十話:公主を舐めるな
私は未来の知識があるから商売を悪いとは思わない。
けれど夏侯の祖父的には駄目なことだ。
しかもそれは世間も同じで、親戚も同じ価値観だった。
「あぁ、宝児。勘違いしないでほしいのは私は父を、おじいさまを嫌っているわけではないんだ。あの方の戦場に並べないことへの鬱屈は知っている。信頼はあれど近侍のできない身分への苦悩を知っている」
子として見て来た父の言葉は穏やかで、本当に怒りや悔しさはないらしい。
「だからおじいさまが間違ってるわけではない。ただ私が我慢できないだけなんだよ」
「はい、わかっております。私も父上を責める以外で夏侯のおじいさまを嫌ってはいません」
その上理由が私と母上のためであり、発端が夏侯の祖父の今までの行いであるなら父としては確かに言いにくいだろう。
私が父の言葉を代弁したところで、軋轢しか生まれない。
(トラウマというのだったかしら)
東の海の向こうの知識にある。
きっとお金を貯めていないと不安なのだ。
父の在り方に根差してしまった強迫観念かもしれない。
ただそれは同時に、備えておきたいと思うほど大事だと思ってくれてる証左にも感じられた。
「父も少しでも功を得ることで子廉どのとの見劣りを失くそうと厳しくなさっているのだし」
「それは違うと思います」
父が諦めを持っていうのを否定する。
だってそれは違う。
「功があってもそれで悪評がなくならないのはそれこそ子廉さまが体現しているではありませんか。羨望を受けることは好評と等価ではありません。子廉さまが評価される上で戦功は一つの要因であり、戦功のみではないのです」
「そ、そうかい?」
父は驚くけれど知ってるはずだ。
それこそ前例がいるのだから。
「かつて呂布という猛将がいたと聞きます。飛将軍と讃えられ、陣中の呂布馬中の赤兎と謳われた傑物。戦功は申し分ないことでしょう。ですがあの方は今やなんと呼ばれますか?」
「あぁ、そうだね。裏切り者扱いだ。そして比較すべきは張文遠将軍。敵として睨む方は今もいるけれど、戦功と共にその行いを評価する者もある。おじいさまの配下にも慕う者はいるんだよ」
呂布との戦いで片目を失くした際には敵方だった将軍は、道義を弁えた人柄から慕われている。
「では、于文則将軍は? あの方は曹家のおじいさまに忠実です。なんの瑕疵もない規律正しさ、戦功は言うまでもなく、なお求めて先陣を他の将軍方と争う戦意の高さも聞いていますが」
「よく知っているね。いったい誰がうちでそんな話を? あ、伯仁の子か。あの子は落ち着いてはいるけど意欲がないわけでもないからね」
父が勝手に納得して、困った顔をした。
「あまりそういうことは他所で言ってはいけないよ。誰が聞いていて、ご本人の耳に入れるかわからないからね」
「私は間違ったことを言いましたか?」
「いや、言ってはいないね。確かにあの方はその、なんというか、慕われない。誰にも心を許していないというか、厳しすぎるというか。なるほど、確かに戦功で見劣りがどうこうできるわけもない」
父も会ったことがあるのかいやに言葉を濁す。
なんにしても于文則将軍は近寄りがたい性格らしい。
それで規律に厳しく温情はなく、戦功を求めて無理をさせられると来れば兵も慕わないだろう。
(その結果、晩節がとても悲惨なことになる方なのよね。敵の捕虜になって国に帰っても誰も助けてくれないなんて)
西で妙才さまが敗戦し、亡くなるのが将来起こる大敗、定軍山の戦い。
もう一つ、その後に南で起こる大敗、宛城の戦いは大敗に于文則こと于禁が大きく関わる。
もはや宛城の救援ならずと、孤立したことでそのまま戦わず投降したのだ。
戦って兵を殺す愚はわかる。
けれどその後に救援を得て宛城の手勢は盛り返すのが史実。
状況を厳しく見過ぎて情を切り捨てたせいで、見切りが早すぎたのだ。
「どうすれば于将軍は慕われるようになるでしょう? 戦となれば頼れる方であるのならば他と連携のため、無益な被害を出さないためにも父上から歩み寄るようなことはできませんか?」
「難しいな。あの方は性格が難しい。酒宴にもあまり顔を出さないし、古参とも親しくする様子がなくてね」
「なんの話をしているのですか。幼い娘を相手に」
私と父の会話に一度は去った母が叱るような言葉で入って来た。
けれどなんだかいつもの勢いがない。
怒るならぴしっと怒る方なので、父も異変を感じたようだ。
「どうしたんだい? なんだか悪いことをしたような顔で」
聞いた途端、いつものように母に睨まれ、父はすぐさま肩を竦めて叱られる体勢。
いつものことだけど、何故かそんな父に母のほうが気まずそうに目を逸らす。
逆に私は父と目を見交わした。
「母上、お加減がすぐれないのですか?」
「疲れたのかい? こちらの温かい所へ来て休むといい」
二人で呼ぶと、母は顔を顰めて大きく溜め息を吐き父を指差した。
「全く、公主を舐めるものではありませんよ!」
突然の宣言に私も父もびっくりする。
「何が恥ずかしい思いをさせられないですか! わたくしは魏王曹孟徳の長公主! 化粧領を与えられ、あなたに頼らずとも金銭に困ることなどあり得ません!」
「え、あ、聞いてたのかい!?」
明らかに私との内緒話を聞かれており、父が声を裏返らせて真っ赤になった。
その姿に母も気まずそうにまた目を逸らす。
「なんなのですか。困窮が恐ろしくて商人の真似事など。わたくしにも貯えくらいございます。わたくしの父に生活を頼るくらいいくらでも頭を下げますわ。可愛い娘がいるのですもの」
「わ、私がそんなことをさせてしまうのが心苦しいというか、君を妻にしたからには私の貯えだけで養いたい、男の意地というか…………」
「馬鹿なことをおっしゃらないで。宝児が言うように戦場へ出ればどのような傷を負うともわからないのですよ。夏侯家に嫁いだからにはあなたが戦場に立てなくなっても食べて行けるくらいの貯えはしてあります」
「でも、やっぱり、こうして新年の挨拶には新しい衣服を着てほしいし、君に嫁いで苦労させられたなんて言ってほしくないし、宝児のこともこの先治療を考えればいくら貯えていても足りないし」
母が反論すれば父がもごもごと言い返す。
それに母は靴音高く寄って来て父の隣に座った。
そして間近に目を見つめて瞬きさえ許さない。
「それくらい考えています。だいたいあなた、いくらかかるとお思い?」
「えっと、毎年の食費と燃料代とでまずこれくらい…………」
指で数を示す父に、母は首を横に振る。
「宝児は年々大きくなるのですよ。毎年同じと計算してどうするのです。何より衣服を新調しなければいけなくなるのは宝児ですよ。いいですか、まず子の成長を中心に考え直してください」
母が今後にかかる金額を算出し、それに父が意見を上げて話し合う。
自然、二人は額を突き合わせるように近く。
(なんだか、予想外の方向に仲良くなってる?)
私はそっと控えてる使用人を呼んで、筆や墨などの筆記に必要な物を持ってこさせる。
両親にそれを渡して書き込まれる金額などを黙って見続けた。
私の学資についてまで話す内容に色気はない。
けれど決して仲の悪い様子でもない両親に笑みが浮かぶ。
「あ、できれば書物を手に入れるための経費を入れていただけませんか? 私は歌舞などできる体力はありませんので勉学で補うほうが身につくと思うのです」
家庭教師にいくら払うかという話に口を挟むと、両親が顔を上げて私を見た。
そして手元の筆や硯、木簡を見下ろしてまた二人で顔を合わせる。
「書物は必要だけど、これはいったい誰を師としてお呼びすべきかな? 宝児の知性に劣るようではいけないだろう?」
「遠く音に聞く賢人を招聘する必要があるかもしれませんわね。そうなると師となる方の生活費も勘案して…………」
何やら別の相談に移ってしまった。
「こうなるとわたくしの貯えを加えても足りないかもしれませんわ」
「やはり少しでも多く用意しないと宝児の未来を考えれば!」
両親は熱く見つめ合って頷き合う。
仲が良いのはいいけれど、どうやら親馬鹿が炸裂しているようだった。
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