「お前を愛することはない」と宣言した夫を殴って、帳簿を出させました。
「お前を愛することはない」
「寝ぼけてんのか、ボケェ!」
私は目の前の男を殴った。
「ぐはっ!」
新婚初夜。
夫となった男は、見事に椅子から転げ落ちた。
「な、何をする!」
「それはこっちの台詞だ! お前、自分の商会がどういう状況かわかってんのか!?」
「わかっている! だからこそ、愛情のない結婚でお前に期待を持たせるわけには……」
「愛だの恋だの言ってる場合か! 帳簿を持ってこい、帳簿を!」
「初夜だぞ!?」
「借金の利息は初夜だからって止まってくれるのか!?」
男は黙った。
よろしい。
少なくとも、足し算と引き算くらいはできるらしい。
私はマルタ。大陸でも指折りの貿易商会、その会長の娘である。
そして今しがた殴った男は、私の夫となったバルト。
新大陸との海上輸送を専門とする商会の跡取り息子だ。
ちなみに、この結婚に恋愛感情は一切関係ない。
「いいか、バルト。お前、私が何のために嫁いできたと思ってる?」
「……政略結婚だろう?」
「お前の商会を潰さないためだよ、馬鹿野郎!」
私は机を叩いた。
「新大陸からの帰路で大嵐に遭い、船団は壊滅! 積み荷はほぼ全滅! 修理代に借金に賠償金! このままだと倒産する!」
「それはわかっている!」
「ところがな! お前らが倒産したら、うちも死ぬんだよ!」
「……は?」
「うちが新大陸から仕入れてる香辛料! 染料! 薬草! 全部お前らが運んでるだろうが!」
新大陸航路は、誰でも船を出せば商売になるようなものではない。
危険な海流。季節ごとに変わる風。複雑な暗礁。そして、新大陸の港との長年の信用関係。
何十年もかけて築き上げた輸送網だ。
代わりの船団を一から育てるには、何年かかるかわからない。
「だから、お父様が言ったんだよ。『あの商会だけは絶対に潰すな』って!」
「……それで結婚したのか」
「ほかに何がある! お前の顔なんか、結婚式で初めてまともに見たわ!」
「そこまで言わなくても!」
「言わせたのはお前だろうが!」
まったく。
どうしてこんなことになったのか。
話は一か月前にさかのぼる。
◇
「マルタ! 大変だ!」
父が私の執務室に飛び込んできた。
普段はどんな大口取引でも顔色一つ変えない父が、真っ青になっている。
「どうしたの、お父様。王都が燃えた?」
「もっと悪い!」
「王都炎上より悪いことって何よ」
「新大陸航路の船団が、大嵐で壊滅した!」
私は持っていた書類を落とした。
「船員は!?」
「ほぼ全員生還した。だが積み荷は全滅、船も半数以上が航行不能だ。今月末の支払いもできん!」
「うちの新大陸航路は!?」
「なくなる!」
「香辛料の契約は!?」
「違約金だ!」
「染料は!?」
「工房への供給停止!」
「薬草は!?」
「薬師組合から怒鳴り込まれる!」
「うちも死ぬじゃないの!」
「だから大変だと言っておる!」
父と娘は顔を見合わせた。
「「絶対に潰すな!」」
方針は決まった。
問題は、どうやって救うかだ。
船の修理には時間がかかり、船員への給金も必要。資金を貸すだけでは、経営を立て直せない。
「私が向こうの経営に入るわ」
「だが、歴史ある商会だ。外部の人間に経営を任せるとは思えん」
「だったら、内部の人間になればいいじゃない。跡取りに嫁ぐわ」
父は目を丸くした。
「お前の結婚だぞ? 恋愛とか、そういうものは?」
「商会が倒産したら恋愛どころじゃないでしょ!」
「それもそうだな!」
こうして、両家の話し合いが始まった。
先方の会長は、こちらの提案を涙ながらに歓迎した。
我が家が再建資金を提供し、私は経営に参加する。両商会で新大陸航路を復活させる。
婚姻契約にも経営参加の権限を明記し、バルト本人も署名した。
これで準備万端。
……のはずだった。
◇
「つまり、お前は商会を立て直すために嫁いできたのか」
「ようやく理解したか」
新婚初夜に戻った私は、帳簿を開いた。
バルトは頬を押さえながら、向かいに座っている。
「父からは結婚すれば商会が救われるとしか聞いていなかった。まさか初夜から働くとは……」
「明日の朝まで待てば借金が減るのか?」
「……減らんな」
「だったら始めるぞ!」
帳簿の数字はひどかった。
船の修理費。失われた積み荷。借入金の返済。
だが、絶望するほどではない。
「生き残った船員は?」
「六隻分の乗組員はほぼ無事だ。動かせるのは小型船二隻。大型船は三隻が修理可能だが、一番軽い船でも三か月かかる」
「よし! 勝てる!」
「大型船がなければ新大陸へ行けんぞ!」
「誰が最初から新大陸へ行けと言った! 沿岸輸送で稼ぐんだよ!」
私は準備していた書類を広げた。
実家からの融資枠。支払い猶予の交渉案。船舶の借用契約。
「私は金と契約を何とかする。お前は船と船員を何とかしろ!」
バルトは書類を見つめ、やがて力強くうなずいた。
「船のことなら任せろ!」
「よし! 明日は港だ!」
◇
翌朝、私たちは港へ向かった。
そこには、嵐で傷ついた船が並んでいた。
折れた帆柱。割れた船腹。破れた帆。
だが、船員たちは働いていた。使える部品を外し、帆を繕い、修理を進めている。
「若旦那! 奥様もご一緒ですか!」
駆け寄ってきた船長に、私は頭を下げた。
「皆さんが無事で、本当によかった! 早速ですが、沿岸輸送の仕事をお願いします!」
「沿岸輸送ですか?」
「うちの商会が他社に頼んでいた仕事を回します。小型船二隻を使って、まずは船員の給金を稼ぎましょう!」
船長の顔が明るくなった。
「それならできます!」
「修理や荷役の仕事も手配します。大型船が復活するまで、全員で食いつなぐんです!」
「ありがとうございます、奥様!」
船員たちから歓声が上がった。
私はバルトに向き直った。
「船の修理と人員配置はお前に任せる。現場を一番知ってるんだろ?」
「もちろんだ。修理の優先順位も、船長たちと相談して決めてある」
「なら、必要な資金を出す! 遠慮なく働け!」
バルトは笑った。
「頼もしい嫁だな」
「初夜に愛さない宣言した男の台詞か!」
「それはもう忘れてくれ!」
船員たちが笑い出した。
港に、久しぶりの明るい声が響いた。
◇
それからの日々は、忙しかった。
私は債権者との交渉に走り回った。
「支払いを三か月延ばしていただきたいのです」
「こちらにも事情がある!」
「もちろんです。だから我が家の商会が返済保証をいたします。その代わり、金利の上乗せは認めません」
「……それなら考えよう」
笑顔で握手。
一方、バルトは港で大忙しだった。
船の修理、人員配置、沿岸輸送の手配。船員たちからの信頼も厚く、次々と仕事を進めていく。
夜には二人で報告を交わした。
「マルタ! 今月の運賃収入は予定を上回るぞ!」
「よし!」
「三番船の修理も、工期を十日縮められそうだ!」
「やるじゃないか!」
「それと、負傷した船員の家族が生活に困っている。五世帯だ」
「わかった。明日、見舞金を出そう」
「ありがとう」
「礼はいい。そういう問題を見つけるのも、お前の仕事だ」
バルトは照れくさそうに笑った。
この男、なかなかやるじゃないか。
船と船員のことになると、実に頼もしい。
……まあ、初夜の発言は許してないけど。
◇
結婚から一か月ほど経った頃。
私は保険会社との交渉のため、船団遭難の報告書を読み直していた。
そして、ある記述に目が止まった。
『積み荷を海中投棄。船員救助を最優先』
「バルト。これ、誰の命令?」
「俺だ」
「お前、あの船団に乗ってたのか!?」
「乗っていたぞ。船団の指揮を執っていたからな」
「初耳だよ! 何があった!」
バルトは静かに話し始めた。
「嵐が予想以上に大きかった。船団の一隻が座礁しかけて、船長たちは積み荷を守ろうとしていた。あれを失えば商会が潰れると、全員わかっていたからな」
「それで?」
「だが、船が沈めば船員も死ぬ。だから荷物を全部捨てろと命じた」
彼は苦笑した。
「船員は助かったが、商会は潰れかけた。父にも、あの荷物が残っていれば何とかなったかもしれないと言われたよ」
私は黙っていた。
「……やはり、間違っていたんだろうな」
「馬鹿野郎!」
私は立ち上がった。
「大正解だ、馬鹿野郎!」
「……え?」
「船は買える! 商品も買える! だが、あの船長たちをどこで買うんだ!」
私は机を叩いた。
「新大陸航路を知ってる人間が、金さえ払えば明日から集まるとでも思ってんのか! お前が船員を助けたから、うちは再建できるんだよ!」
バルトは目を見開いた。
「……俺は、間違っていなかったのか?」
「当たり前だろ! お前が守ったのは、商会で一番大事な財産だ!」
しばらく沈黙が続いた。
やがてバルトは、深々と頭を下げた。
「……ありがとう。嵐の夜から、ずっと後悔していたんだ」
「礼を言うな! まだ商会は潰れてねえだろ!」
私は手を差し出した。
「一緒に立て直すぞ、バルト!」
彼は私の手を強く握った。
「おう!」
◇
それからのバルトは、ますますよく働いた。
修理する船の優先順位を見直し、船員たちの配置を工夫し、港の倉庫を貸し出して収入を増やした。
私は資金を回し、契約をまとめ、次の航海に必要な商品を確保する。
夜には二人で帳簿を囲んだ。
「マルタ! 三番船の修理費を抑えられそうだ!」
「安全性は?」
「船大工と船長に確認済みだ!」
「よし、採用!」
「あと、港の倉庫を一つ貸し出せる!」
「うちの荷物は?」
「隣にまとめられる!」
「やるじゃないか!」
私は夫の肩を叩いた。
「お前に褒められると嬉しいな」
「良い仕事をしたら褒めるのは当然だろ!」
「なら、もっと働くぞ!」
「その意気だ!」
バルトは笑った。
私も笑った。
最初は、商会を救えればそれでいいと思っていた。
結婚なんて、そのための手段にすぎなかった。
なのに今では、この男と一緒に仕事をするのが楽しい。
……まあ、本人には言わないけど。
◇
三か月後。
ついに、修理を終えた大型船が新大陸へ向けて出港する日が来た。
そして、その船にはバルトも乗る。
「俺が行く。船も船員もよく知っている。今度こそ、無事に荷物を届けてみせる」
「馬鹿野郎。荷物なんかどうでもいいとは言わねえ。今度失ったら、本当に商会が潰れるからな」
「わかっている」
「だが、命と引き換えにするなよ。必ず帰ってこい」
バルトは嬉しそうに笑った。
「必ず帰る」
「商品も持って帰れ!」
「注文が多いな!」
「商売人だからな!」
二人で笑った。
私は夫の手を強く握った。
「帰ってこなかったら、借金は誰が返すんだ!」
「そういう心配か!」
「ほかに何がある!」
バルトは大声で笑い、船に乗り込んだ。
大きな帆が風を受け、船がゆっくりと港を離れていく。
私は、その姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
◇
一か月半後。
「帰ってきたぞー!」
港に歓声が響いた。
新大陸からの大型船が、満載の荷物を積んで帰ってきたのだ。
私は桟橋へ駆け出した。
「バルト!」
「マルタ!」
船から降りてきた夫が、私を抱きしめた。
「ただいま!」
「おかえり、この馬鹿野郎!」
「何で帰ってきても馬鹿野郎なんだ!」
「うるさい! 無事に帰ってきたならそれでいい!」
私は夫の背中を思いきり叩いた。
バルトが笑う。
「荷物も全部持って帰ったぞ! これで商会は助かる!」
「ああ! 助かった!」
港中が歓声に包まれた。
あの日、首をくくるしかないと絶望していた商会が、ようやく立ち直ったのだ。
「……マルタ」
「何だ?」
「俺は、お前を愛している」
私は夫を見上げた。
「お前なぁ……初夜に何て言ったか覚えてるか?」
「覚えている。人生最大の失敗だった」
「そうだろうな!」
「だから、もう一度言わせてくれ。愛している」
まったく、困った男だ。
「……バルト。借金は?」
「まだ残っている」
「全部返せ!」
「返したら!?」
「考えてやる!」
「よし! 絶対に返す!」
バルトは私を抱きしめたまま、大声で笑った。
私も笑った。
借金はまだある。仕事も山ほどある。
でも、もう絶望する必要はない。
船も、商品も、船員も。
そして、この騒がしい夫も。
全部、無事に帰ってきたのだから。




