第一話 サキュバス
「――はい、楽にしてください」
そう告げると、その美女はふう、と息をついた。
彼女は俺とは大きなガラス板を挟んで横向きに立っており、その正面には仰々しい大きな機械が存在している。
「れんとげん」という名前のこの機械、「カガク」という名の文明が発達した異世界から取り寄せた物を、この施設のマスターが独自に改造したのだという。
動作原理はよく分からないが、生物の骨や内臓を、皮膚や筋肉を透過して映し出す優れものだ。
「では、今度は横向きに撮りますからこちらを向いてください」
俺のその指示にも従って、彼女はこちらを向いて、そしてウインクして見せた。
美しい女性のその仕草に、ドキリ、と鼓動が高鳴るのを感じてしまう。
しかし、彼女は人間ではない。
「はい、では、羽根を後方に伸ばしてください」
俺の言葉に従って、彼女の背から一対のコウモリのような羽根が後方に伸び広がっていく。
族名:魔族、種名:サキュバス。
名前:アミア、年齢:二十代前半。
彼女は、人間の男性の精を吸い取る妖魔。
そしてその彼女を検診する俺は、魔族へと肉体改造された元人間だ。
「大きく息を吸って……はい、止めて!」
検査着の上からでも大きいと分かる彼女の胸が、息を吸ったことでさらに大きく見える。
一瞬見とれそうになったが、いけない、これは仕事だと我に返って、再び「れんとげん」にて彼女の横からの姿を写した。
画像はすぐに「もにたー」へ表示される。
その羽根にも骨が存在していることが、はっきりと見て取れる。
初めて見る、有翼妖魔の美しい骨格だった。
「はい、楽にしてください……えっと、これで後は聴診・問診だけですから、そのまま隣の部屋に移動してください」
と告げると、俺の隣に立っていた助手兼ナースのユアが、彼女を案内していった。
ユアは十六歳、俺の二つ年下だ。
種名で言うと、極めて希な「ハーフダークエルフ」だ。
普段は明るく、朗らかで、よく働いてくれるのだが、なぜか今日はちょっと不機嫌だ。
身体測定、視力、聴力、採血といった簡単な検査は彼女が受け持ってくれる。
「超音波」というお腹の透過検査や「れんとげん」、それから「内科検査」というやや専門的な検査は、俺が担当することになっている。
白衣の襟を正し、俺は内科検診のため隣の部屋に向かった。
ちょっと今日のこの検査は緊張する。
理由は単純、被検査者が「美しい女性だから」だ。
ここまでの俺の担当検査、ずっと検査着を着用してもらっていた(「超音波」検査ではお腹だけ出してもらっていた)。
しかし、聴診検査では間近で上半身裸になってもらわないといけない。
椅子に座り、すぐ目の前の美女に、
「では、上着を脱いでください」
と、努めて冷静に指示を出す。
すると彼女は、躊躇うことなくスルリと、しかし色っぽく従ってくれた。
思わず見とれるほどの、大きく整った形の美乳。
今まで診察したのは、人型の妖魔の女性であったとしても、ほとんどがオークやコボルドといった、人間とは大きく姿の違う、いわばメスでしかなかった。
そのため別に何とも思わなかったのだが……このサキュパスのアミアさん、羽根が生えている以外はほとんど人間と変わらない。
こんな美しい半裸体、間近で検診するのは、今は助手となってくれているユア以来だ。
「……うふふ、かわいいセンセイね……赤くなっちゃって」
う……冷静に接しているつもりだが、少し頭に血が上っていたか?
コホン、と隣で同い年のユアが咳払いした……ちょっとジト目だ。
俺も少し咳払いして、『聴診器』という道具の先を、彼女の胸に当てた。
ドクン、ドクンと規則的に力強い心音が聞こえてくる。
呼吸音も乱れがなく、特に悪いところは感じられない。
ただし、まだまだ素人に毛が生えた程度の俺には見分けられない病気が潜んでいる可能性がある。
万全を期すため、採取した血液や『れんとげん』写真と共に、聴診録音音声がマスターの元に転送される。すると、わずか十五分ほどで精密な診断結果が返送されてくるという仕組みだ。
この転送作業はユアがやってくれることになっているので、彼女に任せて、俺は最後の問診……つまり、体調が悪かったり、悩み事があったりしないか聞く診断に移っていた。
「特に調子の悪いところなんかないわ……センセイ、そんなことよりお腹が空きました……」
「お腹が……あ、そうですか。では、検診の最後に食事を取って頂くことになっていますので、ご案内しますね」
俺はそう言って、彼女に再度検査着を着てもらい、食堂へと向かった。
この日は午前の検診は彼女が最後だったので、他には誰もいない。
「……あれ、まだお弁当、届いていないな……ちょっと早かったか」
まだお昼には差し掛かっておらず、普段なら検診が終わっていない時間だ。
「……センセイ、私達サキュバスにとって最高のご馳走、なんだかお分かりかしら?」
アミアさんが舌なめずりをしている……と、なんか頭が、ぽわんとしてきた。
彼女は検査着をゆっくりと脱ぎ、床に敷いた。
さっきは座っていたので分からないが、下半身に下着一枚だけの彼女、足がすらりと伸び、ウエストは引き締まり、細身ながら大きな胸で……完璧なプロポーションだ。
サキュバスの好物、それは男の『精力』……。
診断項目を見たとき、『魅了』されないように注意すること、と書かれていたが……まずい、もう検診が終わったと油断したところでなにか魔法をかけられたか!?
やさしく彼女に誘われ、俺は彼女が敷いた検査着の上に横になる。
目の前の美しき妖魔、甘い香りとうっとりするような視線、そのぷるんとした唇……。
いや、だめだ、俺はまだ仕事中だ! こんなことしたら、ユアに軽蔑される……。
「……あら、頑張るのね……抵抗するなんて……そんなにあの娘のこと、好きなの?」
アミアさんはそう言いながら、俺の白衣を、続いてシャツのボタンを一つずつ外していく。
もう、体に力が入らない……。
その妖魔はぷるんとした唇を俺の顔に近づけてきて……。
「タクト! しっかりして!」
不意に若い女の子の声が聞こえて俺は我に返り、アミアさんの体をそっと押しのけた。
そして俺と妖魔の間に、見慣れたハーフダークエルフの顔が割り込んできて、その腕は上半身を起こしている俺の体を支えてくれた。
やや褐色の肌、ちょっと涙ぐんだ青い瞳、細長い耳。
冷静さを取り戻しつつあった俺の鼓動は、突然間近に現れた美少女の姿に、またトクンと跳ね上がった。
しかし彼女は、すぐにその顔を後ろに向けた。
「ちょっと、アミアさん! 何しているんですか!」
「えっ……だって、食事だって言うから……精を頂こうと……」
その顔は、明らかに俺達をからかっているようなイタズラっぽいものだった。
「サキュバスの方は、人間と同じような物でも食べられるはずです!」
めずらしく、ユアが怒っている。
「あら、ヤキモチ妬いちゃった?」
「なっ……そんなんじゃないですっ、でも当クリニックの職員を誘惑しないでください!」
「ごめんなさい、真剣なのね……でも、だったら良かったわね。彼、貴方のことを考えて、必死で私の『魅了』に対して抵抗してたわ」
「えっ……私の……こと?」
……なんか、見る間にユアの細長い耳が赤く鳴なっていくのが分かる。
場がそんな風に混沌としている状況で……。
「こんにちはー! 本日のお弁当、タクト先生とユアさんと、お客様の分……」
そこに荷物を抱えて入ってきたのは、可愛らしいネコ耳姿の女の子だった。
弁当配達のアルバイトをしている十三歳の少女で、名前はミコ。
そのネコ耳はファッションではなく、本物。彼女は獣人族なのだ。
上半身裸で脱力し、かろうじて体を起こしている俺と、それを右手で抱きかかえるようにして座るユア。その視線の先には、ほとんど全裸で立っているアミアさん。
ミコの声に一瞬遅れて、俺達は全員ミコの方を見たのだが……彼女はこの光景に目を丸くしていて、そして数秒後には大声で泣き始めた。
「……ひどい……ひどいですぅー!」
「……ミコちゃん、落ち着いて! ミコちゃんに酷いことなんか誰もしてないよ!」
ユアがなだめるように声を出すが、彼女は泣き止まない。
「状況を見ればわかりますぅー!」
「「状況?」」
既に正気を取り戻していた俺と、ユアの声がハモッた。
「……そこの綺麗なお姉さんがタクト先生を誘惑して、それで、先生は私という恋人がいながら、浮気しちゃったんでしょう? それを見てしまった嫉妬に狂ったユアさんが、タクトさんを奪い返そうとしている……そうでしょう!?」
「……なっ……違うわよ、なんかいろいろ間違ってる!」
ユアがさらに耳を赤くして、両手を交差して否定してる。
アミアさんはその様子に、
「まあ、センセイ……モテるのね……」
と、お腹を抱えて笑っている。
なんかますますカオスな状況になってきたが、この程度の騒動ならまだマシかな……と考えていたその時。
ズズーン、という衝撃と共に、建物が大きく揺れた。
「……なに、地震!?」
さすがにこれは非常事態だ。
ミコは泣き止み、俺も着衣の乱れを直して、慌てて外へと出てみる。
広大な森の中、ぽつんと存在しているこの施設の玄関前は、大きな広場となっているのだが……その光景に、俺は唖然としてしまった。
体高十数メートルはあろうかと思われる、黄金色に光り輝く巨大な竜が、のんびりと翼を広げていたのだ。
隣のユアも、目を見開いて驚き……そして震えながら声を発した。
「うそでしょ……これってまさか、伝説の……グレータードラゴン!?」
俺もこんな化け物、神話かおとぎ話でしか聞いたことがない。
この竜が暴れたら、俺もユアも瞬殺、施設の建物も跡形もなく吹き飛ぶだろう。
遅れて外に出て来たアミアさんもミコも、さすがに声が無かった。
その黄金竜は、ギロリと俺達のことを睨み付けてきた。
『……検診の令が出ていたので足を運んだが……デルボルト医師は不在か?』
竜のうなり声が、俺の『青い眼』により人間の言葉に変換されて頭に届いた。
その瞬間、俺はこの黄金竜は健康診断を受けに来たのだとようやく理解した。
「マジかよ……どうやって診察するんだよ……」
俺は目を見開き、全身を震えさせながらぼそりと呟いた。
ここは『魔族検診クリニック』。
世界で一番デンジャラスな健康診断施設だ――。