百二話:より後方へ
呉の奇襲部隊に襲われて四日。
司馬の大哥はようやく目が開くようになった。
そこで医生から診察を受け、眼球の傷の具合によっては摘出しなければいけないそうだ。
夏侯の祖父がいい例だ。
傷ついたままにしておくと命を蝕むことになるから、傷ついた眼球はさっさと取ってしまったほうが延命になるのだとか。
「うぅ…………、ひっく」
「小小、大丈夫よ」
私は怯えて泣く小小を抱えて慰める目の前で、大哥が診察を受けている。
小小は大哥の目がなくなるかもしれないと怖がってるけれど、同時に離れたがらないので、落ち着けるため私が同席していた。
「どうでしょう?」
もちろん伯父の伯達さまもいて、医生が身を引いたことで神妙に尋ねる。
「眼球自体には少しの傷がありまする。ただこれならば治る可能性もあるでしょう。しかし、眼窩が骨折している可能性が新たに生じてございます。ここの治りが悪いと後々苦しむことになるやもしれませぬ」
「その対処は?」
「まだ腫れていて骨の具合がわからないので、腫れが引いて改めて見るしかございませぬ。ただそうすると骨がずれたまま固まることもありまする。その時にはもう、治ることはないでしょう」
「では、命にかかわることは?」
「痛みと終生つきあうことにはなります故、耐えることこそが命を長らえさせる道となりましょう」
即座の危険はない。
そう診断されても、将来を思えば私は安心できなかった。
まだ包帯を巻いてない大哥の顔は痛々しい色をしていて、赤や青、場所によっては黄色くまだらになっていた。
(殴打の強さのせいで、ひどい打撲だけでなく骨折までしているかもしれないなんて)
しかも東の海の向こうの知識を探っても、骨折をしていたら手術をするしかないとしか出ない。
もちろん、今そんな技術はなかった。
「揺らさなければ、移動は可能です。できる限り後方で安静を。顔の何処かにしびれが出た場合は、骨折の可能性が高いとお思いくだされ」
そう指示する医生を見送って、伯達さまは難しい顔ながら先の予定を口にした。
「十日を待たずに済んだのは良かったと思っておこう。ともかく合肥へ退く。壁に囲まれた街のほうが安全なのは確実だ。私も退くことになった。今度は迷わず戻れる」
伯達さまは、もともと夏侯の祖父の下に配属されている。
居巣からここまで来たのは私たちを迎えにきたため。
もちろん私の両親も迎えにきただけだから、合肥に共に退く予定となった。
兵を率いることのできる父と伯達さまがいるから、守りに心配はない。
「ご苦労をおかけいたします」
大哥が残った身の回りの世話役に包帯を巻かれながら、伯達さまに告げる。
「いや、私がついていながら。仲達になんと言うべきか」
そんな甥に、伯達さまも弱音を吐いた。
なんとなく沈黙が落ちると、突然天幕の入り口が開かれる。
医生が戻ったかと思えば、兵によって開かれた入り口には、曹家の祖父がいた。
「医生に聞いた。退くならば早い内が良いだろう。だがそれとして、そなたらの行動で急襲はとん挫した。良き働きであった」
見舞いの言葉を言いに来てくださったのかと思ったら、すぐに私へ視線を移す。
「長姫、朱然捕縛を言い出したそうだな」
「え、いえ、それは。言い出したなどと…………」
どうやら臧将軍か張将軍がお伝えしたようだ。
「元仲が言い出すには奇抜なことだと思っていた」
「奇抜…………た、確かに」
「それで興味がわいた。捕まえた後はどうするつもりだった?」
「あと、ですか?」
思いつきで、何より殺し殺されなんて怖いことは考えていない。
(捕まえて、戦うのをやめてくれたら?)
考えてみるけれどそんな甘いことはない。
実際今も戦いは続いている。
「交渉に、持ち込めないかと」
「ふむ、現状無理だな。朱治の長子とは言え、国主が引き下がるほどではない。生き恥を晒させてまで生かす価値もないと言える」
それはそうよね。
現状利益は、戦場に立てる頭数を減らすこと以外にないのだから。
慣れない場所で人を把握して動かすのは難しいし、少数でも間違って前線に行ってしまったし。
そう考えれば、呂蒙、朱然、徐盛、賀斉と指揮官を確実に四人は減らしてる現状は悪くないとも言える。
(ただ、殺さない意味がない)
生け捕りよりも急襲して殺すほうが、張将軍の負荷は軽かったはず。
とは言え、実際やってのけたし、そこは歴史に残る武将の実力というところ。
できると思ってなかった、後のことなんて考えていなかったとは、言えない。
けれど何か言わないといけない状況だ。
皇帝を凌ぐ権力を持つ丞相の下問なのだから。
親戚で集まって気軽に話す雰囲気とはまるで違う。
(あと私が頼れるのは、東の海の向こうの知識しか)
生け捕りは交渉以外に利点を示さなければいけない。
けれど何を示せばいい?
この戦い負けるから、それを阻止するためなんて言えないし、かといって負ける前提で来ていない曹家の祖父に言っても納得するはずもない。
いえ、言い方を、変えてみたらどうかしら?
「…………負けない、ために」
「ほう?」
「おじいさまは命じて前線を動かしました。そして濡須塢を攻撃し、築城を阻止しています」
「そうだ。だが増水で動けないかと思ったら、船を出して築城し果せた。その上奇襲まで計っていたのだ。今となってはそこはあまり重要ではない」
船が使える呉軍の強みだ。
歴史だと弩を配備しての防衛が濡須塢には敷かれているはず。
将来的に、曹家の祖父は落としきれずに撤退する。
つまり、損害だけを出して、負ける。
「捕虜は、国と秤にかけるには軽すぎる。でしたら、足場一つでしたらどうでしょう?」
「ふむ、続けろ」
こ、この辺りで何か察したように独自に解釈してください!
「…………奪うことが敵わないなら、築城を阻む。阻めないのならば、いっそ、濡須塢がなくなってはくれないかと、思い、まして」
東の海の向こうの知識を探りさぐり、私は言葉を絞り出す。
(子桓叔父さまが即位して後、濡須口の戦いは一度で終わっているし、元仲の時代に濡須口の戦いはないわ)
その理由は、濡須塢が壊されたから。
呉軍が攻める足場であると同時に、逆からすれば魏軍が呉の地を攻める足場にもなる場所。
そこが呉によって壊されたことで、濡須口という境界地域の価値が下がった結果だった。
「軍を率いて臨みながら、その言いよう。他の者が言えば戦意なしと叱責するところだが」
「わ、私は、戦ごとには不慣れですので」
「そう怯えずとも、叱りはせん。悪くないと言っているのだ」
こわごわ話していて俯いてしまっていた私は、改めて曹家の祖父を仰ぐ。
「殺していれば孫権と朱治が一族郎党を連れて報復をするだろう。それによって敵の士気があがることもある。だが、生け捕りであれば呉軍側の恥。さらに続けて急襲も失敗し生け捕りだ。呉軍は動きにくくなっていることだろう」
誰も親族にまで及ぶ恥なんてかきたくない。
さらには果敢に攻めて失敗した前例があると、次には慎重になってしまう。
だから生け捕りが悪いと言ってるわけではないと曹家の祖父は言う。
それでも聞いてきたのは面白いことを言いそうだからだそうだ。
もしかしなくても、子桓叔父さまが意地悪なのは、おじいさまのお血筋ですよね。
「ふふ、自ら足場を壊す大胆な決断ができるか突きつけるのも面白そうだ」
まぁ、悪いお顔。
「その上でわしを退かせても足場を失った状態となれば、少しでも得るものがないかと別に目を転じるやもしれん」
曹家の祖父は遠くを見るように西に目を向ける。
西は長江の川上、江夏がある。
そこに影響なんてするかしら?
けれど乱世の奸雄と呼ばれた方が言うのならあるいは、あり得るのかもしれなかった。
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