百七話:煙が立つ
合肥から安城へ移動し、後方のさらに後方で戦火及ばず私は平穏に過ごしていた。
ただ戦場の中継地点でもあるため情報は集まる。
私たちは夏侯家の屋敷に集まっては、聞き知った新たな情報を交換していた。
そんなある日、家妓がやって来て声をかける。
「長姫、お求めの情報が手に入りました。方々もともに聞かれますか?」
その日は阿栄と大兄、奉小が訓練しているのを見ているところだった。
私はもちろん小妹と小小も見学。
大哥も激しい運動はできないので見てるだけ。
「たぶん大兄たちも聞きたいというわ。訓練を止めて来るから、休憩を兼ねましょう」
そこにさらに私の世話を任されている侍女がやって来る。
「長姫、お客さまがおいでにございます」
見慣れた侍女の後ろには案内されてきた元仲がいた。
さすがに元仲の姿に、大兄たちも訓練をやめてやって来る。
「邪魔をするつもりはなかったんだが、客間で待っていたほうが良かったな」
「いえ、今から訓練を止めて西の様子について聞こうかとしていたところです」
「そうか。私も聞けた話があったから持ってきたんだ」
家妓と同じ用件で元仲は来てくれたらしい。
「つまり西に変化が起きたのですか?」
察して聞く大哥に、元仲が苦笑した。
「それほどではないが、火付けが上手くいったそうだ」
私は頬が引きつりそうになったけれど、寄って来た阿栄が先に口を開く。
「それは、子桓さまの策が成功したってことですか?」
「阿栄、ともかくまずはその棒を片付けてからにして」
棒術の練習だったため、阿栄は武器を携帯した状態で話しかけると言う無礼を働いていた。
さすがに阿栄も決まりが悪いらしく、そそくさと離れる。
そうして移動して仕切り直すことになったのだけれど、その前に雑談が挟まった。
「体が鈍ってる。なかなか戻らない」
「あれだけ動いてそれは不安だな」
ぼやく大兄に、未だ激しい運動を止められてる大哥が応じる。
「寝込んで移動して慣れない環境が続いていたのだもの。それで動けるだけ立派よ」
「長姫はそういうほどに疲れがあるようなら倒れる前に言ってほしいな」
「そうです。疲れたら言ってください」
奉小の気遣いに、小妹まで私が倒れるかもしれないと心配する。
砦から本陣に移動した時に倒れたせいなのでしょうけれど、さすがに大丈夫よ。
「ともかく、話を聞きましょう。まずは元仲から聞いてもいいかしら?」
「あぁ、言っていたとおり長姫の指摘から離間をするために火付けを行った。ことは上手く行き、一部武器を焼失させることに成功したそうだ」
武器は基本、刃の部分以外は木製で、弓に至っては鏃以外は燃える。
後方だからこそ纏めておいて管理されていたそうだけれど、そこに火をつけられてしまうと、消火したところで作り直しは免れない。
この事件が起こるのは、年月が違うと感じてしまう。
江陵にいる糜芳という者は、三年後に同じ失態を犯すのは東の海の向こうの知識で知っている。
同じ人が同じ状況で同じように失態を犯したということになった。
これはどう考えるべきかしら?
「放火か失火か、どう伝わったかまではわからない。それでも江夏を攻める関羽に、武器が焼失したことは伝えられたらしい」
「蜀軍の内部はさすがにわからないわよね? ということは、外にも聞こえるほど大騒ぎになった?」
私の指摘に元仲は頷く。
「物が物だからな。逆に伏せていたほうが罪は重くなる。そして報告を受けた関羽は激怒したそうだ」
その騒ぎが軍に広まり外にまで聞こえるようになったそうだ。
もちろんこちらに聞こえるなら、火の手の挙がった江陵にも聞こえる。
そこにいる将兵は肝を冷やすことだろう。
その上で関羽とは信頼関係が微妙。
つまり、関羽の孤立が深まることになる。
「そうか、信賞必罰というのはこういう時に大きな意味を持つんだな」
「常、身を慎まなければ、命を賭す場でこうも危うくなるのか」
武器の消失よりも、関羽が陥る状況の説明に大兄と奉小が大きく頷く。
阿栄はあまり興味なさそうなのだけれど、あなたが一番この危険に近いのに。
「それで、離間して関羽どうなるんだ? 急いで江陵に戻るのか?」
阿栄の疑問に元仲が応じる。
「いや、退いても武器はすでにないんだ。激怒したと伝わるのに江夏から退いたとは聞こえない。つまりこれで、関羽は孤立に近い状態だ。今、樊城のほうから兵を出せば」
「お待ちを。呂子明がいるはず。こちらが動けばあちらも傍観をやめるのでは? いっそ呂子明から見ても好機です。こちらの工作の結果をかすめ取られることにもなります」
大哥の懸念ももっともだ。
そうして話していると家妓がそっと私に合図を出して発言の許可を求める。
「合肥からも聞こえる話がございます」
興味を持ってみんなが家妓を見る。
「方々の将来が楽しみであると、曹丞相閣下が周囲に申しております。拙いなりに肝が据わり、状況を乗り切る団結の麗しさと」
家妓は何処でそんな話を聞いたのかしら。
というか合肥からこの安城に届いたとなると、たぶん子桓叔父さまや仲達さまにも聞こえているわね。
そして家妓は控えめに笑みを浮かべた。
「そして、張将軍と相対することを呉軍の将が恐れる動きもあるとか」
「あぁ、攫われるから…………」
阿栄がずばっと言ってしまう。
実際そうでしょうけれど、もう少し言い方はないのかしら?
それに恥さらしと言われることを思えば、ただ負けるよりも屈辱があるかも知れない。
特に呉は血の繋がりの意義が強い土地柄。
そこに一役買ったとなれば私たちの評価も子供ながら上がるのもわかる。
「あら? あまり嬉しそうじゃないわね、阿栄」
気づいて声をかけると、わかりやすく唇を尖らせた。
「だって、俺どっちも何もしてないし」
「それを言われると」
「俺もそうだな」
「うん、まあ…………」
「私も何も、な」
揃って男子陣が肩を落とす。
唯一表向き活躍を褒められる立場の元仲まで。
きっと何かをやり遂げたという実感がないんだろう。
私もなんだか目をかけられているけど、やった感はないからわかる。
けれど、怪我をしたり恐ろしい思いをしたり、その分耐えた頑張りを否定するのも違うと思うわ。
「乱世の奸雄と評されても、名を上げる機会が巡ることを喜んだ曹家のおじいさまくらいになれとは言わないから、素直にありがたがっておいたほうがいいのではない?」
人物評価に優れた人の所で、いっそ悪口を言われた曹家の祖父。
なのに曹家の祖父は、そうして選評を貰えたこと自体を喜び、実際足がかりにして人臣位をなり上がった。
ここで恐縮してたら大物にはなれないんじゃないかしら。
なんて思っていたら、なんだか視線が刺さる。
そして大兄が代表して言って来た。
「一番違うって逃げるのに、長姫が言うのか?」
「だって私、娘よ。過分な評価はいりません。あなたたちは喜べばいいって話」
「いや、長姫に助けられたからにはそうも言っていられない」
元仲まで謙虚すぎるわ。
見回せば他も同じ意見らしい。
これは多勢に無勢ね。
(いえ。いっそ、これを機に少し先の安心を約束してもらおうかしら?)
子桓叔父さまではないけれど、相手から言質を取ることで主導権を握れる場面もあるでしょう。
「あら、私を褒めてくれるのなら、いつか私が困って力を貸してと言った時には、立派な殿方になって助けてちょうだい」
「えぇ? 長姫も清河公主さまみたいに夫婦仲悪くなっても俺、関わりたくないぜ」
阿栄が酷い勘違いをする。
けれど、その可能性あるのかしら?
将来誰と結婚するかわからないけれど、絶対ないと言えないくらいに夫婦間で問題を抱えている人たちが周りにいるし。
私は反論しようと口を開いたけれど、そのまま閉じて余計なことは言わないことにした。
それを見て、家妓が付け加える。
「現状、濡須口にいらっしゃる張将軍を呉軍は無視できません。荊州にあってもそれは変わらないでしょう」
「つまり、呂子明が関羽を眺めているだけなのは、張将軍を警戒している?」
「丞相閣下のお力を、恐れているのではないかと」
家妓が言うこともわかる。
濡須口で曹家の祖父が戦っている限り、荊州の呉軍もそちらを警戒しないわけにはいかない。
つまり現状、呂子明は動けない。
動いたところで関羽と同じく孤軍奮闘しなければいけないことになる。
「煙が立ったのでしたら、燃え広がるのを待つのも火をつけた者の心構えかとぞんじます」
ここ数日不確定なことをあれこれと言い合う私たちに、家妓はそう言って余裕のある笑みを浮かべてみせたのだった。
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