百十八話:西からの風
私たちは一度辿り着いた場所から後退した。
一緒に後方も移動し、戦場からは距離ができる。
その間に子桓叔父さまは出陣。
関羽へと向かって兵を進めた。
仲達さまも合わせて挟撃しに動くことでしょう、この追討を果たすために。
時間をかけていてはいつ呉軍から横やりを入れられるかわからないのだから。
「関羽を落とせるかしら?」
私の呟きに、元仲は自分に向かって確かめるような声で応じる。
「あの状態から逃げ果せたんだ。それは大変な決意と労力が必要だったはず。だからこそ、ここまで追撃されて逃げるだけの余力はない」
阿栄も関羽はここで終わりだということに頷く。
「なんでかわからないけど江陵も門を開いて救出しない。だったら関羽に行き場もないだろ」
「逆にそれが不穏でもあるんだが。いや、防衛の観点からするとありなのか?」
大兄は江陵が関羽を助けない理由が引っかかっているようで悩ましげだ。
奉小も腕を組んで考え込む。
「司馬家のお父上が我がほうに援軍があることを告げていたから、江陵はそれを警戒して?」
「まぁ、曹子孝さまのことでしょうか?」
小妹が名を上げると、大哥も可能性を理解したようだ。
「なるほど。大将と拠点のどちらを守るかという話か。確かに一度門を開く間に現れれば」
とは言え、それも推測。
いつ相手が援軍なしと判断して打って出て来るか、わからないということでもある。
離間の効果で、関羽を助けるよりもと思って門を閉じていてくれればいいのだけれど。
「報せ!」
慌ただしい足音と叫ぶ声がすると、すぐに伝令を聞いて兵が元仲に報告してくる。
「公安を発した呉軍を観測。真っ直ぐ江陵を目指して進軍中」
「やはりこちらに向けて動いたか」
「このままでは連戦ですね」
呉軍の動きに、元仲と大哥は状況の悪さに唸る。
呉軍が南の公安を落としたことで、江陵の門の硬さをより強くしたかもしれない。
とは言え、私たちからすれば濡須口で争った相手。
味方ではない。
「向こうの軍容は?」
「呂蒙率いる一軍を確認しているとのことではございますが」
元仲の問いに兵が答える。
「一軍で江陵を落とせると思っていないはず。遅れてでも向こうも兵数を揃えるはずよ」
「長姫の言うとおりだろう。呉軍の軍容の確認を急げ」
「はは!」
元仲の命令で兵が動きだした。
私としては東の海の向こうの知識で、実際に呂蒙は江陵を落とすと知っている。
けれど一軍ではなかったし、なんだったら大将として並ぶ蔣欣も一緒にいたはず。
さらに策を弄して門扉を開かせることで、関羽さえも追い込んだ。
後は目の前にした江陵の街の大きさからの推測で、攻城兵器が必要だと思ったから。
そうでなければ囲むしかできない防御だし、分厚い壁としっかりと閉じられた門扉がある。
一軍だけであれを開く方法が、私にはわからない。
「もしかしたら、呉軍にとって関羽が敗走するのは好機?」
「どういうことだ、長姫?」
大兄に聞かれて、思いつきを告げる。
「だって、あの門が敵の前で開くなんてそうそうないでしょう。あるとすれば…………」
「あ、関羽の敗走。そうか、呂子明が眺めるだけだったのは、関羽が諦めて帰るのを待ってたってことも?」
阿栄が言うとおり、江夏攻略を諦めた関羽を背後から追っていく算段もあったかも。
江陵に逃げ帰るところを攻め入るなんて隙を突かなければ、関羽の守る城は落ちない。
それだと公安を降伏させる意義もある。
そこに兵を先に進めさせることもできるわけだ。
(何処に呉軍の本命があるのかわからないわ。けど、確実なのは)
私は一度目を閉じて言葉にする、
「呉軍は、江陵を取る気よ。そのために子桓叔父さまも利用するつもりでしょう」
江陵へと進軍した呉軍は、江陵の攻略に乗り出したと思うべきだ。
東の海の向こうの知識では、とことん関羽の警戒を解いた末に行動している。
江夏で子建叔父さまと戦い、子桓叔父さまが挟み撃ちをして敗走なんて、いっそ呉の計略を私たちが短縮したような形での囮になってしまってる。
さらに今、江陵の東側では私たちが関羽と戦ってる。
関羽が戻れない江陵なんて、呉軍からすれば恰好の獲物でしょう。
「北からの援軍は?」
「未だ。狼煙は上げているのですが返答はありません」
樊城からの援軍は見えない。
元仲に答える兵も不安そうだ。
大哥も険しい表情で戦場のほうへ顔を向けた。
「これで、関羽はより逃げ場がなくなった形だ。そして、より抵抗は死力をもって行うだろう」
その刃の前に立つだろう仲達さまを想像してしまった時、さらに報せが入る。
「公安に、さらに蔣欽の旗印を確認! 兵の動きから江陵へと進軍する模様!」
「やはり本気で攻略なのか」
報せに奉小が歯噛みした。
しかも早い。
曹家の祖父が濡須口から撤退したと同時に移動していてもおかしくないくらいだ。
「こうなると、濡須口に呂子明がいなかった時点で狙っていたか」
元仲が言うとおりなのでしょうけれど、今さら遅い。
これは子建叔父さまが描いた策略だった。
けれどそれを受けて呉も好機と、関羽を江陵から引き離すために利用された形になる。
「これを見越して私たちを後ろに下げたとすれば、蔣欣が現われた今、退いてくる可能性がある」
大哥がいう退いてくるのは、子桓叔父さまのことでしょう。
ここまで強行軍だったのだから考えられる判断だ。
けれどそうして退いたなら、仲達さまの身を守る者はいなくなる。
「私たちは戦況を見るしかできないわ。でも、きっと、私たちよりも状況をわかっているのは子桓叔父さまたちで、仲達さまも誤る方ではないはずよ」
「そうだ、これ以上がなければ、退かなければならないし、判断を誤るなんてないさ」
励ます私に賛同した大兄。
続けて阿栄が頷く。
「未だに樊城からの増援がないなら、圧倒的に不利だしな」
これだけ悪い状況だと、さすがに阿栄も笑ってはいない。
そこに奉小がそもそもと言い出した。
「何処まで読んで、司馬の方は江陵へ? 確か賈大夫の要請だったはず。これを読めていなかったのか?」
呉の動きはずっと警戒していた。
それに仲達さまには西との連絡の可能性も知らせてある。
その場に居合わせた小妹が、思い出したように発言した。
「あの、急いでいらしたうえで、言い方は悪いのですが、嫌な顔をなさっていたような?」
「私も見たわ。西を見て、まるで仇敵でも…………」
言って思いつく相手は、東の海の向こうの知識にも表れる名前。
「まさか…………」
言うと同時にどよめきに似た声が上がった。
それは離れた戦場から流れて来たもの。
それほどの動揺が戦場に走ったのだ。
誰も状況はわからない。
私たちは堪らず不安から駆け出す。
一度は離れた戦場の見える位置に駆けつけた。
すると江陵の壁の前は乱戦が起きている。
(ご無事なのよね!?)
目を走らせれば、子桓叔父さまと仲達さまの兵はまだ列を保っているようだ。
「良か…………横合いにあれは、呉軍? もう来たの? でも、何かと戦って?」
私がそちらに目を奪われた視界の端で、関羽の軍が動くのが見えた。
そして呉軍のほうへ向かうような動きが、離れているからこそわかる。
嫌な予感を思いだして、私は呉軍に目を凝らす。
すると呉軍の向こうに翻る旗。
それは蜀軍を表す旗、しかも諸の文字をいただく軍旗だった。
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