一瞬の幸せ
「ごめんなさい。もっと、早くお見舞いに来たかったんですが」
セシルさんがやってきたのは、日が変わり、俺が退院する直前のタイミングだった。
午前中の柔らかな光が病室を照らし、レースのカーテンが爽やかな風で揺れていた。
銀色の猟犬のようなメタルクリーチャー、パーシモンがセシルさんの足元に寄り添っている。
「いえ、そんな、自分なんかには、もったいないです」
口ではそう言ったが、内心、早く会いたかった。
そして、二人きりで話をしたかった。
『友人として忠告する。彼女はやめておけ』
ヤンのセリフが一瞬頭をかすめたが、現物の魅力が圧勝した。
「元気そうで、良かったです」
セシルさんは、こぼれるような笑顔を浮かべる。
俺は簡易宇宙服を兼ねた青い軍服姿になっていた。
以前の軍服は、敵のレーザーライフルのせいで、焼け焦げだらけ、穴だらけになってしまったので、倉庫から出してきてもらった新品だ。汗の臭いも染み込んでいない。しわもなく、パリッとしている。
退院する直前だったので、髭もきれいに剃ってあったし、歯も磨いていた。
シャワーも浴び、髪の毛も洗っている。そういう意味では完璧だ。
俺はベッドサイドで姿勢を正す。
脇腹の火傷の跡がひきつれて軽い痛みを伴ったが、痛み止めが効いていることもあり、全く問題ない。俺も笑顔を返すことができた。
「ヤンの話では、敵は撤退したとか」
話をしたいと思いながらも話題に困り、俺は今更な話を持ち出した。
「ええ。敵はそのまま火星への帰還軌道に乗りました。対消滅による爆発に巻き込まれること覚悟で、この宇宙要塞アマテラスを破壊するという選択肢もあったはずですが、そこまでしようとは思わなかったようです」
「それは何よりです」
困難な作戦を遂行する覚悟はあっても、自殺をする覚悟はなかったということだろうか。
「地球とアマテラスの間には太陽という巨大な防壁がありますが、アマテラスと火星は距離はあるものの、何の防壁もありませんからね。自分たちの母星に被害が及ぶことは避けたかったのでしょう」
対消滅爆発によるガンマ線バーストは強烈だと聞く。
もともと火星は磁界が弱く、地球のヴァンアレン帯のような天然の放射線防護壁は形成されていない。
火星の地上には、常に地球よりも多くの放射線が宇宙から振り注いでいるが、アマテラスが爆発すれば、その量が飛躍的に跳ね上がることになる。
そんなことになれば火星の住民にとって大問題だ。
「彼らも自分たちの故郷は大事でしょうからね」
俺は深く頷いた。
「ショウさんのおかげですよ」
セシルさんの緑色の瞳がじっと、俺の目を見つめていた。
「えっ?」
「ダミーのミサイルで敵を追い払うアイデアがなかったら、きっと違う展開になっていたはずです」
褒められて悪い気はしなかったが、思った通りの効果は得られなかった。
だから、調子に乗って誇る気持ちにもなれなかった。
「たまたまの思い付きですよ。敵を撃退したのは、みんなの力です。死んだ人もいますし」
ナザロフ軍曹がレーザーライフルの餌食になったビジョンが脳裏に浮かんだ。
一歩間違えば、あれは俺の姿だったのだ。
ナザロフ軍曹は無口な人だったが、結婚して子供もいると聞いたことがある。きっと子供はまだ小さいだろう。
「思った通りの人ですね」
俺を見つめるセシルさんの瞳が不思議な光を放った。
〈なんだろう、この感じ〉
俺は魔法にかけられたように、セシルさんから視線を外せなくなった。
金糸の様な髪が白い頬を撫で、形の良い桜色の唇が湿り気を帯び、軽く開いた。
何か、しゃべろうとしても言葉が出ない。心臓がひどく乱暴に脈打ち始めた。
どうすればいい? 俺。
「退院の準備はできたかい?」
突然投げかけられた子供っぽい声が、俺にかけられた魔法を解いた。
「はい、準備できました」
俺は、セシルさんの後ろから部屋に入ってきたドクター・ホフマンに視線を向けた。
緊張して声が多少上ずっている。
この時になってセシルさんの足元にパーシモンがいることを再認識した。
今まで、まるで視界に入らなかった。
「うん、それはよかった。それじゃあ、お大事に」
セシルさんの横に立った小柄な女性は相変わらず俺と目を合わせようとしなかったが、声は優しかった。
「お世話になりました。ドクター」
セシルさんが、フランカ・ホフマン中尉に深々と頭を下げた。
「なんの、仕事だからね。ボクが敵の捕虜にもならず、生きているのは君たちのおかげだから。お互い様さ」
それでもホフマン中尉は少し誇らしげだった。
「ありがとうございました」
俺も頭を下げた。ドクターには敬礼よりもこちらの方がいいだろう。
「ああ気をつけてね。退院するといっても完治したわけじゃないから、抗生剤はしっかり服用するように。それから、毎日検温して、熱があったら、また、受診するんだよ。今後、一週間は訓練もしないでね」
「わかりました」
軍隊で訓練がないということは、一体何をするんだろう。きっと、セシルさんが適当に仕事を見つけてくれるに違いない。
「では、また」
「お大事に」
俺とセシルさんは、そのまま医療センターを後にした。
建物の外に出ると、天井には昼前の設定の青空が投影されていた。薄く白い雲もたなびいている。
エアーコンディショナーが送り出す風は、そよ風の設定で肌に優しい。
スペインの地中海沿岸部を模した白い壁が並ぶ街並みは、映画のセットみたいなチープさはあったが美しかった。ところどころにオリーブの木が植えられ、そよ風に吹かれて小さな葉が揺れている。
もともとは数万人規模のスペースコロニーにする計画もあったこの施設には、現在、九人しかいない。そして、多分、居住区を歩いているのは、俺とセシルさんの二人きりだ。
メタルハウンドのパーシモンを従えて歩くセシルさんは、高級住宅街で犬を散歩させている育ちのいい少女のように見えた。
俺は、肩が触れそうなくらい近い距離で、並んで歩くだけで幸せだった。
何か話そうとしたが、適切な話題が頭に浮かばない。
「フランカ・ホフマン中尉には、本当にどんなに感謝しても足りません」
俺が黙っていると、セシルさんの方から口を開いた。
優し気な、耳に心地よい声だった。
「そうですね。ドクターがいなかったら、今頃、俺なんかどうなっていたことか」
重度の火傷が原因で死んでいたかもしれない。俺は腕と脇腹の傷を意識した。
セシルさんが俺に視線を向けているのに気付いて、歩きながら彼女に視線を向けた。
セシルさんの澄んだ緑色の瞳が、俺の瞳を捉える。
「ショウさんの傷を手当てしてくれたのも、そうですが、敵がブレインAIインターフェースを利用したハッキングを仕掛けてくる可能性を予想して、参謀本部に残留願を出してくれたらしいんです」
「そういうことだったんですか……」
あの時、ホフマン中尉が残留を強く主張したのは、医療従事者としてではなく、ネットワーク管理者として、そして軍人としての理由もあったのだ。
フランカ・ホフマン中尉は見た目は子供のようだが、責任感が強く、危機管理能力も極めて高い。俺なんかとても及ばない優秀な人なんだなと改めて認識した。
「そう言えば、最後の戦いの時、父からメッセージが届いたんです」
下を向いてドクター・ホフマンへの感謝の気持ちを噛みしめていると、セシルさんが急に話題を変えた。声の調子が変わり、気のせいか弾んでいるようだった。
「参謀本部長からですか?」
しかし、俺は自分が受け取ったメッセージの内容を思い出して、不安になった。
『娘は死んだ。三年前に』
おそらく参謀本部長は、ヤンのような考え方の人なのだろう。
脳の機能の一部を機械に依存している娘を普通の人間として見ることができなくなったのに違いない。
「父親としてのメッセージです。仕事上のメッセージじゃないですよ」
心配に反して、セシルさんの声は晴れやかなままだった。
視線を向けるとセシルさんの瞳は明るく輝いていた。
「よかったですね」
内心はともかくとして、俺の頼みを聞いてくれたのだろうか。
俺は素直に心から喜ぶ気にはなれなかった。しかし、それを表情に出すわけにはいかない。
俺は自分の笑顔が不自然に歪むことを気にかけた。
「通信障害のせいで着信してなかったんですが、障害が回復したタイミングで着信しました」
そうか、あの時の着信音は、セシルさんのものだったんだ。
それにしても、ブレインAIインターフェースではなく、なぜ、旧来の通信装置を使ったのだろう。参謀本部長もブレインAIインターフェースの手術は受けているはずだ。ヤンのようにブレインAIインターフェースに良い感情を抱いていないのだろうか。
「私を気遣うメッセージでした」
俺の暗い思考とは裏腹に、セシルさんの表情は明るさを増している。
「それはよかったですね」
俺はセシルさんの表情に同調して笑顔を向ける。
「でも、不思議なのは追伸の内容です」
セシルさんは急に笑顔を消し、探るような視線を俺に向けた。
「追伸?」
「はい、ショウ・オハラ君をはじめ、君の忠実な部下たちにもよろしく、とありました」
「へっ?」
また、本部長も余計なことを。
見た目と違って意外とお茶目な人なのかもしれない。俺の心配も杞憂の可能性が高まった。
「なんでショウさんの名前を知ってるんでしょう? 人事のデータベースで調べたのかな?」
セシルさんは俺に疑惑の目をむけている。
「なぜでしょうね」
背中がむずがゆくなった。頭頂部から汗が噴き出したような気がする。
「人事のデータベースを見たんだとしたらアシナ曹長が部下代表になるはずですよね。なんで、ショウさんが代表者になっているんでしょうか?」
セシルさんが不思議そうな表情を浮かべて、俺の目を覗き込んだ。俺の足は止まった。
「な、なぜでしょうかね」
俺のやった行動はとてつもないおせっかいで、人の家に土足で踏み込むようなことだった。
ひょっとしたら、これが原因で、セシルさんに酷く嫌われてしまうかもしれない。
俺にとって、それは耐えられなかった。
「何かしたんでしょ?」
俺を見つめるセシルさんの瞳が不思議な光を放った。
怒っている眼の色ではなかった。
どちらかというと笑いを含んでいるようにも見えた。
先ほどの魔法が復活し、俺はセシルさんから視線を外せなくなった。
俺たちは足を止め向かい合う。
セシルさんの美しい金色の髪が白い頬を撫で、形の良い桜色の唇は艶やかで軽く開いている。
心臓がひどく乱暴に脈打つ。
体温が急速に上昇してきたようだ。
「え、いや……ま、その、い、いいじゃないですか」
上ずった声で、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。
メタルハウンドのパーシモンが不思議そうに俺の方を見ているのが、視界の隅に入った。
「ありがとう」
セシルさんは、そう言いながら俺に近付いた。
微かに石鹸の香りがした。
彼女は俺の後頭部に手をまわし、少しだけ背伸びして、俺の唇に自分の唇を重ねる。
暖かく、柔らかかった。
不安が全て溶け去った。
俺も彼女の腰に夢中で腕を回し、引き寄せた。
そのまま、目を閉じ、彼女を感じ続けた。
生きていてよかったと心の底から思った。
戦争は始まったばかりで、この先、いつ死ぬかわからない。
いや、戦争があってもなくても、人生、先のことはわからないものだ。
ただ、この一瞬、今の幸せを噛みしめることが何よりも大切なんだと俺は痺れた頭で感じた。
そして、このまま時が停まり、この瞬間が永遠に続けばいいのにと、俺は心の底から願っていた。




