百五話:火をつける
「あちらの戦況で、子建のほうも動きが変わるだろう。勝ちを拾えなかったとしたら、呉はがら空きの背中に誘われるかも知れない」
子桓叔父さまは、曹家の祖父の呟きから同じことを思ったようだ。
「そもそも冬の戦。長引かせるものではないからな」
子桓叔父さまが言うとおり、この時期は寒い。
日の出る時間も短いし、呉と戦うならどうやっても水辺になる。
水辺は寒い。
「では何故、今戦っているのですか?」
単純な疑問を口にすると、子桓叔父さまは元仲に顎を振った。
それだけの指示で理解した元仲が説明してくれる。
「曹丞相閣下が魏王になられただろう」
「そう言えば、そうね」
「くく、そう言えばと来たか。天下を牛耳る魏王に」
相槌を打っただけで子桓叔父さまに面白がられる。
いえ、さすがに祝賀あったし知ってるわよ。
人集めてたりしたし、身内も祝いに参加していたし。
けど、その時また寝込んでたから、私参加してないんだもの。
「あら、けれどおじいさまが魏王になってこの戦? つまり、示威行為ということですか?」
「ふ、示威行為と来たか」
さらに笑う子桓叔父さま。
さすがに慣れたのか元仲は困り顔をするだけだけれど、その困り顔を私にも向けるのは何故かしら。
「長姫、どうして魏王即位への理解は適当なのに、示威行動で戦が繋がるんだ?」
「え? だって、先年に留守のところを合肥が攻められて、撃退はしたけれど呉が攻めてくるくらいには甘く見ているということでしょう。だったら、魏王になった分だけ威を示さなければいけないのではない?」
すでに攻められた実績があるのだから、次があるかも知れないと思うはず。
けれど地位が上がってまで舐められては、面目丸潰れだ。
その上、相手は張将軍に手ひどく追い返された後で、駄目押しをするなら今。
ちょうど妙才さまが西の蜀を追い返した後でもあるし。
兵を集めて揃える余裕と、勝利に戦意が高まる機運もあるとなれば。
(実際、東の海の向こうの知識では、この示威行為は成功しているのだし)
曹魏は、濡須口では勝てない。
けれどそれで曹家の祖父の権勢は揺らがないのだ。
歴史どおりであったなら、戦いの後に孫権側から臣従の申し出がある。
それは、次また魏に攻められないようにするための低姿勢。
それだけ冬の交戦は呉にとっても負担だったと言える。
「それに、自分が苦しい時は相手も苦しいって言うじゃない。長引かせたくないのは向こうも同じでしょう? だったら今の時期にサッとせめて、サッと退く」
そう考えれば、この呉軍も辛い時期に戦いを挑んだのも頷ける。
(というか、知識がある分負ける前提で考えていたから、そんなおじいさまの側の都合なんて考えていなかったわ)
言われてみれば自明なことだった。
なのに、東の海の向こうの知識があるせいで見落としてしまっていたのだ。
きっとこの変な見落としを子桓叔父さまは面白がってるのね。
けれどしょうがないじゃない。
父の怪我とか浮気とか心配だったし。
どうせなら曹家の祖父にも辛い思いはしてほしくないし。
「それに、何故子建叔父さまの作戦受け入れたのかわからなかったのが、わかったわ」
「短期でこちらは引き上げ。最悪、曹丞相閣下が救援されるおつもりだろう」
元仲は私が考えついたこと同じ予想を教えてくれた。
私の前だとおじいさま呼びだけれど、今は子桓叔父さまいるからかしこまっているのかしら?
父親の前で改まるって、溝を感じる。
それとも、公私混同しないように努めている?
いえ、まず私を呼んで機密っぽいことを教えてる子桓叔父さまが公私混同では?
それにそもそも、公私を別ける考えがこの時代にはない気がしてきた。
役人も将軍も推挙という名の縁故採用なのよね。
「あいつは父の気に入りだからな」
私たちの会話に目も向けず、皮肉げに笑う子桓叔父さま。
ただの事実か、思うところがあるのか。
これは、いっそ含みがありすぎて聞けない雰囲気ね。
ここは話を戻してしまいましょう。
「早くに濡須口から退くと言うことを、関羽もわかっているでしょうか?」
「さて、どうだろうな」
答えをわかっててはぐらかす様子ね。
これはこちらから考えを言わないと教えてはくれなさそう。
そのために頼れるのは東の海の向こうの知識であり、本来起こるべきこと。
けれど現状は違うようになってしまっているから困る。
子建叔父さまが関羽を誘い出すことなどないはずだったのだから。
(だったら、関羽が戦う時の知識を何か…………)
考えて出て来るのは、二年後の戦い。
樊城の戦いと呼ばれるそれは、関羽が荊州総督を名乗りながら、ほぼ単身で樊城を攻撃するというもの。
その時、曹家の祖父は漢中攻略を失敗していて撤退中。
関羽が樊城を攻めるのは蜀本国を守る意味もあったかもしれない。
「…………関羽の周囲に、計略を疑うことができるだけの知将はいるのでしょうか?」
「関羽自身が知将だとは?」
「う、うーん、おじいさまよりは、たぶん知に秀でてはいないのでは?」
「くく、なるほど。子建に許しが与えられたなら、関羽自身にそこまでの知略はないと」
頷くのは当たりってこと?
そうなると気になるのは、関羽の周囲。
「荊州総督として、配下の将との関係はごぞんじですか?」
「つまり、これは罠かもしれないと耳うちする者はいないかということか。たとえいたとしても、あの自信家は、自らの武勇のみを頼りとするだろう」
つまり、忠告を聞かない性格と。
それで今まで上手くいっていて、そんな勇猛さを曹家の祖父も評価していたのね。
「そこを突くのも面白かろう。もう少し時間があれば、離間の計でも仕かけたが」
「今からでは遅いのですか?」
「人を仕込む時間がない」
「えっと、あまり仲が良くないようなら、小さなことでもいいのでは? ちょっと関羽から叱られるような過誤を演出するだけでも、離間はなるのかと」
家妓から聞いた連環の計を思えば、女性関係一つで人間関係に亀裂が入っているのだし。
ただ、言ってみたけど私には思いつかない。
曹家の祖父は、濡須口の戦いで呉の内部で反乱を起こさせる計略を仕込んでいた。
子桓叔父さまは、荊州を睨む戦力が動かないと思わせる情報戦を仕掛けている。
そんな二人と比べ物にならない私が考えられるのは、疑心暗鬼を抱かせるくらいのこと。
ただ東の海の向こうの知識からすれば、実際関羽は味方の助けを得られずに負けている。
だから、叱られたくない、怒られたくないという悪感情を刺激するだけでもいいはず。
「…………なるほどな」
呟いて、じっと考え込む様子で黙った子桓叔父さま。
あまりに真剣な様子に私も困惑する。
元仲を見ても、わからないと首を横に振られた。
そして元仲まで考え込んで目が合わなくなってしまったわ。
どうしようかと考えている内に、子桓叔父さまのほうが口を開いた。
「江陵で火付けでも起こせばあるいは」
なんだかとんでもない単語が聞こえましたけど?
私は元仲に声をかける。
「江陵って何処かしら?」
「江夏の西、樊城の南に位置する南郡の州城だ。関羽が出た今、確か南郡太守が守っているはず」
関羽も動かないからって、樊城にいる曹子孝さまを警戒しないわけはない。
どうやら要所には守りの人を置いているらしい。
けれど、子桓叔父さまはあえてそこを狙うと言った。
「つまりは、関羽の後方? けれど火事なんてあったら関羽は退いてしまわない?」
「目の前には弱った獲物。背後ではすでに鎮火した騒ぎ。武勇に自信を持つからこそ、戦場を離れることはしないだろう」
私の疑問に、子桓叔父さま自身が確認するように考えを口にする。
そしてそのまま呟く。
「簡単なのは人家。だが、それでは関羽は一顧だにしない。だからと言って城に火付けなど無理だ。行ってすぐに火をつけて、逃げ出せる。しかし、燃やされれば前線が苛立ちを…………兵糧、もしくは武具か馬具」
絶対それ、自分がやられたら嫌なことですよね?
いえ、戦いとはそう言うものなのでしょうけれど。
ここは、下手に人命を狙うよりもましだと思っておきましょう。
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