百一話:虜囚の身の振り方
左目を負傷した司馬の大哥。
まだ顔の腫れは引かず、腫れていて痛々しい。
血が逆流して腫れてるなら時間で治るそうだけれど、東の海の向こうの知識から感染症や、バイ菌と言った言葉が浮かんで来る。
「長姫、また大哥の心配ですか?」
「え、なに? 小妹?」
私は考えに集中していて、小妹に呼ばれた以外を聞き流していた。
それを見た大兄は溜め息を吐いて見せる。
「頻繁に見舞いにいくのも休めないと言われるんだぞ」
「わ、わかっているわ」
それはもう母に注意されたわ。
けれど小小は実兄なので許されてずっとそばにいる。
そうして他と離れたままの小小も心配なのよね。
「どれくらいで大哥を動かして良くなるんだろうな?」
阿栄の疑問に奉小が応じる。
「まだ腫れてて傷の具合がなんとも言えないそうだ」
「腫れてるために熱が出てるならいいのよ。けれど病のように目に見えない形で熱の原因があると、まだ悪化の途中かも、しれなくて…………」
あ、駄目だ。
考えると不安が膨らんでしまう。
「ちょっと、別の話にしてちょうだい」
「ここに小小がいたら泣くだろうから、言わないほうがいいだろう」
元仲が気遣ってくれる。
戦場だけど本陣で、場所は広いし後方で守りも厚い。
本来率いる兵も少数の元仲は、今までよりもやることなく、私たちと夕餉を取っていた。
「だったら、捕まえた将兵をどうするかは聞いているでしょうか?」
奉小が話題を変えて、そんなことを聞く。
そう言えば私たちがここに着いてすぐ、祖父が勧誘していた。
今はさらに急襲に失敗した徐盛他兵士たちが虜囚になっている。
(大哥の怪我が命にかかわるかもしれないほうが気になって忘れていたわ)
何より、曹家の祖父が敵を勧誘するなんて、実際目にして驚いた印象が強い。
ただ珍しいことじゃない。
後世まで残る有名な例は、関羽だ。
曹家の祖父は戦いに勝って、関羽を虜囚にした。
そして取り立て、配下として働くことを求めている。
けれど関羽は主君を劉備のみとして、戦働きを報恩に自ら曹家の祖父の元を去っていた。
「呉軍がどう動くかじゃないか? といっても、さすがに降伏の材料には使えないだろうし」
大兄は呉軍を下すだけの価値がないことを、何げない様子で語る。
戦場は命が軽くなる場所だ。
そこに貴賤はない。
だから捕まえ将兵二人の命も、その他の兵の命も国を動かすことはできない。
阿栄は思い出すように明後日の方向を見ながら口を開く。
「生きて捕まったなら、生きて身の振り方考えるだろ。張将軍みたいに死を覚悟して取り立てられるほうが珍しいはずだぜ」
そう言えば張将軍も虜囚から取り立てられた人で、かつて呂布という将に従っていた。
ただ張将軍は、大将である呂布も捕らえられた中で、処刑を覚悟した上での助命。
生きるなら曹家の祖父のために働く以外にない身の上で、帰る場所はなかった。
「朱然と徐盛、他の兵士も。呉に戻ることはあるかしら?」
私が聞くと元仲は頷いて見せる。
「朱然は孫仲謀の側近だ。解放すれば戻る可能性は高い。ただ徐盛は先年の戦いで失態を犯しているから、戻れないと考えるかもしれない」
徐盛を相手に手傷を負わせたのは張将軍だ。
ただ徐盛も奮戦して生き残っているから、実力はあるのではないかしら。
「ただ大将をしている蔣欽は徐盛を評価しているとか。今一度許される可能性もあるが、独断専行を咎められるのは必定だろう」
元仲曰く、今回の奇襲は完全に失敗で、そもそも上陸地点を見失っていたとか。
そして他の者は失敗を受け入れ、敵地からの離脱を図り身を潜めた。
そんな中、徐盛だけが急襲を敢行したそうだ。
本来の歴史なら徐盛独力で急襲を大成功させて、堂々と帰るという武勇伝になる。
けれど今回、辿り着く前に子供に見つかるという大失態に変わった。
「朱然って奴は、俺みたいな立ち位置の奴だって聞いたけど。本当にそうなら戻るよな」
阿栄が言うとおり、孫権の兄孫策存命時に側に上げられたのが朱然だ。
そして孫権が跡を継いでからずっと仕えている。
阿栄も夏侯栄となって初陣で死ななければそうなっていたかもしれない。
そう思ってたら、元仲が安心したような顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや、阿栄なら生き恥だとでも言いそうで。戻って来てくれる気があって良かった」
大兄と小妹がわかると言った顔で阿栄を見ると、奉小が一人呟いた。
「できれば徐盛には戻ってほしいな」
「まぁ、どうして?」
知識で言えば、今後の孫呉の守りの要になるのが徐盛だ。
ここから五年後の戦いでは、張遼さえ破るほどになり、元仲が皇帝となった後も南下を阻む障壁となる。
私が呟きを拾ったことで、奉小はちょっと照れたように視線を逸らした。
「叶うなら、元服した後に、正面からやり直したい」
「確かに、ただ助けられるのを待つしかなかった相手だからな」
大兄もわかる様子で大いに頷く。
ただ、大兄は西の戦場に立つことになるし、奉小は完全に文人の道を行く予定だ。
(まさかそこまで未来が変わる? 奉小が武人に? これはどうなのかしら)
別に望む将来があるなら止めるつもりはない。
けれど戦場を目指すとなると心配が先に立つ。
「この地で戦うというなら、目指すは張将軍。自ら寡兵を率いて安全な砦から雨降る夜を駆ける覚悟が必要になるわよ?」
実際にやったうえに、成功して果たしたことを私たちは知っている。
私たちが元服して二十代の頃には張将軍も亡く、その後にこの地を主戦場にするなら、家柄から要になる武将にならなければいけない。
「どう考えても前任者と比べられるだろうな。それは敵からも、味方からも」
継ぐことを期待される立場だからか、元仲はすぐに思い至って苦笑いを浮かべる。
それにはさすがの阿栄も難しい顔になった。
「うわ、できるかな。長姫はどう思う?」
「どうして私に聞くの?」
「だって、今までのことを言い出したのは長姫だ。できると思ったからだろ? だったら今聞いたのだって何か問題がある思ったんじゃないのか?」
「そこまでの確信があった訳じゃないわ。隙があるかもと思った程度よ」
阿栄と話していたら、大兄と奉小が真剣に顔を突き合わせる。
「天性か? それとも寝台で暇に飽かせて書を読み続ければ少しは近づけるのか?」
「言うことは理解できるから、こちらが勘を磨くことをすべきかも知れないな」
目指すなら止めはしないけど、そうしてできる限り生き残れる算段を考えてほしいのよ。
私を真似るようなことをするなら、まずは安全第一でお願いね。
そんな兄たちを見て、小妹は首を傾げる。
「結局、捕まれば本人が望まない限り戻れないのでしょうか?」
「そうなるみたいね。朱然は戻る、徐盛はわからない。ただ、状況的にただでは帰れないと言ったところかしら?」
小妹に聞かれて答え、元仲に確認の目を向ければ、頷きが返る。
「交換を望む虜囚などもいない、政治的な人質にもならない。だったら、こちらで厚遇することで、さらに呉内部から造反する者を誘う呼び水にするだろう」
なるほど。
そういう扱いになるのね。
そして関羽の例からもただでは帰れないことは確定している。
けれど呉とは心情的に戦えない。
そうなると、何処で武勲を立てて報恩するのかしら?
「造反と言えば、曹家のおじいさまが内部工作をしていると聞いてるわ。そちらはどうなったのかしら?」
「すでに蜂起して将兵が対応に当たるため前線を離れている。まだ鎮圧したとは聞かないな」
東の海の向こうの知識では、即座に鎮圧して濡須口に戻っているから、時間がかかっていると思って良さそうだ。
やはり相応に状況は変わっているらしかった。
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