表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

明暗。

一時の幸福感が身に染みた。

素直に嬉しかった。天使なあの子の言葉が。一緒にいるという言葉が。

考えないようにしている。でも、これはそう簡単なことじゃないみたいだ。

どれだけ考えないようにしてもこれは幸福感が高ければ高いほど繊細に考えてしまう。皮肉なものだ。

天使の中には不安感を取り除いてくれる天使もいたらしい。もし、もしそんな天使が実在したらこの不安も取り除いてくれないだろうか。なんて考える。そんなのただの空想だ。



微睡みの中で下の方から音が聞こえてくる。聞き覚えのある音だ。そしてこの音は起きろという合図でもある。半覚醒状態の体を無理やりにたたき起こす。普段ならここでカーテンの隙間から陽の光が差し込んでくるはずだけど今日はそれがない。カーテンに手をかけて目を擦りながら窓の外を見る。外を見ると真っ白な銀世界が広がっていて思わず目を見開いた。大粒のボタン雪が降り注ぎ、屋根にはかなり厚みのある雪が積もっていた。どうりで陽の光がないわけだ。

カーテンを閉めてベットの上のかけ布団を三つ折りにして整える。固まった体を立ち上がらせる。そして昨日寝る前に準備していた私服に手を伸ばして着替え始める。

着替えているとふと昨日の鮮明で濃い出来事を思い出してしまう。

仲の良い親友4人での遊び、しかもダブルデート。紗南がはしゃいで、それに蓮がつっこんで、瑠璃もそれに呼応するように楽しそうで、可愛くて綺麗な衣装を身に纏った女子二人を眺めて、蓮と普段は絶対にしないであろう話をして。そして最後の観覧車で...。

いや、やめよう。思い出しても虚しくなるだけだ。そんなことを頭の中で考えて自分のなかで解決させる。だけど嫌でも、後5日という現実は襲う。この感覚ばかりは記憶が無くなるその日まで続くのだろうと思う。


瞬間。頭の中に突き刺すような違和感が襲う。くらっとした目まいが襲い、視界が徐々にチカチカして平衡感覚を失わせる。視界がホワイトアウトしてしまいたまらず僕は半分倒れるようにベットに腰を掛けた。


「...っ。なんだこれ」


座ると同時になにかが頭の中に流れ込んでくる。視界は未だに回復しない。


『...り?』


なんだ。声?

聞き覚えがある声だ。


『どうしたの?一人で』


僕の声だ。間違いない。

その声を認識して、その声に呼応するように頭に真っ白な背景の情景が流れ込んできた。

ブランコに座っている女の子が地面を見つめこんでいた。僕よりも一回り小さい。小学生いや中学生くらいだろうか。誰なんだろう。


『ねぇ、なにしてるの?』


また僕の声だ。そしてその声に反応するように肩をピクリと動かした女の子がこちらを見る。

可愛らしい顔をしていた。でもその表情はどこか悲しそうで瞳がゆらゆらと揺れていて不安げな少女の顔がそこにあった。


『ううん。ちょっとね』


その少女はすぐにふにゃっとした笑顔に変えて答えた。


瞬間パッと情景が白光して気づくといつも見る自分の部屋に景色が戻っていた。ホワイトアウトしていた視界はいつもの自室を映し出している。一瞬のこと過ぎて訳が分からず心臓がどくどくとうるさいくらいの音を立てていた。


「なんだったんだ。さっきの」


頭を抑えて整理する。

目まいも収まっていて意識もはっきりしている。

平衡感覚を確認するように立ち上がって直立してみる。

さっきのことが何だったのか検討もつかない。あくまで直観だけど、夢、ではない気がする。僕がいつも見る夢よりもはっきりしてるし何よりさっきの情景を鮮明に覚えている。普段ならどんな夢を見ていたのかは感覚的に覚えていても内容までは覚えていない。そのことからさっきの目まいは全くの別物であると直感した。


あの女の子。どこか見たことがあるような気がした。誰だったのだろう。

あの悲し気な顔が脳裏に貼りついて離れない。そしてその後のふわりとした泣きそうな笑顔。表情を隠すのが上手いようには見えなかったけど、まだ小中学生くらいの子供。あの女の子みたいな子が大人になったらうまく表情をコントロールできるようになって隠したいことは隠せるのだろうなと思う。


少し整理してもあの子が誰なのかは分からない。僕の声に反応してたから知り合いなのだろうか。

考え込んでいると部屋のドアがノックされる。


「隼人?起きてる?朝ごはんできたわよ」


母さんのその声で現実に戻される。

いくら考えてもさっきの出来事は解決はできそうにない。考えるだけ無駄かとわ自分の中で解決して、大きく深呼吸して息を整える。


「うん。すぐ行く」


リビングに向かうと机の上には朝食のパンと湯気を立てているコーヒーが置いてあった。さっき下から聞こえてきたのはコーヒーのバリスタの音だ。母さんも僕もコーヒーが好きということもあってコーヒーにはとことんこだわった。母さんを正面に見て座り、二人で手を合わせる。


「いただきます」


「はい。どーぞ」


コーヒーを口に運ぶ。

ふわりとした苦みが舌を通じて口一杯に広がる。僕の家のコーヒーはオリジナルのブレンドだ。

中学2年生くらいの頃だったかな。母さんと二人でコーヒー豆の専門店に行ってはいろいろな種類の組み合わせを試して、ようやくお互いが落ち着くところにたどり着いた。ようするに香りといい味といい僕と母さんの口に合う特別性という訳だ。


「昨日は何してたの?愛しの恋人の瑠璃ちゃんと」


母さんが冗談交じりにそんなことを言ってくるから思わずコーヒーを吹き出しそうになる。


「別に普通に遊んでただけだよ。それに瑠璃だけじゃないし。蓮も紗南も一緒になって遊んだ」


吹き出しそうなのをこらえて、冷静を装って返事を返す。


「あら、そうなの?てっきり二人きりで熱いデートをしてるのかと思ったわ」


二人きりではないが、デートというのは間違ってない。

母さんは僕と瑠璃が付き合っていることを知っている。というか付き合い始めてから秒で気づかれた。その時も僕はどれだけ分かりやすいんだって思った。


「まぁ、デートなのは間違いないけど、熱いは余計だよ」


「熱いでしょ。学生の恋なんて」


母さんは記憶が消えることについて全く言及してこなくなった。それを匂わせるような事さえ言わない。

多分、僕が考えないようにしているのが分かっているのだと思う。そして、瑠璃と何かがあったくらいには察しているんだろう。だから、あえて何も言ってこない。普段通りを取り繕ってくれる。

それが僕にとってはとてもありがたかった。でも、母さん本人は聞きたいはずだろう。わが子のことなのだから。それでも僕の気持ちを尊重してくれている。


「母さん」


「うん?」


「ううん、ごめん。なんでもない」


いずれ言おう。もちろん僕の記憶が消える前には。

母さんが聞いたらなんて言うのだろう。僕が瑠璃ととんでもない悪魔の契約を結んでいることを。いや、多分、母さんのことだ、僕らの気持ちを尊重してくれるんだとは思う。でも、それでも複雑な気持ちになるのは確かだ。


「隼人が言いたくなった時でいいわよ」


「ごめん。ありがとう」


考えていたことのアシストを綺麗にしてくれる。

瑠璃といい、母さんといい、僕は恵まれすぎている。


「今日も瑠璃ちゃん来るの?」


「うーん、どうだろう。来そうな気はする」


「ならせっかくだし、今日の夜ご飯、一緒に食べてもらいましょう」


「まだ来るなんて決まってないけど。しかもなんで夜ご飯」


「午前中は雪がひどいし、午後からは収まるらしいから来るならお昼過ぎくらいかなと思って」


「なるほど。張り切りすぎないでよ。まだ来るなんて決まってないのに」


「はいはい」


微笑みながら母さんはどこかウキウキしている。というかなんで僕より母さんの方が楽しそうなんだよ。

でも、なんだかんだ思いつつ、僕も心の中は少しだけ舞い上がっていた。

記憶が消えると言われてから久しぶりに元の雰囲気で母さんと話してご飯を食べた気がする。別に何も変わった訳ではないけど、なにかが戻ってきた気分だ。


「ごちそうさま。午前中、なんか手伝うことある?」


「んー、特にないかな。部屋でゆっくりしてきていいわよ。何か手伝ってほしかったらまた呼ぶわ」


「りょーかい」


普段からこうして手伝いがあるかを聞く。

家は母さんと二人暮らしだから、僕は積極的に手伝うようにしている。蓮にそれを言ったらおまえ普通じゃないなって言われたけど、小さい頃からこうしてきたから普通が何か分からなかった。

僕は母さんの言葉に甘えて、キッチンにパンが入っていたお皿とコーヒーカップを持って行った後に、洗面台で歯磨き等を済ませて2階の自室に向かった。


時計は午後1時。

特に何かすることもなかったから、僕は部屋のカーペットの上に座って小説を読み進めていた。

今、読んでいる小説は、悪魔と天使が恋愛をする話。天国と地獄に住む二人にとって種族を超えた禁断の恋というものだ。普段こういう恋愛系の物語を読むのは少ないのだけど、先日言った書店でおすすめされていたから惹かれて思わず勢いで買ってしまった。

しばらく読み進めていると、下の階からインターホンの音が聞こえてくる。


「隼人。瑠璃ちゃん来たわよー」


すぐに母さんの声が聞こえてくる。

僕は読み進めていた小説のページにしおりを差し込んで、1階に向かう。


「お邪魔します」


「瑠璃ちゃん、今日も可愛いわね」


「いえいえ、そんな。隼人ママさんも可愛いですよ」


「嬉しいこと言ってくれるわね。さすが瑠璃ちゃん」


瑠璃は昨日と色違いのコートとマフラーを纏い、玄関で母さんと談笑していた。女子二人で話が盛り上がっていて、話に割り込めない。

瑠璃は僕の母さんのことを"隼人ママさん"と呼んでいる。普通はおばさんとかが定番なのだろうけど、小さい頃から瑠璃は僕の家に遊びに来てたこともあってママさんと呼んでいるのだろう。なにより母さんも瑠璃にその呼び方をされるのを好んでるし、もう一人の可愛い子供感覚なんだと思う。


「あ、隼人。昨日ぶり」


「うん、昨日ぶり。今日も来たんだね」


「まあね」


「部屋来る?」


「うん、行く」


「ごゆっくり~」


「ありがとうございます」


母さんは何を思ってるんだろう。朝食の時には深く考えなかった疑問が湧いてくる。

瑠璃をどういう風に見ているのだろう。記憶がなくなるわが子、そしてそのわが子に寄り添っている彼女。少なくとも何とも思わないなんてことはないだろう。こんな状況。異様な状況であることは確かだ。それでも普段通り親として微笑み話しているのは心の底から尊敬した。


「いいお母さんだね」


自室の扉を閉めた直後に瑠璃が口を動かす。


「うん」


「隼人ママさんは知ってるんだよね」


言わずもがな記憶が消える事を指しているんだろう。

瑠璃にはもうこのことに関して包み隠さずに話すつもりだ。だってこんな契約を結んでおいて何も話さない訳にもいかない。せめてもの契約報酬として話すつもりでいる。


「うん。知ってる。病院で二人で一緒に聞いたから」


「そっか」


少しの静寂が自室の空間を包み込む。


「ねぇ、瑠璃が母さんの立場ならどう思う?」


我ながら難しい質問を飛ばしたと思う。

あの観覧車でのキス以来、僕は瑠璃にだけ自分の弱さを見せれるようになった。今日の朝食を笑顔で食べる事が出来たのも瑠璃の存在があったからだ。自分でも吐き出せる場所があるという安心感が自分をこんなにも変えるなんて思ってもなかった。


「んー、悲しいとは思うかな」


「まぁ、そうだよね」


「でもそれ以上にその時まで笑ってほしいとも思うかな」


困ったように微笑みながら答えてくれる瑠璃に申し訳ないことをしたと少し後悔する。

でも、発せられた透き通るような声にはっと納得してしまう自分がいる。確かにそうも考えるのかもしれない。母さんが普段通り振る舞ってくれているのは瑠璃が言ったようなことを思っているからなのかもしれない。


「答えになってるかな」


首を少し傾げながら瑠璃が言う。


「うん。ありがとう。少し分かった気がする」


「そう。それならよかった」


僕の時間は有限だ。

それでも、二日前とはずいぶん変わった。周囲の環境が僕の心を繋ぎ止めてくれている。母さんの優しさ。紗南や蓮との楽しい会話。そして瑠璃との契約。もし瑠璃と別れていたらこんな世界線はなかったのだろう。もし別の世界線を選択していれば絶望感に蝕まれながらその時を迎えていたと思う。

僕にとって瑠璃は現実に繋ぎ止めてくれている天使だった。


「さ、今日は何する?」


「んー、昨日とは違って決めてないんだね」


「うん。その場で決めるのも楽しいかなって」


「その場のノリってやつ?」


「うん。そういうこと」


瑠璃はカーペットに上品なお姫様のように腰を下ろす。

僕もそれに応じるようにベットを背もたれにして瑠璃の隣に腰を下ろす。


「隼人はさっきまで何してたの?」


「この前買った小説読んでた」


「相変わらずだね。どんなの?」


「うーん、恋愛ものだけど少しシリアス気味かな」


「珍しいね。隼人が恋愛もの読むの」


「まぁ、そうだね。でも普通の人間の恋愛ものじゃなくて悪魔と天使をテーマにしたものだけどね」


「へー、面白そう。一緒に読もうよ。隼人途中だったんでしょ?」


「いいよ。そんなに先に進んでないから初めからでいいよ」


僕はベットの上に置いていた小説を取って瑠璃に近づく。

一緒に読むわけだから、さっきよりも近づかないといけない。お互いの肩がすり合う。普段、学校で同じことをしているけど、自室となるとまた変な緊張感が襲った。僕の部屋にまで来て学校でしていることと全く同じことをするのはお互い相変わらずな部分があるみたいだ。


「どうする?とりあえず100ページくらい一気に読む?」


「うん、隼人が思うきりのいいところまでで」


「僕任せか」


「だって、隼人なら物語の流れを掴むの上手いからね」


「瑠璃も十分上手いと思うけど」


「隼人には負けるよ。良いところまで読んで残りは学校でまた一緒に読もう」


「はいはい」


静寂が包み込む自室でパラパラと本をめくる音だけが鳴り響く。僕はこの音が好きだ。一瞬で心を落ち着かせてくれて読書にのめり込むことができる。さっきまで瑠璃の隣で緊張していた心も一瞬で落ち着くことができた。

二人でページをめくりながら文字を追っていく。幸い僕らは読むペースがほぼほぼ同じだ。紗南や蓮からしたらだいぶ早いペースらしい。

1ページ読み終える度に瑠璃とアイコンタクトを取って次のページに進めていく。あっという間に先ほどまで僕がしおりを挟んでいたページを過ぎ去っていく。


ある日、混ざり合う事のない地獄と天国がどういう訳か繋がってしまう。お互いの領土を保とうと両領土の神様は干渉し合わないようにとの契約を交わした。しかし、とある天使と悪魔は仲良くなり、それは恋に発展する。もちろん天使と悪魔の恋愛はご法度。それでも二人はこっそりと天国と地獄の境界線で毎日のように会っていた。まるで織姫と彦星さながらの恋愛のように。そんなある日、噂話でも流れたのか両領土の神様に二人の関係が伝わってしまう。この関係をもちろん神様は許すはずもなく動き始める。


「この辺で終わっておく?」


いつの間にか瑠璃が家に来てから2時間も経過していた。雲の隙間から窓を突き抜けた夕日が部屋を照らす。

あれからずっと二人で本に目をやって読み続けていた。本来、上手い僕が目安にしていた100ページはゆうに超えていた。


「そうだね。とってもいいところで終わるね。これから面白くなるって時に」


「嫌だった?」


「ううん。やっぱり隼人に任せてよかった」


「そうかな」


「うん。にしても神様も理不尽だよね」


多分、物語の中の両領土の神様のことを言ってるんだろう。

あくまで物語の話のことだけどどうもフィクションの世界の中だけのことだ。なんて今の僕には考えられなかった。


「うーん。まぁ、確かに」


「隼人はそう思わないの?」


「そういう訳じゃないけど。でも神様も自分達の沽券を守るためだからなと思って」


「大人な考えだね」


「瑠璃は?」


「んー、私はやっぱりあの天使さんと悪魔さんには幸せなままでいてほしいかな。無理やり引き裂かれるなんて可哀そうだよ」


瑠璃らしい回答だと思った。

天使と悪魔の物語。どうしても今の現状と似ている部分が多くて重ねてしまう。天使のような優しさを持つ瑠璃に悪魔の如くひどいことをしている僕。それを記憶が消えるという理不尽な運命。

瑠璃には神様を擁護するような回答を言ったけど、心の奥では神様はやっぱり理不尽だと思った。


「また、なにか悩んでる?」


瑠璃が顔を覗き込ませてくる。


「ううん。なんでもないよ」


「嘘でしょ?分かるんだから」


「はぁ、僕ってそんな分かりやすいかな」


「んー、かもね。でも単に私が隼人の変化に人一倍敏感なだけかも」


微笑みながら瑠璃が答える。


「こんな普通の日々を過ごしてることが少し」


少しの間を開けて虚空を見つめながら戸惑いを打ち明けてみる。


「実感が湧かない、ってことだよね」


「そういうこと」


「ねぇ、隼人。こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、私は何も起きないことがよかったと感じてるよ」


「なにも起きないこと?」


「うん。確かに神様は隼人に非常な運命を与えたけど、その運命までは猶予があってそれまでは何も起きないこと」


いまいち瑠璃の話していることが解釈できなくて頭をかしげる


「だって、もしもその猶予期間でさえ奪われてしまったら、隼人とこうして話せてないわけだし、昨日のダブルデートだって出来てない訳だから」


「なるほど。そういうことか」


瑠璃の言う通りだ。

確かにこの運命は幸いなことに猶予が存在している。そしてこの猶予期間を彩ってくれてるのは神様じゃなくて天使だ。


「ごめんね。無責任な発言だよね」


「全然。むしろありがとう。励ましてくれて」


「ううん。これでも隼人と契約を結んでるからね」


「随分と僕にプラスな契約だね」


「当たり前だよ。私から出した契約なんだから隼人は得をしないとね」


悪戯っぽく瑠璃が笑う。

ほんとに瑠璃は強いと思う。契約という形をとってまで僕の彼女として居続けてくれて励ましてくれる。もしも逆の立場なら瑠璃みたいなことをできると言い切れる自信はない。

瑠璃はなんでこんな契約を結んでくれたのか。改めて昨日の疑問が浮かび上がる。好きだから。もちろんそれもあると思う。でも好きという気持ちだけでこんな困難な状況に立ち向かえるだろうか。自分自身が苦しむ沼に飛び込むことができるのだろうか。僕なら即決はできないと思う。


「いつかこの得は返すね」


僕は微笑み返すことしかできなかった。

瑠璃も優しそうな笑顔で微笑み返し応じてくれる。その笑顔を見て今朝起きた目まいのことを思い出す。瑠璃のような優しい笑顔とは別の寂しそうな笑顔が頭によぎる。


「また、何か考えてるの?」


瑠璃の前で隠し事をするつもりはないが、流石にこんな不確定な話は瑠璃にするのはよそう。


「ううん、なんでもない。単に幸せだなと思ってただけ」


瑠璃に隠してることがばれないように一言付け加える。

付け加えたものはもちろん本心だし詮索されることもないだろう。


「ほんと?」


「さすがにこんな嘘つかないよ」


「嬉しい。ねぇ、隼人。私も幸せだよ」


瑠璃の優しい透き通る声と綺麗な横顔に見とれてしまう。

お互いの希望である幸せにしたいという願望は思っていたよりも簡単に叶う。でも違う。こんな一握りの一時を叶えても意味がない。

僕が瑠璃を幸せにしたいと言った本当の意味はこの先ずっとの意味。高校生という枠だけにとどまらず、成人、社会人、なんならおじいちゃん、いや死ぬその瞬間まで瑠璃を幸せにしたい。この願望は叶えられないのが悔しくてたまらなかった。


「隼人?瑠璃ちゃん?晩御飯出来たよ」


自室のドアがこんこんと高い音を立てたと思えば、母さんの声が扉の外から聞こえてきた。


「うん。すぐに行くよ」


「え、私も?」


「うん。母さんが瑠璃が来るから張り切ってて。もしかしてなんか用事あった?」


「ううん。大丈夫だよ」


「よかった。じゃあ行こっか」


リビングに行くとこれでもかと思うほどの料理が机一杯に並んでいた。

ハンバーグに春巻き、ポテトサラダ、料理名を言い出したらきりがないくらいの料理がずらりと並んでいた。これにはさすがに呆れてしまう。どれだけ張り切ったのか、あれだけ張り切りすぎるなと言ったのに。横目で見ると瑠璃もかなり唖然としていた。


「あ、きたきた。母さん、張り切ったんだから」


「いや、張り切りすぎだよ」


「いいじゃない。久しぶりのお客さんなんだし」


「ありがとうございます。隼人ママさん」


「いえいえ、さ、座って座って」


テレビの音が流れる食卓に3人が座る。僕の家にとっては珍しい光景だ。

普段、ごはんを食べるときは母さんと二人のことがほとんど。だからとても新鮮でましてや瑠璃ということもあって食卓がより一層彩られているような気がした。


「おいしい。とてもおいしいです」


口にハンバーグを頬張りながら瑠璃が幸せそうな顔をしている。その顔を見ていると比例するように僕の幸福度も増していく気がした。


「そう?よかったよかった。お客さんに言ってもらえるとやっぱり嬉しいわね」


二人して幸せそうな顔をしている。

幸福感と満足感がリビング一杯を包み込む。とても、とても生きているって感じがする。大げさかもしれないけど、それほどに濃い空間だ。


「二人で何してたの?母さん気になるなぁ」


「小説読んだり、雑談したりかな?」


「あーどうりで静かだったのね。隼人は知ってたけど瑠璃ちゃんも本読むの好きなのね」


「隼人のおかげですよ。本を好きになれたのは」


「あら、そうなの?」


初耳だった。

付き合ってからずっと一緒に読んでたから、もともと本を読むのが好きなのだとばかり思っていた。


「僕、初耳なんだけど。瑠璃、もともと好きじゃなかったっけ?」


「えーなになに。隼人がきっかけって何があったの?」


食い気味に母さんが問いかける。

かくいう僕も心当たりがないものだから、きっかけについて気になっている自分もいたから母さんが聞いてくれて好都合だった。僕本人が聞くのは少し恥ずかしかったし。


「確か中学生になってすぐのときだったかな」


瑠璃が語り始める。

後ろで流れるテレビの音声なんてかき消すほどに瑠璃の透き通った声に集中して耳を傾ける。


「私、今でこそ治ってきたけど、人見知りで中学のクラスの中でも一人でいることの方が多かったんです」


「へー、意外ね。瑠璃ちゃんなら美人さんだから自然と人が集まって囲まれてそうなのに」


「そんなことないですよ。それに私自身、あの頃はまだ人と壁を作ってしまうタイプだったので」


「そんな時に廊下で別のクラスだった隼人を見かけたんです。隼人は自分の席で一人で黙々と本を読んでいて私と遊んでいるときとは別人のようでした」


「あんた、あの頃から陰のタイプだったのね。誰に似たのかしら」


「母さんでしょ。母さんも本好きだし」


「私はその姿に憧れを持ちました。真剣に本の中の物語と向き合っている姿に。普段、一緒に遊んでいるときとは違って自分自身の世界を持っているって思ったんです」


随分と瑠璃が真剣に話すものだから僕も母さんもまじまじと聞き込んでしまう。


「それがきっかけです。それから真似して本を読むようになって次第に好きになったって感じですかね」


話し終わるころには瑠璃の顔が少し赤みがかっていた。

自分自身のことをこんな真剣に話されるとさすがに照れ臭くなってしまう。多分、今の僕の顔も多少なりとも熱を持っているのだろう。


「二人とも赤くなっちゃって。いいわねぇ、学生時代」


「からかわないでよ。母さん」


「ごめんごめん」


それにしても初めて聞いたことだったから驚いた。瑠璃が本を好きになったきっかけは僕だったなんて。

でも、瑠璃が言ってくれたみたいな人間じゃない。自分の世界を持っているなんて持ち上げてもらったけど、僕からしたらただ本が好きで読んでただけなのだから。

それでも、瑠璃にきっかけは僕と言われて悪い気分はしなかった。


それからは他愛ない話を3人で楽しんでいた。

付き合っている男女二人の仲に母さんが混じるという普通なら異様な光景なのだろうが、とても暖かい空間が広がり包み込んでいた。

時刻は午後7時を回り、テレビの画面が夜のニュースに切り替わる。

大雪のニュースやこの時期になると流行るインフルエンザのニュースなんかが定番のように垂れ流される。しばらく見ていると、通り魔のニュースに切り替わる。内容は歩行者をボールペンのような鋭利なもので刺したというニュース。物騒な世の中だななんて考えていると見知った顔が画面に映し出された。


「この人...」


見たことのあるその顔は以前、僕にMR7を打ち込んだ不審者の顔だった。

こいつのせいで日常が壊された。それにあの出来事のあと、捕まったはずじゃなかったのか。しばらく画面にくぎ付けになっているとどうやらあの後、拘置所に連行される最中に逃げ出し、近隣の人を刺したらしい。いつもなら他人事に思える物騒なニュースも今回は別。心臓がドクンドクンと大きな音を立てる。

突如、僕の隣の席からカチャンと金属音が鳴り響く。その方向をに目を向けると瑠璃がスープを飲むためのスプーンを手から落とし愕然としていた。手が震えている。何より、瑠璃がテレビの画面を見たままピクリとも動かない。そして今まで見たことのない綺麗とはかけ離れたどこか怒りをイメージさせるような表情をほんの一瞬見せた。


「瑠璃?」


恐る恐る聞いても反応がない。

瑠璃の耳に僕の声そのものが届いていないようなそんな感じだった。

母さんがリモコンに手を伸ばし、すぐにテレビの電源を切る。多分、母さんなりに僕の表情を見てなんとなく察したんだと思う。


「瑠璃」


瑠璃の肩を揺さぶりさっきより大きめの声をかける。


「あ、ごめん」


少し慌てたような動作を見せたと思ったら、普段通り元の綺麗な雰囲気を纏った瑠璃に戻っていた。


「瑠璃ちゃん。スプーン変えてあげるわ。はい」


「すみません。隼人ママさん」


「いいのよ。さ、残り食べちゃいましょう。ささ、隼人も」


「あ、うん」


母さんに催促されてすぐにさっきの温かな雰囲気に戻り包み込まれた。

いつの間にかうるさいくらいになっていた心臓の音は鳴りやんでいた。いや、ほんの一瞬の瑠璃の様子の変化に自分の驚きがかき消されていた。

あのほんのコンマ1秒に満たない瑠璃の表情が頭にこびりついている。

何だったのだろう。普段、見ている瑠璃の雰囲気からはあまりにもかけ離れているものだった。ただ、あの一瞬だけ瑠璃の奥底にあるなにかが見えた気がした。





読んで頂き、ありがとうございます。

感想等、気軽にお送りください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 隼人君と瑠璃ちゃんもちろん、蓮君と紗南ちゃんカップルも相性抜群で、読んでいてニヤニヤさせられました。 暖かな友情と恋愛。それを壊そうとする非日常。抗う少年少女たちは幸せを掴めるのか、続きが…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ