百十七話:工作の成果
関羽が江夏から逃げたことで、子桓叔父さまは追討を決定。
追って私たちは、南郡江陵へとひた走った。
辿り着いた時、先に江陵へ向かっていた仲達さまは挟み撃ちの窮地。
そんな怒涛の事態の変化。
そのせいで忘れていた。
もう一つ、軍が動いていることを。
「公安が落ちたぞ! 開城した!」
兵が駆け込んで来て大変な報告を叫んで回る。
私たちがいたのは負傷兵が運び込まれる予定の、後方の一角。
看護のための人員はもちろん、周辺にいた兵たちも動揺してざわめく。
「そこは蜀軍の城砦のはずだろう! 何処に落とされたというんだ!?」
「呉軍に決まっているだろう! あいつらも江陵を狙っていたんだ!」
「だがどうやって!? 開城と言ったぞ? 戦ってすらいないんじゃないのか?」
兵たちの声で、案山子のふりという工作の成果が出たことを知った。
きっと、言うとおり戦いすらしない開城、つまり降伏をさせたのでしょう
私はすぐ側の元仲を見る。
「呉軍の西との連絡はやっぱり…………」
「もっと連絡を密にしておけば…………」
関羽を討とうという時に、新たな敵が現われたことで元仲が拳を握りしめる。
それに大兄が目の前からさらに思考を進めることを促した。
「今は南の砦が落とされたことで、どれほどの兵が江陵へやって来るかを考えましょう」
「そうです。すでにこちらは関羽を前に兵を動かしている。今さら配置転換はできません」
奉小も言うとおり、この悪い状況を打開する方法を考えなくちゃいけない。
つまりは仲達さまを助けようとする子桓叔父さまは、即応できない状態。
だったら、ここで一部兵権を持っている元仲が対応すべきだということ。
大哥は報せた兵から話を聞いて戻って来る。
「どうやら、名目上は公安を任された者が、関羽の非道を憂いて呉軍に助けを求めたという形での降伏だそうです」
仲達さまが心配だろうに、気丈にやれることをやろうとしているようだ。
「俺ら、完全に関羽を封じ込めるだしにされてるな。けど向こうの兵数によっては撤退も考えるべきじゃないか?」
阿栄が悔しさをにじませながら安全策を口にした。
応じて元仲は兵の一部を連れて、関羽に挑む前の子桓叔父さまの下へ行くという。
大哥と阿栄も同行していった。
残された小小はまた私に抱きついて来る。
「父上は、お助け、できないの?」
「いいえ、そんなことはないわ」
そんなこと、しないはず。
子桓叔父さまにとっても仲達さまは重要だ。
ましてや追討しておいて、味方を見捨てて逃げ帰るなんて外聞が悪すぎる。
今回の戦い、子建叔父さまは失敗こそすれ、軍事に明るくない側近たちが欠いたとは聞かない。
なのに仲達さまがとなると、子桓叔父さま側の軍才が疑われる可能性まである。
「呉軍は、近く来ると思う。だから、もし仲達さまがお怪我をされていても、すぐに下がれるよう備えましょう」
「う、うん」
小小は不安そうだけれど、できることがあると思ったのか私から離れる。
けれど次は小妹が不安を零した。
「長姫、何故これほど近くの砦を落としたのでしょう? 兵を立て直すには時間も必要なはずだというのに」
江陵に近い南の城砦だけれど、兵を歩かせると相応に時間がかかる距離。
ましてや戦闘ごととなると休息は必須。
「たぶん、勢いに乗って落とすためでしょう。そうでなければ、呂子明は濡須口で曹家のおじいさまが戦うひと月の間、ただ案山子のように立っていただけ。そんな無駄をする将じゃない。だったら、ひと月をかけて備えていたと思うほうがらしいわ」
「江陵を攻めるために離反工作か。確かに呂子明が表に立ってると、どうしてもそちらの動きに注目する」
奉小が言うとおり、子桓叔父さまも呂蒙は江夏を狙って機を計っていると思っていた。
だからこそ自ら動いて機先を制すれば、何もできないと考え動いていたはず。
けれどそれが隙を生む作戦ならという、私の言葉で裏で動いていることに気づいた。
そうなると、この状況も把握済み?
少なくとも賈大夫はそうだったのでしょう。
だから仲達さまを向かわせ、あえて江陵に魏軍の襲来を告げた。
呉軍に落とされないように。
「呂子明の裏で呉軍に動きがあったのよ。私たちの軍によって関羽の目を逸らし、江陵を狙っていた。それに気づいて、仲達さまは江陵を牽制に向かわされた。けれど、関羽が…………」
「あぁ、呉軍からすれば江陵を攻めるのに邪魔なのは、進路を阻む公安の城だ。そこを開城させて、江陵に迫る。いつから動いてたのか、関羽が逃げ出していなかったら、江夏でこの知らせを聞くことになっていたかもな」
大兄にもわかったらしく頷く。
明らかに、呉軍の動きは関羽が子桓叔父さまと子建叔父さまの囲みを逃げてからのことじゃない。
私たちより先に公安へ迫っていたのだ。
「弱った関羽に目を奪われたこの時に公安を落とすというのも、機を計った結果ね。関羽は手負い、それを阻む司馬仲達さま。そして後ろから挟み込む形の我々。西に固まってしまっているわ」
「長姫が言うとおりでしたら、南の公安から兵が来ては、江陵も守りが薄くなる?」
「そうね、手が回らない。こちらがいいように、敵の気を引く囮にされたようなものよ」
遅い後悔を呟く私に、小小は不安そうに袖を引く。
「父上は?」
「大丈夫よ、大丈夫」
とは言え、可能性として呉軍とも戦わなければいけないかもしれない。
位置的に呉軍が有利だ。
とは言え、相手は無傷の城砦江陵の陥落は一両日では無理。
そして城の外で、魏軍が関羽を挟んでいる現状がある。
となれば、江陵の攻略よりも目の前の関羽という大将首を狙うかもしれない。
魏軍も疲弊している今、逃す手はない。
「どうすれば…………」
「今は待つべきだ」
「動く時じゃない」
私が焦りのまま呟くと、大兄と奉小が揃って止める。
別に何かしようというわけじゃないけれど、無闇な焦燥を押さえこむべきね。
「父上…………」
小小は不安げな呟きと共に、戦場のほうを見る。
そんな小小を置いて、離れられない。
小妹も静かだけど不安なはずで、私から離れようとはしなかった。
せめて少しくらい安心材料はないかしら?
「たぶん、公安が戦闘もなく落ちたのだとしても、そこからこちらまではまだ時間があるはずよ」
「と言っても、こちらが長引けば横入りされて、関羽もろともということもある」
私があえて楽観を言ったのに、大兄が不安を煽る。
ただ確かに、今や魏王の太子である子桓叔父さまは取る価値があった。
けどその悪い予想を、奉小が指を立てて止める。
「こちらも急いで追ってきている。逃走の末に戦闘が起きた今、魏軍を抜いて江陵に逃げ込むだけの体力も関羽にはないはずだ」
「つまり、関羽を倒すまでに、時間はかからない?」
合わせて言ってみても、あまり現実味がない。
東の海の向こうの知識でも、それはまだ先のことだ。
可能性がなくもない状況だけれど、それは今まで関羽相手に耐えていた仲達さまにそれこそ死力を振り絞らせることになる。
「せめて、仲達さまはご無事で…………」
私が祈ると、小妹も念じるように目を閉じる。
それを見て小小は抱きつく力を強くした。
そうして、長いような短い時間を待って、戦場に動きが生じた。
後方にいても、人が大勢動く振動や気配は感じられる。
そして元仲たちが戻って来た。
「兵が発した。我々はさらに後方へ移動する」
「すぐに動くようにとのことだった」
元仲と阿栄に言われて、戸惑う。
「待って、どういうこと? 子桓叔父さまが戦い出したのに動くの?」
「すまない、長姫。私も詳しくは。ともかく命令されたからには従わなければならない」
元仲は他に指示をだしに、阿栄と共に向かう。
そうして残った大哥に、小小が走り寄った。
それを受け止めた大哥は、自分にも言い聞かせるように言う。
「子桓さまは、機を逃さなければ、父は戻るはずだとおっしゃっていた。だが、どういうことはまだ良くわからない」
大哥は発言権もないし、命令される元仲の後ろにいただけだろう。
関羽を倒す前提なのか、それとも呉軍の動きを知って仲達さまを助ける方向にかじを切ったのか。
「そう…………。でも仲達さまを助けていただけるのね」
その気がなければ、子桓叔父さまは可能性さえ口にはしないはず。
それに、きっと仲達さまなら機を逃しはしない。
ともかく今は子桓叔父さまの指示に従って、また新たに移動することに専念しよう。
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