してもたぶん駄目だ」
「わ、私たちの足では、逃げきれないのですね?」
小妹は震える声で現状を確認する。
(まずい、ここまで歴史にない状況について行けてない。避けるべき時に間違った)
濡須口では負けることが前提で備えられた。
だからこそ警戒を強くして、いざと言う時に備えて身を守っていたのに。
けれどこちらでは予想外ばかりが起きて、そのせいで逃げるための場所から離れてしまった。
(何を優先すべき? 何をするべき? 何か、東の海の向こうの知識に有用なことは?)
浮かぶのは、諸葛亮と魏軍の戦い。
その中でも諸葛亮がしくじったものを探すと、仲達さまのお名前が浮かぶ。
五丈原の戦いだ。
進行を焦る諸葛亮は、堅守して動かない仲達さまを動かそうとするも、動かず諸葛亮の命数が尽きて蜀軍は撤退する。
(動かすための挑発で女装させたかどうかなんていいのよ。ここで一番重要なのは)
私は元仲に目を止めた。
同時に、子桓叔父さまの顔が過る。
「…………元仲! すぐに武装を脱いで、それから顔もできるだけ汚して!」
言いながら、私は自分の帯に手をつけると、上着を一枚脱いで元仲に被せた。
これくらいなら耐えられる寒さだし、重ね着をしていてよかった。
私が何をしようとしてるかを察した阿栄は、元仲の髷に手をかける。
「小妹、お前の髪結んでる布くれ」
「は、はい!」
小妹の返事で、あっけに取られていた大哥も動いた。
小小と一緒に周辺の土で手を汚し、元仲の目立つ美しい顔をあえて汚す。
「一人だけだと逆に目立つ、私たちも」
「そうだな、長姫、小妹も。早く」
奉小に従った大兄は手や顔を汚し、私たちを見る。
けれど私はあえて手を上げて止めた。
「家名を継ぐあなたたちならともかく、私たちは殺してもなんの誉にもならないわ」
「長姫!?」
元仲が手を伸ばすのを、私は一歩後ろに下がって避ける。
嫌に心臓が早いし、寒くもないのに手先が冷える。
息も苦しいけれど、そうとわからないよう笑ってみせた。
「行って! 私たちだけなら目こぼしもあるわ」
「…………くそ、行くぞ!」
「元仲さま、暴れないで!」
阿栄に続いて大兄も元仲の腕を掴んで引き摺るように走り出す。
それでこそ夏侯家だ。
「長姫、小妹、行こう?」
「駄目ですよ、小小。大哥につい、て行って、ください」
小妹は震える声でなんとか答える。
踏み出せない様子だった大哥と奉小は、小妹の声に顔を歪めながらも振り切るように背を向けた。
「必ず、元仲さまはお守りする!」
「長姫、無理はしないで隠れていてくれ!」
女装させた元仲は、付け焼き刃だ。
けれど見るからに女物の色味の上着と髪飾りで、遠目ならなんとか誤魔化せるだろう。
「…………ごめんね、小妹」
「いいんです。私も、自分でついて来ました」
お互いに手を握り合って震える声で言いながら、私たちは無理に笑い合った。
週一更新
次回:風を吹かす者




