一話:祖父の名は
「あぁ、宝児。愛しい子。お願い、目を覚まして」
泣き濡れた母の声がするけれど、瞼が開かない。
「君も休むべきだ。今夜は私がついているから。この子も、生きようとしてくれてる」
震えを抑える父の声が聞こえるけれど、指の一つも動かない。
(このまま、私は死んでしまうの? お二人が、揃っているなんて、珍しい…………)
私は熱に浮かされて夢を見ていた。
どこか遠い四角い建物ばかりの異国で、人々の顔つきもなんだか違うような気がする。
そんな場所から私は西の海を渡った。
(おかしな夢。どうして私は身一つで海を越えるのかしら?)
さらにおかしなことに、やはり身一つで川をさかのぼり、さかのぼって大陸をさらに西に進む。
そうして行きついた水源の山を登って、天を仰いだ途端に水に落ちた。
(赤い、赤い、海?)
おかしな夢から息を大きく吸い込むと、ようやく目が開いて指が動いた。
「まぁ!? 目を覚ましたのね! 誰か! 宝児が目を覚ましたわ! 誰かすぐに医生を呼んで!」
きつめの顔をした美人が憔悴した表情で声を上げる姿はちょっと怖い。
けれどその人こそ私の母である曹氏だ。
「宝児が目を覚ましたって!?」
足音も荒く駆け込んでくるのは、普段覇気のない父。
いっそそれだけ大声を出して、私と目が合った途端に笑みを浮かべる姿のほうが生き生きして見えた。
両親は忙しく私の容体を聞いたりお医者さんを呼んだり。
(けれどちょっと待ってほしい。なんだか私、変だ)
生まれて五年、いえもう六年。数えで六歳だったのが七歳になる。
今は冬で新年の時期で、誕生日なんて風習ないこの国では、新年を迎えて全員一緒に一歳年を取ったことになっていた。
本来なら祝い飾りがあるはずが、私が高熱で生死の境をさまよったせいでない様子。
(それは、いいの。私の五年で知ってる知識の内。けど、誕生日なんて太陰暦の今ないのよ。そう、暦は太陰暦で太陽暦なんてなんで知ってるの? あの四角い建物の異国では使われていたけれど)
どうやら私は熱を出して見た夢でおかしな知識を得てしまったらしい。
そんな自分の内面の変化を不安に思って、そっと父母を見る。
「あぁ、良かったぁ。本当に良かった」
「まだ予断は許しません。すぐに薬の用意を。金に糸目はつけませんから、医生にも処方をお願いします」
気を抜く父を叱りつけて母が厳しい顔つきで言い放つ。
そんな二人が身にまとっているのは、東の海の向こうの服とも違う袍服。冬用の衣服で新年に新調したものらしく新しい。
けれど何故か私には古い衣服であるように思える。
「薬に糸目をつけないなんていくらになるかわからない。そんなことを言っては金目当ての偽物を」
「なんです? 一人娘にさえ金を惜しむなど、吝嗇どころではございませんよ?」
「そういうわけでは…………はい」
睨まれただけで黙ってしまう父は弱い。
その気の弱さに母はさらに苛立ちを募らせてしまったようだ。
「全く、どうして父であるあなたがそう頼りないのです。夏侯のお義父さまのほうがよほど我が家を思って人をやってもくれるというのに」
夏侯…………そうだ、ここは夏侯家。
そして母は曹氏。
(知ってるのは当たり前よ。だって私はこの家の娘。けれど、この知識は知らない、過去、そして未来の話?)
紀元一世紀、ユーラシア大陸の東に存在する漢王朝。
その後漢と呼ばれる末期に覇を唱えた奸雄、その名は曹操。
(私の、祖父の名前だ…………)
そして曹操立身の脇を固めたのは血縁の夏侯家、その中で名の知れた人物は二人。
(その内の一人、夏候惇は、私の、父方祖父の名前…………)
しかもどちらも健在。
つまりここは遠い未来、東の海の向こうの国で三国時代と呼ばれ、三国志として親しまれる過去の世界。
(おかしい、おかしい、おかしい。だって私は生きている私は、私は?)
未来の知識を過去の私が知っている。それはおかしい。
なのに、私は自分を知らない。
(え? 両親は夏侯楙と清河公主。史実どおり確かに結婚してる。なのに、二人の間に子がいたとは、残されていない)
私の存在は歴史に書かれていない。
溢れて来る頭の中の知識に集中するけれど、父母の記述自体が少なかった。
(吝嗇で凡庸な父、曹操の愛娘の母)
しかも出て来る両親の知識が碌でもない。
考えられるのは、歴史に残るのは男性が多いこと。女である私は特筆することがなかったために書き残されなかった。
母も愛娘として歴史に残ってはいるものの、生没年不詳、名も不詳。書かれたのは父親が一時代を築いた一人であるため。
(だから娘の私の名が残らないのは不思議じゃない、不思議じゃないけど)
東の海の向こうの国なんて夢。そう思いたい。
けれど妙に詳しい知識と私では知りえない内容に否定する材料のほうが少ない。
(頭がくらくらして来た。そうか、私熱があるんだ。喉が痛くて暑いのに寒い。知識にあるような風邪薬があったら良かったのに)
部屋は奥に寝台があり、前室に机などが置かれた部屋がある。そのどれもが人の手によって作られたもの。
機械なんて言葉はなく、科学なんて概念もない。製剤技術なんてものもないことは想像がついた。
私が熱に浮かされて埒もないことを考えている間も、前室で両親が言い合っていた。
「あなたはいつもお金のことばかり。恥ずかしい。私のこの恥辱がおわかり?」
「私は、いや、今はそんな話ではないだろう」
諍い。そうだ、二人は仲がよろしくない。
私が熱で目も開けられなかった時、揃って声が聞こえたのが不思議なくらいに。
「…………父上、母上」
か細い乾いた声が私の口から洩れた。
反応したのは私の世話をしていた侍女。
「お館さま、ご令室さま。お呼びでございます」
「どうしたの、宝児?」
「辛いのかい?」
呼べばすぐに来てくれるし、手を伸ばせば揃って握り返してくれた。
思わず笑うと二人も口元を緩める。
(そう、私の両親。決して悪い人では…………)
瞬間、頭に溢れていた知識が一つの事件を浮かび上がらせるように明確にした。
それは、いつかもわからない未来のこと。
母が父を訴え、父は逮捕。そして死刑の間際まで追い込まれるというとんでもない未来の羅列だった。
初回一日二度更新(十二時)
次回:名前はまだない