百九話:二月の終わり
二月が終わった。
そして歴史どおり、濡須口の戦いも終わる。
「合肥からお手紙が来たわ」
私は夏侯家が借り受けた安城の屋敷で、侍女から渡された竹簡を手に声をかけた。
一緒にいた夏侯家の大兄、小妹、阿栄が寄って来る。
竹簡は名目上は父から。
けれど内容は母の筆跡によるものだった。
たぶん、軍の輸送に入れて運ばせたから名目上は父になったのだろう。
「合肥のほうからとなると、何か決まったか?」
「捕虜どうなったんだろうな? 交換受けないかな」
「もう、まずは長姫へのお便りなのですから」
気になる大兄と阿栄が口々に言って覗き込もうとするのを、小妹が押さえてくれる。
私はざっと目を通した。
まずは私が心配するからという体裁で、父の様子を書いた母の雑感。
うん、久しぶりに二人だけで結構一緒にいるみたいね。
父には行きの時の挽回をしてほしい。
そんな私個人に当てた部分を読み飛ばしながら、文面から情報を拾い出す。
「えぇと、まず戦いはやっぱり終わりらしいわ。我が軍は濡須口から撤退。巣湖からも退いて、合肥で捕虜の引き渡し協議が行われるそうよ」
東の海の向こうの知識では、やられっぱなしの魏軍になるはずだった。
ただそれでも攻めきれなかった呉軍という形になるはずだった。
それが、今ではやられはしないけれど攻めきれない両軍となっている。
結果、捕まえた朱然、徐盛他兵士たちを生かして返す代わりに、濡須塢の破壊を呑ませるつもりだとか。
「撤退が決まったということは、受け入れたのでしょうか?」
そう聞く小妹に大兄が首を捻る。
「協議が今からなら、話し合いの席に着くことを了承した、くらいだろう」
「失敗した者を見捨てる気はないんだな。まぁ、孫仲謀にそう言う話聞かないか」
阿栄が言うとおり、各人の思惑はあるものの、周囲に支えられての盟主だ。
見捨てると言う選択は、呉の内部での反感に繋がるためしないだろう。
「濡須塢を破壊することも受け入れそうらしいわ」
母曰く、呉軍も先年攻めて逃げ帰り、報復で今回の戦いで疲れたようだと。
しかも冬の攻防を強いられ、これ以上攻めてこられると体力が持たないらしい。
「攻め込む足場であると同時に、攻め込まれる足場。濡須塢を破壊することで、曹家のおじいさまが軍を差し向ける意義を失くすことができる」
その猶予は呉の回復にも繋がるので、決して悪いばかりではない条件。
「他は何か書いてあるか?」
阿栄はどうやら、終わった戦いには興味が薄いようだ。
それとも、してやられた徐盛相手の再戦を期待しているのかしら?
「協議のために、合肥に夏侯のおじいさまが残るそうよ。それに合わせて私の両親もまだ合肥に滞在されるそうなの」
言ったら何故か夏侯家の三人が顔を見合わせる。
そしてずいっと私に寄って来た。
「それは喧嘩にもならず、問題なく合肥に駐在すると?」
「俺、長姫が上手く取り持ってるから仲良くなったと思ってた」
「子林さまはお優しいのですが、いささか物足りないこともおありですし」
疑わしげな大兄に、素直に驚く阿栄。
そして小妹にいたっては実は一番大人な見解ではない?
けどそれには、私もまだ気を抜けないから、外野から騒がれても困る。
「我が家のことはいいの」
私は母がけっこう細かく父の様子が書かれた竹簡を巻いて書面を隠した。
「これからのことよ。濡須口を撤退するなら、子桓叔父さまが動かれるわ」
言うと、みんな緊張の面持ちになる。
一番早く状況を纏めたのは大兄だった。
「今の状況は、江夏に曹子建さまとそれを攻める関羽。江夏の西、樊城には曹子孝さま、江夏の南に呂子明、さらに南に魯子敬。で、関羽の本拠江陵では糜なにがしが失火による呵責を恐れる状況」
「失火は子桓さまの策でしたね。そして樊城に動きがないのも子桓さまの計略のはず」
小妹もなんだかんだ私たちと一緒に話を聞いているので理解している。
「つまり、関羽は樊城が動かないと見て出撃した。けれど子建叔父さまも餌なら、子孝さまに動きがないと見せかけたのも全て罠よ」
「魯子敬が動かないところに、呂子明が来て江夏付近に布陣してる。で、関羽の仲間に不信をまいて…………」
阿栄も指折り数えて、私を見た。
「ここで子桓さま、攻撃に出るのか?」
「いいえ、あくまでこれは釣りだもの。動かすにしても直接的なことではない、はずよ」
阿栄に聞かれて私も言い直す。
「動くのはこれからの状況。それを待って、子桓さまも動かれると思うの」
そもそもこれは子建叔父さまが描いた策だ。
つまり状況の変化で一番に動くのは、一番動けないはずの子建叔父さま。
「敵を倒すことを望んでいらっしゃるわ。けれど上から争う二つの軍を眺めることをしようとしていたはず。だから、狙っていたのは、関羽と呉軍の争いなのよ」
ただ今の状況から、どう持っていくかは経験がなさすぎる私ではわからない。
けれど子桓叔父さまはすでに先を睨んで、江陵に仕掛けた。
荊州は何処も硬直しているように思う。
濡須口での戦いが終わって動くとして、最初は…………曹家の祖父?
「曹家のおじいさまは、許昌へ戻られるわよね?」
聞いたら阿栄が眉を上げる。
「え、江夏の子建さま助けるんじゃないのか?」
「だが立てこもる策を採用されたんだぞ?」
任せて帰るという私と同じ考えを大兄が口にした。
それに小妹は首を傾げる。
「けれど、見捨てるような真似はされないのでは?」
「そう、そう思うはずよね。つまり曹家のおじいさまが撤退と言って合肥を離れる動きを見せれば、関羽は焦って攻撃を強めることになるんだわ」
言われて子桓叔父さまの見据えた動きがようやくわかった。
つまり、濡須口が終われば曹家の祖父は江夏にやって来る、釣られた関羽はそう思って攻撃に集中するだろうと読んだのだ。
つまりは、援軍が来る前にかたをつけようと、より餌に強く食いつくと。
退くことができるような者なら、援軍の気配を察すれば撤退を選ぶ。
けれど関羽はそうしないと子桓叔父さまは睨んだ。
「きっと関羽は、子建叔父さまを救うために動くと思っているわ。けれど実際は釣り出す策を知っている。そうなると、曹家のおじいさまの後に動くのは誰?」
「子桓さまではありませんか?」
小妹が言うけれど、私は首を横に振る。
「たぶん子桓叔父さまじゃないの。それだとせっかく争いがあるように見せかけて、連携はないと思わせた隙が、本当はないと見えるようになってしまうでしょう」
「じゃあ、曹子孝将軍だろう。兄弟の争いに関わらないような姿勢で動かなかった。けれど曹丞相が動かれるのなら、応じなければ配下として駄目だ」
私の考えに、大兄が指を立てる。
それを聞いて阿栄が声を上げた。
「ん? ってことは攻める先は江陵か? そうなると失火させて離間したのはどうなるんだ?」
言われて気づく。
援軍が来る前に江夏を落とそうとより食いつく関羽の、その背後を攻められた場合、完全に逃げ場がなくなる状況に。
「たぶん…………江陵はあまり真面目に抵抗しないんじゃないかしら。関羽が戻れば罰される。元より助けるような間柄でもない。そして関羽自身が守りよりも攻めを取ってる現状、手を取り合って守りに当たってくれもしない」
江陵を守る者からすれば、樊城から攻められて守っても、甲斐があるかわからない状況だ。
関羽は攻めることに夢中で、近くには敵か味方かわからない呉軍もいる。
なのに、味方であるはずの関羽を信用しきれないよう、離間を仕掛けられた。
もしかしてこれは、策がはまったという状態?
「となると、窮地に気づいた関羽に逃げられないようにするんじゃないか?」
「あぁ、曹子孝将軍が動いたらさすがに警戒するだろうしな」
阿栄と大兄の言うとおり、ここからは本当に軍事を担う方の判断次第。
私にできるのは信じて待つばかり。
東の海の向こうの知識にもない、三月が始まろうとしていた。
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