百十四話:西へ
戦場となった江夏の街、西陵を眺める位置で、後方待機のまま一夜が明けた。
「子桓叔父さまはお戻りにならなかったわね」
「戦地で夜を明かしたのでしょうか?」
夜明け前に起きるのは許昌でもしていたこと。
東の海の向こうの知識にある電気というものがないから、太陽のある時間が人間の活動時間なのだ。
私と小妹は女性ということで二人だけで就寝し、そして薄明の中身だしなみを整えて外へと出た。
「きっと西陵で何かあったのよね」
「挟み撃ちが、上手くいかなかったのでしょうか?」
情報がないとどうしようもない。
まずは私たちを纏める元仲に、伺いを立てるため兵を呼ぶ。
すると逆に私たちが呼び出される形で、指揮所になっている天幕へ招かれた。
「これは、仲達さま?」
天幕には安城で待っているはずだった仲達さまがいらっしゃった。
旅のための厚手の上着を着たままだから、たぶんまだ到着してすぐ。
そしてすでにお疲れの様子だ。
「何故賈大夫まで揃って出撃をなさっているのか…………」
確かに、仲達さまからすれば現状は想定とは違う状況だろう。
私たちを囮に出かけた時には、今日くらいに西陵の様子を眺めてどう当たるかという計画だった。
私たちの守りを理由に兵数は多めに連れている。
それでも仲達さまは、関羽と当たった場合兵数が足りないと見て、補充人員を大急ぎで運んで来たそうだ。
子桓叔父さまが迫っていることに目が向いて、さらに後方から補充人員が来ているとは調べが回らないと読んだらしい。
「まず西陵の街に蜀軍を引き込み、後方で指揮をする関羽を孤立させるよう策がなされたようだと」
元仲が、こちらも移動中に入った急報について教える。
聞いた仲達さまはすぐに落ち着きを取り戻して応じた。
「さようで。それで隙のできた関羽に西陵からの側面攻撃で決着をつけようと。さらにそれをさせまいと自らお出でに…………」
さすが理解が早い。
すぐに子建叔父さまの目論みと、子桓叔父さまの動きを察したようだ。
「呉軍の動きに関しては?」
やはり仲達さまもそこが気になるのね。
元仲が独自判断で出した偵察からの報告では、今も動かず、関羽に味方をする様子もないとのこと。
兵数を増やす様子もなく、頻繁に本国と連絡を取っている様子もない。
関羽が江夏を攻めている間は、動かないと判断してもおかしくないほど静かだとか。
「すでに我々が動いている時点で、もはや介入の時期は逸しているためとも思えますが」
「少し気になる報告がある、仲達どの。昨日、呉軍の動きを見張らせるために人員を江夏より南に出した」
元仲もちょうど他の意見を聞きたかったらしく、さらに踏み込んだ話をする。
「南への伝令は定期的に出ている。けれどそれとは別に西に向けても人を送っているようだとの報告があった。これは、どう考えるべきだろう?」
「まず報告から警戒すべきことは、呉からの増援でしょう。今なお呂蒙が動かないのは、増援を待っているからにも見えます。ただ、西…………?」
けれど、西に向けて発されているという人の動きも気になると元仲は言う。
仲達さまも考え込むと、眉間を険しくした。
「…………すぐに合流をと思いましたが、やることができましたね」
考えを纏めたらしく、仲達さまは指示のために元仲に向き直る。
「今はまだこの陣に留まらせていただきます。そして情報を集めましょう。西を探っているとすれば、そちらから関羽への増援を警戒している可能性もあるかと。江陵に人を送って様子を見ます。それから…………」
言いながら、他にもいくつかの町の名前を仲達さまは挙げる。
その中で、私の中の東の海の向こうの知識に引っかかる地名があった。
(公安? えっと、場所は…………江陵の南ね)
位置として江陵が北に位置する魏軍に対して睨む城なら、公安は南からの呉軍を睨む位置の城。
仲達さまは江陵を中心に、周辺城砦の様子を探ろうとなさっているようだ。
けれど私が反応したのは違うこと。
私に覚えがあるということは、それは今この時代を語る遠い未来の歴史の中で名前が挙がるほどのことが起きた場所になる。
(他に何か一緒に知識で浮かぶものは…………虞翻? 士仁?)
それは人物の名前。
虞翻は呉軍で、士仁は蜀軍。
二人の関係は、どうやら樊城の戦いとその後の関羽討伐について。
呉軍の虞翻に投降を説得された蜀軍の士仁は、江陵の糜芳と一緒に降伏し、関羽の逃げ道を絶った一因になるという。
(もしかしてこの虞翻がいるとまずい?)
私は目を閉じて東の海の向こうの知識を探る。
今の時代に虞翻が何をしていたか、残っていればいいけれど。
(…………あ。空気を読まない発言で、左遷されているわ)
どうやら虞翻、頭はいいけれど口さがない方だったようだ。
それで孫権を怒らせてしまったらしい。
樊城の戦いにおいては、呂蒙がその才を惜しみ従軍させたとか。
功績を上げれば復帰できるようにと。
つまり、二年後の樊城の戦いではない今、虞翻はいない。
けれど公安には今も士仁がいる。
そして一緒に投降する糜芳は、すでに失火により関羽から責を問われる状況。
「一夜を耐えたならば、思いの外関羽に体力が残っているようですね。それと共に西陵を攻めていた兵との合流を許してしまったのでしょう。ただ今の状況も変化が訪れるのは時間の問題。だからこそ今は機を逸さないためにも西に目を向けるべきです」
仲達さまはどうやら、関羽が一日を耐えたことで警戒を強めたようだ。
子桓叔父さまと子建叔父さまに挟まれて攻撃される状況から逃げ果せる可能性を考えている。
ただその話を深める前に、前線から報せが駆け込んで来た。
それは関羽と戦う戦場に子建叔父さまの姿を確認したというもの。
「本当に打って出ていらっしゃるなんて…………」
私が呆れているとさらに報せが舞い込む。
今度は賈文和からだ。
「仲達どのに当てて? こちらへの来援の報告がもう届いたのか?」
「申し上げておりませんが、あの方なら予想するのもわけないかと」
元仲に応じつつ、仲達さまは報せを聞く。
成り行き上、同席してる私たちも聞くことになった。
「急ぎ兵を連れて西へ向かわれたし」
突然の指示は、援軍として兵を連れていることを前提にしていた。
賈文和が仲達さまの動きを予想していたなら、増援で戦場を動かすことも考えられるはずだ。
けれど、予想した上で救援ではなく、全く違うことを指示する旨が送られてきている。
私が混乱していると、仲達さまは西の方向に首を巡らせる。
「西…………」
そのお顔はとても険しい。
何か嫌なものでも見たと言わんばかりだ。
つまりは、人を走らせて知らせた賈文和の意図を察したということだろう。
「偵察を出した後、追う形で私も西に、江陵へ参ります」
仲達さまの前言撤回。
さらに元仲に指示を出す。
「あとからまだ安城からの増援がこちらに参ります。兵数百程度ですが、賈大夫から増援の依頼がない限りは私のほうへと回していただきたい」
「つまり、私はここから動かないほうがいいのだな?」
「はい、ここを中継地として、同時に西陵からの後退の際には、即応できる構えを取っていただければ」
元仲はまだ経験不足だ。
いくらか人は残されているけど、名うてはいない。
その上で仲達さまはここを離れるという。
しかも言葉から察するに早急に。
これは、確実に私に見えないところが何かが起ころうとしている。
「私たちは邪魔でしょうか?」
これは聞いておかなければと思い声を上げると、仲達さまは逡巡した。
「いえ、動かれて以前合肥に戻れずにおられた。逃げる以外ではどうかこのまま。少数ながら兵はここに集まるように安城で指示しています。ここは比較的安全でしょう」
つまり百の兵が遅れて来た後に、さらにまた百程度の兵が数を揃えて送り込まれる。
そのため兵が一定数いることになるここで待機すべきだという。
西で何があると言うのか、もっと聞きたかったけれどそんな雰囲気ではない。
仲達さまはすぐに兵を揃えると江陵へ向けて早急に発ってしまったのだった。
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