熊と天使
人類が初めて月面に降り立ったのは二〇世紀後半のことだった。
当時の人間は、火星や木星の有人探査など、すぐに実現するものと思っていたらしい。
しかし、その後一〇〇年たっても木星はおろか火星への有人探査すら実現しなかった。
一番の課題は、多大なコストに見合う明確なリターンがなかったことだったと言われている。
そのコストという課題も、二十一世紀の終わりに建設された静止衛星軌道と地上を結ぶ軌道エレベーターのおかげで相当程度解消された。莫大な化学燃料を消費せず、安いコストで物資や人員を静止衛星軌道に投入できるようになったからだ。
軌道エレベーターの建設には軽量で高い強度を誇り、強い紫外線や宇宙放射線に長時間晒されても劣化しない新素材の開発が不可欠だったが、それが二十一世紀の半ばに解決したのだ。
また、リターンという部分では、この頃、実用化にこぎつけたレーザー核融合の燃料が、月で採掘されるようになったことが大きかった。地球ではほとんど得ることができないヘリウムの放射性同位元素であるヘリウム3が、月には豊富に存在したのだ。
ひとたび動き出した宇宙開発のスピードは速かった。
火星や金星のテラフォーミングも開始され、火星はメインベルト呼ばれる小惑星帯で宇宙開発に必要な鉱物資源を採掘するための前進基地になった。
そして、現在、火星は人口数億人を抱える人類第二位の拠点となっている。
しかし、宇宙開発は人類に希望をもたらしただけではなかった。
地上からロケットを打ち上げるためのコストが下がったとはいえ、宇宙開発には、やはり莫大な資金が必要で、資本家たちは投資した資金を宇宙開発で得られる利益で回収する必要があった。
その結果、火星をはじめとする宇宙の植民地は地球の資本家に搾取されるだけの存在となり、住民たちの大きな反発を招いたのだ。
火星のテラフォーミングを記念して始まった宇宙暦も今年で二五〇年を数える。
その今年の初めに、火星は地球連邦からの独立を宣言し、独立戦争が始まった。
しかし、宇宙はあまりに広大で地球と火星の距離はとても遠い。
二年に一度の大接近の場合でも五六〇〇万キロから一億キロ(数値に幅があるのは、二つの惑星の公転軌道が楕円を描いているため)、最も離れた場合には四億キロの距離の壁がある。
二つの惑星は頭上から核ミサイルを撃ち込まれないように互いに防御を固め、小競り合いを繰り返しながら、にらみ合いを続けるのが常態となった。
そして、現在、火星の独立宣言から半年が経過していた。
「しっかりせんか!」
アシナ曹長の檄が飛んだが、それで状況が改善するわけではない。
俺の目の前には、鏡のようなボディの虎そっくりのメタルクリーチャー、メタルタイガーを従え、西洋の大剣を模した高周波ブレードをトンボに構えた屈強な士官と、日本の槍の様な高周波ブレードをこちらに向けた長身の兵士が立っていた。
当然、本物ではなく、二人ともレベル四ステージ二の立体映像だ。
次のレベルの相手は先程ナザロフ軍曹が戦った装甲擲弾兵だが、ある意味、レベル四の方がレベル五よりも難しいのではないかと俺は思う。動きが速いし、大型肉食獣タイプのメタルクリーチャーが、ともかく厄介だ。
俺は日本刀タイプの高周波ブレードを正眼に構えていた。レベル四のステージ一をクリアすることで、すでに相当の気力と体力を消耗しており、額から玉のような汗が噴き出している。
幸い無重力なので汗が滴って目に入ることはない。しかし、ヘルメットの中が蒸れて、とても不快だ。
「!」
敵兵が俺の首筋目掛けて槍を繰り出した。
同時にメタルタイガーが俺の足元に突進してくる。
俺は体を開きながら槍をはじき、円を描く刀の軌道のままメタルタイガーを斬りつけた。
メタルタイガーは急ブレーキをかけて体を沈め、俺の斬撃をやり過ごす。
二の太刀を浴びせようと間合いを詰めると、敵士官が大剣で袈裟懸けに斬りつけてくる。
かわせない!
俺は、起死回生のカウンターを狙い、相手の手首に向け、刀を振るった。
人工知能のダメージ判定で敵士官が赤い光に包まれる。
しかし、同時に不快なアラート音が響いた。
目を離した隙にメタルタイガーが俺の膝に牙を突き立てていたのだ。
「勝負あり」
アシナ曹長の声が響き、俺の膝から力が抜けた。
立体映像の敵兵たちが、かき消すように消えていく。
「また、クリアできなかったな」
ヤンが俺にだけ聞こえるように小さな声でつぶやいた。
「うるさい」
俺はヘルメットを脱ぎ、汗ばんだ額を外気に当てながら、唸るように声を絞り出した。
ヤンだってレベル四の同じステージで足踏みしているくせに、という言葉は心の中に呑み込んだ。負け惜しみは潔くない。
「みんな、注目!」
アシナ曹長のものではない少しかすれたガラガラ声が響いた。
うちの小隊の指揮官、レオナルド・コステロ中尉の声だ。
俺は慌てて立ち上がり、姿勢を正し、声の方を向いて敬礼した。
意表を突かれた。
スキンヘッドの熊みたいなおっさんを想定して敬礼したら、天使がいた。
いや、確かに熊はいた。黒地に銀のライン、金の星二つの階級章を襟につけ、いつものように豹の様なメタルクリーチャー、メタルパンサーを従えて、偉そうにふんずりかえっている。
その熊の横に若い女性が立っていたのだ。
年齢は多分一〇代後半。目が大きく、瞳は緑がかった宝石のよう、優しさと気高さが同居した整った顔立ちで、癖のないの明るい金髪はショートボブだ。
柔らかい表情で、健康的な精神を表すように生き生きしている。
手足が長く、スリムで、均整の取れたモデルのようなスタイルだ。
碧と濃紺を組み合わせた地球連邦軍のジャケットとスラックスをこんなにも美しく着こなす人間を俺は初めて見た。
襟の階級章は黒字に銀のライン、星はついていないので准尉だ。
腰に差した高周波ブレードは、中世ヨーロッパの細身の剣レイピアを模したもので、優美さが漂っている。柄は金色、鞘は黒だ。
従えているメタルクリーチャーも主人に似てスマートで、手足の細長い猟犬の姿をしている。メタルハウンドと呼ばれるタイプだ。曇りのない鏡のようなボディから、持ち主の手入れの良さが窺える。
「本日付で配属になったセシル・ミュラー准尉だ。さあ、ミュラー准尉、あいさつを」
「セシル・ミュラーです。皆さん、よろしくお願いいたします」
透明感がある温かい感じの声だった。丁寧で誠実で礼儀正しい雰囲気が漂っている。
天使でも妖精でもなく、人間にもこんな人が実在するんだという想いを抱いて、俺はただひたすら彼女に見とれていた。
「オハラ二等兵!」
誰かがコステロ中尉に呼ばれているなとは思った。
呼ばれているのが俺自身だということに気がつくのに少し時間がかかった。
「あっ、はい!」
「何をボサっとしておるか! 貴様に命じる。准尉殿の荷物を持って宿舎に案内しろ!」
「サー・イエス・サー!」
コステロ中尉は苛立たし気に俺のことを睨みつけていたが、望外の幸運を得て、俺の心は傷つけられるどころか、熱気球のように舞い上がった。
俺はラニア・コーエン兵長が非番であることを大宇宙の精霊に感謝した。
もし兵長がいれば、女性同士ということで宿舎への案内は彼女が命じられたに違いない。
そして、セシル・ミュラー准尉が現れたタイミングも奇跡に近かった。
俺の訓練が終わったタイミングでなければ、ヤンの奴やナザロフ軍曹が命じられた可能性だってあったわけだ。
だから、これはきっと何かのフラグに違いない。そうだ、きっとそうだ。
俺は意味もなく舞い上がっていた。
「よろしくお願いします。オハラさん」
ミュラー准尉、いや、セシルさんの声は、耳にやさしく心にしみる様だった。声を聞くだけで幸せな気分になれる。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
表情が緩むのを抑えることができなかった。
きっと俺はだらしない表情で敬礼してしまったに違いない。
ヤンの奴が横から俺に、蔑むような視線を送っているのに、気がついた。
普段なら気にするところだが、全く気にならない。俺は幸せ者だ。
「荷物をお持ちします」
「いえ、大丈夫です。自分の荷物は自分で持てます」
「でも、小隊長の命令ですから!」
「そうですか……」
スーツケースを預かるために彼女に近寄ると、石鹸のような優しい香りがした。
「それでは居住区にご案内します」
俺は早鐘のように高鳴る心臓を無理やり押さえつけ、必死で平静を装いながら、セシルさんのエスコートを開始した。