百十五話:西へ西へ
さらに翌日、子桓叔父さまが陣に戻る。
関羽は身を隠すところもない中、ずいぶんと粘った。
そして二日目早朝。
日の出もまだという頃に、子桓叔父さまと子建叔父さまに挟まれた状況を突破して、逃走している。
「寡兵で耐えていたところに、西陵を攻めていた兵が戻って包囲を崩されたそうだ」
「そう、残念ね」
私たちは子供で集まって、戦いの様子を聞いていた。
情報源は司馬家の大哥だ。
仲達さまはいないけれど、残した命令で兵が現われるので、それをさばくのに司馬家の長子は通りがよかったため。
子供ながらに聡明で、元仲の側で手伝いをしていた。
その元仲はと言えば、子桓叔父さまの所に行っている。
仲達さまが、賈文和の指示で西へ向かったこと、その後に残された対処などを聞き取りされているそうだ。
「守りを敷いていたとはいえ、叔父さまたちの挟み撃ちにあったのでしょう? 関羽はどうやって隙を突いたのかしら?」
悔しさから漏らす私に、大哥が声を落とす。
「足並みが揃え切れなかったと…………」
「それはそうだ。どちらも出し抜くために動いたんだろ?」
「打ち合わせるような暇もなかったのだろうからな。急な出撃やひと月に渡る籠城戦の疲れもあっただろう」
思ったことを言ってしまう阿栄に、奉小が聞こえないふりで言いつくろうように続ける。
小小と小妹は、私に訴えるように声を上げた。
「あのね、兵がね、怖かったって」
「通りがかりに聞いたのです。側近くに関羽に付き従う将兵も手強過ぎたと」
二人が耳に挟んだ現場の声に、大兄が手を打つ。
「確か有名な副将がいたな。関羽と共に戦場を転々とする者が」
たぶんそれは周倉という人のことだろう。
東の海の向こうの知識にもある。
関羽と供に戦い、殉じて共に亡くなる忠義の武将だとか。
後の世に神に奉られる関羽のその横には、付き従う周倉も奉られることになるそうだ。
(敵でなければ私も立派な忠義と手放しで褒められるわ。けれど今回は、そうも言っていられない)
結局、子桓叔父さまと子建叔父さまは関羽を食いつかせて、虚をつく所までは上手くいった。
けれど足並みを揃えられず、突破されている。
周倉の存在は一助になったことだろう。
西陵を攻める手勢のほうにいてくれれば、叔父さまのどちらかが関羽の首にも届いたかもしれない。
とは言え、一番はやはり兄弟で連携が取れなかったことだ。
西陵から蜀の兵が戻るという情報を共有できていれば、なんて今さら考える。
ただ現状、雑兵は削れていて、関羽は間違いなく敗走をしている。
「あちらも疲弊しているはずよね?」
「長姫が言うとおりだ。どうやらこちらも兵を整えたら西へ追うようだ」
「それは、俺たちはどうなる?」
大哥に大兄が聞く。
仲達さまによって待機していたのは、兵と一緒に守られるため。
けれど西の江陵へ逃げた関羽を追って西へ向かうのは、戦うためだ。
「同行をするなら危険だと思います」
心配が声に滲む小妹に、奉小も頷く。
「ただ近い西陵は門が壊れて守りが危うい。ここは呉の領地にも近い」
「そうなると安城に戻る? でもそれは大哥のお父上が言ったとおり危険もあるぞ」
阿栄の指摘に、一度はぐれた経験のある私たちは返す言葉もない。
今回病人はいないけれど、危険がないなんてこともないのだ。
さらには夏侯の祖父が人員を残してくれた時とも違う。
攻めて行くなら兵を残すわけにもいかない。
「子建叔父さまの所に、置いて行かれることになるのではないかしら」
街なので非戦闘員はいるはず。
その上で門がなくても兵は立てこもるだけならできる場所がある。
そして籠城を強いられていた子建叔父さまは、さすがに追撃に兵は出さない。
そこまで人員を割ける余裕はもうないだろう。
「樊城が動いてるはずだ。今の江陵がどうなっているか」
見えない西の状況を呟く奉小に、大哥が首を横に振る。
「その前に、関羽に追いつけるかどうかを案じるべきだ」
「だが、離間が上手くいってればそれも心配する必要はない」
大兄が指を立てて言うのも一理ある。
子桓叔父さまが放火させたことで、江陵を任された糜芳は叱られることになる。
叱ると言っても私の両親がやるよりも、ずっと激しく厳しい罵倒だろう。
そこに弱った関羽が現われてどう出るか。
少なくとも今日まで西から、関羽に対して救援が出されたとは聞かない。
「江陵が、関羽を拒否することはあり得る?」
「さすがに望みすぎだな」
私の言葉を追うように、大人の声が入る。
見れば、子桓叔父さまが立っていた。
戦場から戻ったままの姿で、纏う荒んだ空気に一気に場が緊張する。
「いっそ先に江陵を落としておくべきだったか」
子桓叔父さまは独り言を言って、否定するように首を横に振る。
そんなことをすれば、関羽は間違いなく西陵から離れて江陵を守りに走るのだから、考えるだけ無駄なのでしょう。
そしてこちらを見ると、先ほどの言葉から続ける。
「あれは関羽を孤立させるための策だ。江陵の離反を考えてのものではない」
つまり離間の目的は、援軍が来ないように仕かけることで、関羽の側が動けば止められない。
子桓叔父さまの予想では、江陵は関羽を拒まない。
「逃げ込まれればこのひと月が無駄だな」
子桓叔父さまは何処か自嘲混じりの荒んだ声で言う。
実際は準備などにもっと時間がかかっているから、ひと月どころではないけれど。
「戦い続けて疲弊しているはずが、あれは本当にどうしようもない」
不服げに漏らす様子から、よほど関羽が強敵だったことが窺える。
横を向く子桓叔父さまの目には、殺意と呼べるものが光っていた。
配下に置いたならば殺しておくべきだった。
そんな曹家の祖父への不満を持っていそうだと思うのは、邪推かしら?
「…………そうだ、お前たちの処遇だったな」
子桓叔父さまは思考を切り替えるようにこちらを見る。
私たちはかしこまって跪拝した。
子桓叔父さまは兵を率いて西へ、関羽を追って行く。
そうなると私たちはどうすればいいのか?
「歴史に残る変事を見たければ来い」
そっけないひと言。
けれど揺るぎもない声で子桓叔父さまは言った。
そして私を見下ろす。
「だが、さすがにこれ以上はならん」
見るのは私と、そして小妹。
つまり戦場に女は来るなということ。
「まぁ、結果を見ろとおっしゃったのは子桓叔父さまではないですか」
除け者にされる、ついそう思って返してしまった。
子桓叔父さまは眉を上げただけで、それ以上は何も言わず、踵を返す。
これは、許されたのかしら?
「あまり時間はないぞ。このままでは仲達どのが挟まれる」
言われて気づいた。
すでに西に仲達さまが行っている。
そして今はその西へと関羽が走っているのだ。
向かう先には蜀軍がいる江陵。
後ろから関羽が現われれば、今度は仲達さまが挟み撃ちの形になってしまう。
「父上…………」
小小がそれ以上声を上げないよう、大哥が押さえる。
それでも声は子桓叔父さまに聞こえ、振り返った。
瞬間、私は一歩膝行する。
「お供いたします。得るものもなく帰ることはできません」
「…………好きにしろ」
子桓叔父さまは本当に時間が惜しいようで、短く告げると去って行った。
週一更新
次回:強行軍