百八話:兵の数
お正月から始まる予定だった濡須口の戦いは、疫病でひと月遅れで始まった。
それは東の海の向こうの知識、歴史に残されるとおり。
けれど何故か、私は半月ほど前線にいることになった。
そこからさらに戦闘が続くのも、歴史に沿っている。
魏は攻めきれず、かといって呉も反攻に出る機運もなくなってしまったのは、やはり私やその周囲が違う動きをしたせいなのかもしれない。
そんな膠着状態の気配は後方のさらに後ろであるここ、安城にも聞こえていた。
「皆いるか? 合肥から報せが届いた」
元仲がやって来てそう告げる。
ここは司馬家が借りる屋敷で、今日は私たち夏侯家に滞在する五人でやって来ていた。
そして時期は濡須口の戦いが始まってほぼひと月。
「曹家のおじいさまが兵を退くのね」
「当たりだ。これ以上の侵攻は難しく、また兵の疲労と物資の消費を考えての決定だそうだ」
驚きはしない。
東の海の向こうの知識にもあることだから。
ただ…………確実に状況は違うのよね。
わかりやすいのは兵の数だ。
一度濡須口を離れることになった賀斉という将などは、本来数千の虜囚を兵に変えて戦線復帰をするはずだった。
ところが朱然と徐盛という将兵を生け捕りにしたことで、賀斉と同行するはずだった陸遜は濡須口の守りに残っている。
そのせいで反乱民を生け捕りにするよりも、苛烈に攻めることで前線復帰を重視したという。
結果、賀斉が率いた兵数が目減りしての濡須口復帰となり、そして戦いは終わった。
「それで虜囚はどのように遇されるのでしょう?」
大哥が気にするのは、失明の恐れもあるほどの怪我を負わされたこともあるでしょう。
同時に、曹家の祖父が私に捕まえた理由を問う時にいたせいもあると思う。
私も交渉に使ってはどうかと言ったことが、採用されたかどうか気になる。
「濡須塢を壊すことで、捕まえていた者たちを返すという話し合いが行われたそうだ」
「それで退くってことは、孫仲謀は受けたのか」
大兄がびっくりすると、奉小はもっと現実的に考える。
「それだけ側近と将兵が惜しかったのか、勝ちを拾えない領内向けの言い訳に?」
「ま、戦場で会う可能性が出たわけだな」
阿栄がやる気で言うけど、元仲は微妙な顔。
正直、今回捕まった人たちが、また戦場に出る機会を得られるかどうかわからない。
しかも勝ちを拾えない理由にされるなら、余計に表舞台にはもう出ない可能性もある。
いえ、あちらが出られないなら私の身内にとってはいいことよね。
そして阿栄にはその好戦的な考えをもう少し控えてほしい。
「また会いたいと思うなら、まずは阿栄も生き残らないと。今回みたいに前線で何もできないお荷物は嫌でしょう。せめて、自分の足で逃げるくらいできるようにならないと行けないわ」
「う、確かに…………」
これで少しは敵を前に退くことを覚えてほしい。
決して、父親が戦って死んだなら自分もなんて言って前に出ないように。
(この経験がいい方向に行ってほしいわ。それで言えば、いっそ先に怪我をしたから、大哥の左目がこれ以上悪化しないということはないかしら?)
それなら安心できるけれど、そこまで都合のいいこともない気はする。
「こちらに話が届いたのであれば、荊州の呉軍にも知れているのかな?」
奉小が疑問を上げると、大哥が頷く。
「どう動くか。退くのは曹丞相閣下だが、不利益を被るのは呉軍。その結果がどう荊州に影響するか、だな」
「呉の内部を守るために兵を退くか、負けを背負い込まないよう攻めに出るか」
大兄が上げる二択に、私も考えを口にした。
「呉軍が関羽を攻めに出れば、子建叔父さまも応じて動くわ。けれど、呉の兵が退いた場合、関羽の動きに変化はあるかしら?」
「その場合、こちらが動く必要が出るだろう。そもそも籠城が偽計。そして濡須口に送り込んでいた兵をこちらに動員できれば形成は変わるし、しなければ偽計がばれる」
元仲が言うのはもっともだ。
子桓叔父さまだからこそ放置して疑問を覚えられなかったけれど、曹家の祖父が動ける状況となれば放置するのはおかしい。
助けが来ると考え、悠長に攻めている場合ではないと関羽は退く可能性がある。
「今回は早くの報せだったから、追って詳しい撤退の日程は届くだろう」
どうやらいち早く知らせようと来てくれた元仲は、そのまま帰る。
見送りに出ようとしたけど、外は寒いからと私は一人残されてしまった。
他は小小までも元仲を見送りに外へ。
手持ち無沙汰で、私は考えごとを言葉にする。
「呉軍に退く動きがあれば、関羽は目の前に集中するはず。もし呉軍に攻める動きがあっても、それだけ関羽の側に隙ができるはずで…………」
つまりもう戦いは、どちらに転んでも決着が近い。
魏軍の援軍が動けば、もう関羽も呂蒙も退く以外に選択肢はないはずだ。
そもそも呂蒙が率いている兵の数は、猛将関羽を狙うには少ないくらい。
だから関羽も放置しているし、私たちが話し合った結果でも、戦の影響で呉の領地が荒らされるのを防ぐための布陣じゃないかという話になった。
「だったら、子建叔父さまをお迎えに上がれないかしら。お怪我をされていないか心配だわ」
なんだか私が嗾けたような形だし。
この安城は近いのだから、役目を終えて退いてくる子建叔父さまと会えるかもしれない。
仲達さまのように、街の門までお迎えに上がれたらいいのだけれど。
そんなことを考えていると、入り口に影が差した。
戻って来るには早い気がして見れば、明らかに子供ではなく大人の背丈。
「ほう? また懲りずに戦場に立つか?」
聞き慣れた声に驚くと、子桓叔父さまがそこにいた。
今帰った元仲からは何も聞いていないので、きっと来訪を知らなかったのだろう。
それを裏付けるように、子桓叔父さまの後ろには困り顔の司馬家の侍女。
たぶん来訪を知らせることを止められて、ここまで案内させられている。
「…………あら? 戦場?」
「江夏まで子建を迎えに行きたいと言っただろう?」
「ち、違います!」
「なんだ連れて行ってやろうと思ったのに」
「母上に怒られますよ?」
「何、任せられたからには置いていくのも無責任かと思ってな」
言葉を返そうとして、私は一度口を閉じる。
置いていくとはつまり、子桓叔父さまも江夏へ?
曹家の祖父が退いてくるなら、子建叔父さまが立てこもる窮地を座してみていたと責められる可能性も。
実際は子建叔父さまの策を曹家の祖父も採用してのことだけれど、それがすぐさま露見しないためにも、子桓叔父さまは欺瞞行動として動く必要が生じる。
「自らが撒いた種の結果くらい見るべきだろう」
考え込む私に、子桓叔父さまは冗談交じりにそんなことを言う。
さっきも嗾けたようなと自分で考えたからこそ、私は否定できない。
「では、母上には一緒に怒られてください」
「そこは家庭の話だ。子林に譲ろう」
何故そこで無関係の父を出すのか。
けれど子桓叔父さまにそう言われたら、一緒に怒られてくれる父の姿が浮かぶ。
「それに長姫が移動したと聞けば、姉上と共に子林も安城に退くかもしれない。そうなれば心配もできるだろう?」
「やはりそれで怒られるのは子桓叔父さまでは?」
からかい半分の子桓叔父さまは、不満顔の私を眺めて笑う。
するとそこに慌てた様子が窺える裾の音。
「何故こちらにいらっしゃるのですか、子桓さま」
「仲達どの。なんのことはない散歩だ。ついでに姪がいたから談笑をしていた」
どうやら今帰って来たばかりらしい仲達さまが、子桓叔父さまの姿に驚いてやってきたようだ。
私は仲達さまと挨拶をして、子桓叔父さまはそのまま仲達さまに連れていかれる。
ただ、室外の廊下から短く話す声が聞こえた。
ほどなく、元仲を見送った面々が戻って来る。
「今、突然子桓叔父さまがいらしたのだけれど」
「あぁ、傷の具合を心配していただいた」
どうやら廊下での話声は大哥だったらしい。
すでに顔の腫れは引いて、ここのところ毎日触診されていると聞いた。
痺れはないし、骨も大丈夫そうで、目の傷も視力が少し落ちる程度だけれど、成長と共に改善の可能性もあるという。
「心配してくださっているのよ。私もとても不安だったもの」
「そうか…………。そう言えば、なんの話を?」
大哥に聞かれて、私は子桓叔父さまにからかい混じりに連れ出されそうになったことを話した。
すると小小が小首を傾げる。
「長姫、また一番前に行くの?」
「だ、駄目だ!」
「やめろ!」
「え、本気?」
「無茶はいけない!」
大哥、大兄、阿栄、奉小が畳みかけるように止めて来た。
「誰が行くものですか。私をなんだと思っているの。濡須口でだって、あそこまで前に出る気なんてなかったのだから」
言ったら全員が目を泳がせる。
本当に、私をなんだと思っているのか問い質したい気分になったのだった。
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