百十話:物見遊山
「子建に会わせてやろう、長姫」
ここは安城の夏侯家に貸し出されている屋敷。
そして目の前には安城に兵を据えた子桓叔父さまがいた。
急襲を目にするのが初めてではない大兄と小妹は慌てて壁際に控える。
慣れていない阿栄と荀家の奉小は硬直した後に、大兄と小妹を追った。
「まず、こちらにいらっしゃることを仲達さまには?」
「言っていないな」
「ではお供の方は?」
「特にはいないな」
悪びれない子桓叔父さまを、私はまず室内の上座へと案内した。
そして侍女と家妓に手を振って合図を送る。
二人も初めてではないので、歓待の用意と連絡にわかれてくれた。
「えぇ、それで。子建叔父さまですか?」
会わせてやろうとおっしゃった。
つまり子桓叔父さま自身が動くという意味で、そこに私も?
「まさか江夏に子桓叔父さまが赴かれると? ですが、子建叔父さまの策はどうなるのでしょう」
「ふ、これだけ時間を与えて釣り上げられなかったのだ。潮時だろう」
子建叔父さまは関羽を釣る餌に自らなった。
その上で、呉と争わせて高みの見物をしようと語ったのは、きっと本心だったはず。
けれど現状呂蒙が動いていないため、蜀と呉が争うようなことにはならずにいる。
二月の終わりと同時に濡須口での戦いは終わり、曹家の祖父も撤退を決めた。
その上で子桓叔父さまは、私までつれて江夏へ行くつもりらしい。
まさか物見遊山にでも行くわけでもあるまいし。
「以前のお話は冗談だと思っておりました。足手まといを連れてなんの得があるのでしょう?」
「わかっているなら良い。大人しく守られているなら同行させてやろうと思ったのだ」
守られてということは、つまり私のために兵を割かれる?
たぶんただの善意ではないし、そこに子桓叔父さまなりの利があるはずで…………あら、これは。
「もしや、私を帯同するためと言って兵を多めに連れていき、江夏で攻めあぐねる関羽を急襲されるおつもりですか?」
「子孝どのにも動いてもらって江陵を攻めさせる」
さらに上だったわ。
えっと、つまり?
撤退してくる曹家の祖父が援軍になると思っている関羽に対して、やる気なさそうに私のような足手まといを連れた子桓叔父さまがやって来る。
けれど実際は攻める気満々で兵数を連れている状態。
その上樊城の将軍を動かして、関羽が撤退するだろう先を同時に攻めさせる。
「そうなると、呉軍はどう動くでしょう?」
「もはや遅しと眺めるしかなかろうな」
そう言われれば、そうなる気がするけれど。
けれど、引っかかる。
いえ、東の海の向こうの知識があるせいかもしれない。
だって呂蒙は関羽を討った武将で、その際に弄した策も魏を襲う関羽の背中を狙うこと。
そのために、呂蒙は一度荊州を離れて見せさえしたという。
「隙を、作ることはしないでしょうか?」
「どういうことだ?」
東の海の向こうの知識に白衣渡江という言葉がある。
それは平民の粗衣を着て関羽を欺き、進軍する呂蒙の計略。
それによって関羽不在の江陵を落とした。
「まず、関羽は呂子明を相応の相手と認めているでしょうか?」
「自らの武に驕るとは言え、知勇は聞こえているだろう」
つまり、関羽は後ろの呂蒙を警戒している。
けれど子建叔父さまを舐めているから食いついている状況。
背中を晒されて呂蒙が動かないのは、関羽に隙がないせいか、今も存命の魯粛を憚ってか。
「呉軍が今動けないのは、関羽に警戒されているからであると仮定します。では、そこに警戒を緩めるように、陣を引く動きがあったらどうでしょう?」
「ふむ」
東の海の向こうの知識を元に問いかけると、子桓叔父さまは一考してくれる。
「大都督に抑えられ動けないかと思っていたが。逆か」
逆ということは、抑えられていない。
抑えられているように見せかけていた?
「これは急いで動かなければ、漁夫の利を取られるな。お前たちは準備を。ただ移動するだけだ。身軽でいろ」
言って、子桓叔父さまは帰ってしまう。
私は思わず息を吐き出した。
「ふぅ、びっくりした。いつも急なのだから」
「うわ、話には聞いてたけど本当にいきなり来て難題ふっかけてる」
さすがに対処に困る阿栄に、奉小が首を横に振る。
「いや、今の話は結局どういうことだ? だいぶ、まずい話をしていなかったか?」
奉小に頷いて大兄が指を立てた。
「漁夫の利は相争う者たちが疲弊したところで勝利を奪う。それで言えば、呉軍は決して関羽か子建さまの首を諦めていないと言うことになる」
「この場合は、荊州じゃないかしら」
劉備に貸し出した荊州の返還を呉はずっと求めている。
それをさせていないのが関羽の武威であり、排除できるならしたいはず。
魯粛は天下二分を謳っていた。
そして東の海の向こうの知識によれば、呂蒙は長江以南の堅持を目標としている。
(そうか、必ずしも魯粛と呂蒙の目標は対立しないんだわ)
川上という地理的に有利な荊州を奪い返せればそれでいい。
魯粛もそのために建業から離され対蜀との交渉に当たっているけれど、先年に決裂もした。
「例えば今、魯子敬が呂子明を呼び戻した場合、関羽はそちらを警戒すると思う?」
「知勇は知っていると子桓さまがおっしゃっていました。であれば、退くのなら安心するのではないでしょうか?」
「そうね、小妹。でももしそれが計略で、退いたと思った呂子明の軍に、濡須口で戦っていた将兵が合流して江陵を攻めたら?」
歴史において、呂蒙は一度荊州を離れて無名の陸遜に後を任せて油断を誘った。
その上で、濡須口で戦っていた蔣欽も連れて江陵を取るのだ。
その時魏軍は関羽に敗れているので追撃はできず。
呂蒙は逃げる関羽を追い、無名で警戒されていなかった陸遜は蜀の本拠益州への道を塞いだ。
呂蒙は狙いどおり荊州を取り返し、長江以南の流域を孫呉の守りとして使えるようにする。
今回もそれを狙っていたら?
つまり関羽の首よりも追い出して主権を回復できれば、それは魯粛も望むところ。
「なるほど、漁夫の利。呉軍が関羽ではなく江陵を狙っているなら、先を越される可能性があるとはそういうことか」
奉小が納得すると、大兄が別の疑問を上げる。
「その場合、江夏を越えて子桓さまは攻め入るおつもりだろうか?」
「曹家のおじいさまがいらっしゃるのよ。だったら樊城で敗北を眺めていたとなれば叱責を受けるわ。それを止めていたのが子桓叔父さまだから、今度は江陵を狙うようおっしゃるのではないかしら?」
上手くいけば、曹子孝さまが江陵を押さえ、子桓叔父さまは逃げ場を失った関羽を追討。
戦い続けていた関羽よりも、強行軍でも子桓叔父さまのほうが余裕はある。
「けれどそこに、呉軍が横槍を入れる可能性があるのですね?」
確認してくる小妹に、私は頷く。
「退くように見せかけて狙いは同じく江陵。そうなれば三つ巴よ」
江陵で魏と呉が争えば、それは関羽にとっての好機になってしまう。
私の言葉を受けて、阿栄が手を打った。
「あぁ、なるほど。確かに先に動いたほうが先に着く。向こうはすでに濡須口の軍が動いてる可能性があるけど、こっちは近さがあるから間に合いそうか?」
先手を取れても横やりを入れられる可能性も考えれば確かに猶予はない。
「子桓叔父さまに呼ばれたのは私ね。いい訳も娘一人で十分でしょう。みんなは」
「だから駄目だと言っただろう、長姫」
「そうです」
まず大兄と小妹が反射のように私を叱りつける。
さらに阿栄と奉小も当たり前のように言った。
「いい経験だろ。ついて行くぜ」
「お声をかけられたのはここにいる皆だったはずだ」
戦場に行くことを恐れてもいいと思うのだけれど、半分くらいは私の心配だとうぬぼれてもいいかしら?
それに慣れない籠城戦をしている子建叔父さまが心配なのは本当だし。
どうやらまた、私は危ない所へ行くことになるようだ。
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