↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「お前を愛することはない」と宣言した夫を殴って、帳簿を出させました。

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/23

「お前を愛することはない」


「寝ぼけてんのか、ボケェ!」


 私は目の前の男を殴った。


「ぐはっ!」


 新婚初夜。


 夫となった男は、見事に椅子から転げ落ちた。


「な、何をする!」


「それはこっちの台詞だ! お前、自分の商会がどういう状況かわかってんのか!?」


「わかっている! だからこそ、愛情のない結婚でお前に期待を持たせるわけには……」


「愛だの恋だの言ってる場合か! 帳簿を持ってこい、帳簿を!」


「初夜だぞ!?」


「借金の利息は初夜だからって止まってくれるのか!?」


 男は黙った。


 よろしい。


 少なくとも、足し算と引き算くらいはできるらしい。


 私はマルタ。大陸でも指折りの貿易商会、その会長の娘である。


 そして今しがた殴った男は、私の夫となったバルト。


 新大陸との海上輸送を専門とする商会の跡取り息子だ。


 ちなみに、この結婚に恋愛感情は一切関係ない。


「いいか、バルト。お前、私が何のために嫁いできたと思ってる?」


「……政略結婚だろう?」


「お前の商会を潰さないためだよ、馬鹿野郎!」


 私は机を叩いた。


「新大陸からの帰路で大嵐に遭い、船団は壊滅! 積み荷はほぼ全滅! 修理代に借金に賠償金! このままだと倒産する!」


「それはわかっている!」


「ところがな! お前らが倒産したら、うちも死ぬんだよ!」


「……は?」


「うちが新大陸から仕入れてる香辛料! 染料! 薬草! 全部お前らが運んでるだろうが!」


 新大陸航路は、誰でも船を出せば商売になるようなものではない。


 危険な海流。季節ごとに変わる風。複雑な暗礁。そして、新大陸の港との長年の信用関係。


 何十年もかけて築き上げた輸送網だ。


 代わりの船団を一から育てるには、何年かかるかわからない。


「だから、お父様が言ったんだよ。『あの商会だけは絶対に潰すな』って!」


「……それで結婚したのか」


「ほかに何がある! お前の顔なんか、結婚式で初めてまともに見たわ!」


「そこまで言わなくても!」


「言わせたのはお前だろうが!」


 まったく。


 どうしてこんなことになったのか。


 話は一か月前にさかのぼる。


◇


「マルタ! 大変だ!」


 父が私の執務室に飛び込んできた。


 普段はどんな大口取引でも顔色一つ変えない父が、真っ青になっている。


「どうしたの、お父様。王都が燃えた?」


「もっと悪い!」


「王都炎上より悪いことって何よ」


「新大陸航路の船団が、大嵐で壊滅した!」


 私は持っていた書類を落とした。


「船員は!?」


「ほぼ全員生還した。だが積み荷は全滅、船も半数以上が航行不能だ。今月末の支払いもできん!」


「うちの新大陸航路は!?」


「なくなる!」


「香辛料の契約は!?」


「違約金だ!」


「染料は!?」


「工房への供給停止!」


「薬草は!?」


「薬師組合から怒鳴り込まれる!」


「うちも死ぬじゃないの!」


「だから大変だと言っておる!」


 父と娘は顔を見合わせた。


「「絶対に潰すな!」」


 方針は決まった。


 問題は、どうやって救うかだ。


 船の修理には時間がかかり、船員への給金も必要。資金を貸すだけでは、経営を立て直せない。


「私が向こうの経営に入るわ」


「だが、歴史ある商会だ。外部の人間に経営を任せるとは思えん」


「だったら、内部の人間になればいいじゃない。跡取りに嫁ぐわ」


 父は目を丸くした。


「お前の結婚だぞ? 恋愛とか、そういうものは?」


「商会が倒産したら恋愛どころじゃないでしょ!」


「それもそうだな!」


 こうして、両家の話し合いが始まった。


 先方の会長は、こちらの提案を涙ながらに歓迎した。


 我が家が再建資金を提供し、私は経営に参加する。両商会で新大陸航路を復活させる。


 婚姻契約にも経営参加の権限を明記し、バルト本人も署名した。


 これで準備万端。


 ……のはずだった。


◇


「つまり、お前は商会を立て直すために嫁いできたのか」


「ようやく理解したか」


 新婚初夜に戻った私は、帳簿を開いた。


 バルトは頬を押さえながら、向かいに座っている。


「父からは結婚すれば商会が救われるとしか聞いていなかった。まさか初夜から働くとは……」


「明日の朝まで待てば借金が減るのか?」


「……減らんな」


「だったら始めるぞ!」


 帳簿の数字はひどかった。


 船の修理費。失われた積み荷。借入金の返済。


 だが、絶望するほどではない。


「生き残った船員は?」


「六隻分の乗組員はほぼ無事だ。動かせるのは小型船二隻。大型船は三隻が修理可能だが、一番軽い船でも三か月かかる」


「よし! 勝てる!」


「大型船がなければ新大陸へ行けんぞ!」


「誰が最初から新大陸へ行けと言った! 沿岸輸送で稼ぐんだよ!」


 私は準備していた書類を広げた。


 実家からの融資枠。支払い猶予の交渉案。船舶の借用契約。


「私は金と契約を何とかする。お前は船と船員を何とかしろ!」


 バルトは書類を見つめ、やがて力強くうなずいた。


「船のことなら任せろ!」


「よし! 明日は港だ!」


◇


 翌朝、私たちは港へ向かった。


 そこには、嵐で傷ついた船が並んでいた。


 折れた帆柱。割れた船腹。破れた帆。


 だが、船員たちは働いていた。使える部品を外し、帆を繕い、修理を進めている。


「若旦那! 奥様もご一緒ですか!」


 駆け寄ってきた船長に、私は頭を下げた。


「皆さんが無事で、本当によかった! 早速ですが、沿岸輸送の仕事をお願いします!」


「沿岸輸送ですか?」


「うちの商会が他社に頼んでいた仕事を回します。小型船二隻を使って、まずは船員の給金を稼ぎましょう!」


 船長の顔が明るくなった。


「それならできます!」


「修理や荷役の仕事も手配します。大型船が復活するまで、全員で食いつなぐんです!」


「ありがとうございます、奥様!」


 船員たちから歓声が上がった。


 私はバルトに向き直った。


「船の修理と人員配置はお前に任せる。現場を一番知ってるんだろ?」


「もちろんだ。修理の優先順位も、船長たちと相談して決めてある」


「なら、必要な資金を出す! 遠慮なく働け!」


 バルトは笑った。


「頼もしい嫁だな」


「初夜に愛さない宣言した男の台詞か!」


「それはもう忘れてくれ!」


 船員たちが笑い出した。


 港に、久しぶりの明るい声が響いた。


◇


 それからの日々は、忙しかった。


 私は債権者との交渉に走り回った。


「支払いを三か月延ばしていただきたいのです」


「こちらにも事情がある!」


「もちろんです。だから我が家の商会が返済保証をいたします。その代わり、金利の上乗せは認めません」


「……それなら考えよう」


 笑顔で握手。


 一方、バルトは港で大忙しだった。


 船の修理、人員配置、沿岸輸送の手配。船員たちからの信頼も厚く、次々と仕事を進めていく。


 夜には二人で報告を交わした。


「マルタ! 今月の運賃収入は予定を上回るぞ!」


「よし!」


「三番船の修理も、工期を十日縮められそうだ!」


「やるじゃないか!」


「それと、負傷した船員の家族が生活に困っている。五世帯だ」


「わかった。明日、見舞金を出そう」


「ありがとう」


「礼はいい。そういう問題を見つけるのも、お前の仕事だ」


 バルトは照れくさそうに笑った。


 この男、なかなかやるじゃないか。


 船と船員のことになると、実に頼もしい。


 ……まあ、初夜の発言は許してないけど。


◇


 結婚から一か月ほど経った頃。


 私は保険会社との交渉のため、船団遭難の報告書を読み直していた。


 そして、ある記述に目が止まった。


『積み荷を海中投棄。船員救助を最優先』


「バルト。これ、誰の命令?」


「俺だ」


「お前、あの船団に乗ってたのか!?」


「乗っていたぞ。船団の指揮を執っていたからな」


「初耳だよ! 何があった!」


 バルトは静かに話し始めた。


「嵐が予想以上に大きかった。船団の一隻が座礁しかけて、船長たちは積み荷を守ろうとしていた。あれを失えば商会が潰れると、全員わかっていたからな」


「それで?」


「だが、船が沈めば船員も死ぬ。だから荷物を全部捨てろと命じた」


 彼は苦笑した。


「船員は助かったが、商会は潰れかけた。父にも、あの荷物が残っていれば何とかなったかもしれないと言われたよ」


 私は黙っていた。


「……やはり、間違っていたんだろうな」


「馬鹿野郎!」


 私は立ち上がった。


「大正解だ、馬鹿野郎!」


「……え?」


「船は買える! 商品も買える! だが、あの船長たちをどこで買うんだ!」


 私は机を叩いた。


「新大陸航路を知ってる人間が、金さえ払えば明日から集まるとでも思ってんのか! お前が船員を助けたから、うちは再建できるんだよ!」


 バルトは目を見開いた。


「……俺は、間違っていなかったのか?」


「当たり前だろ! お前が守ったのは、商会で一番大事な財産だ!」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがてバルトは、深々と頭を下げた。


「……ありがとう。嵐の夜から、ずっと後悔していたんだ」


「礼を言うな! まだ商会は潰れてねえだろ!」


 私は手を差し出した。


「一緒に立て直すぞ、バルト!」


 彼は私の手を強く握った。


「おう!」


◇


 それからのバルトは、ますますよく働いた。


 修理する船の優先順位を見直し、船員たちの配置を工夫し、港の倉庫を貸し出して収入を増やした。


 私は資金を回し、契約をまとめ、次の航海に必要な商品を確保する。


 夜には二人で帳簿を囲んだ。


「マルタ! 三番船の修理費を抑えられそうだ!」


「安全性は?」


「船大工と船長に確認済みだ!」


「よし、採用!」


「あと、港の倉庫を一つ貸し出せる!」


「うちの荷物は?」


「隣にまとめられる!」


「やるじゃないか!」


 私は夫の肩を叩いた。


「お前に褒められると嬉しいな」


「良い仕事をしたら褒めるのは当然だろ!」


「なら、もっと働くぞ!」


「その意気だ!」


 バルトは笑った。


 私も笑った。


 最初は、商会を救えればそれでいいと思っていた。


 結婚なんて、そのための手段にすぎなかった。


 なのに今では、この男と一緒に仕事をするのが楽しい。


 ……まあ、本人には言わないけど。


◇


 三か月後。


 ついに、修理を終えた大型船が新大陸へ向けて出港する日が来た。


 そして、その船にはバルトも乗る。


「俺が行く。船も船員もよく知っている。今度こそ、無事に荷物を届けてみせる」


「馬鹿野郎。荷物なんかどうでもいいとは言わねえ。今度失ったら、本当に商会が潰れるからな」


「わかっている」


「だが、命と引き換えにするなよ。必ず帰ってこい」


 バルトは嬉しそうに笑った。


「必ず帰る」


「商品も持って帰れ!」


「注文が多いな!」


「商売人だからな!」


 二人で笑った。


 私は夫の手を強く握った。


「帰ってこなかったら、借金は誰が返すんだ!」


「そういう心配か!」


「ほかに何がある!」


 バルトは大声で笑い、船に乗り込んだ。


 大きな帆が風を受け、船がゆっくりと港を離れていく。


 私は、その姿が見えなくなるまで手を振り続けた。


◇


 一か月半後。


「帰ってきたぞー!」


 港に歓声が響いた。


 新大陸からの大型船が、満載の荷物を積んで帰ってきたのだ。


 私は桟橋へ駆け出した。


「バルト!」


「マルタ!」


 船から降りてきた夫が、私を抱きしめた。


「ただいま!」


「おかえり、この馬鹿野郎!」


「何で帰ってきても馬鹿野郎なんだ!」


「うるさい! 無事に帰ってきたならそれでいい!」


 私は夫の背中を思いきり叩いた。


 バルトが笑う。


「荷物も全部持って帰ったぞ! これで商会は助かる!」


「ああ! 助かった!」


 港中が歓声に包まれた。


 あの日、首をくくるしかないと絶望していた商会が、ようやく立ち直ったのだ。


「……マルタ」


「何だ?」


「俺は、お前を愛している」


 私は夫を見上げた。


「お前なぁ……初夜に何て言ったか覚えてるか?」


「覚えている。人生最大の失敗だった」


「そうだろうな!」


「だから、もう一度言わせてくれ。愛している」


 まったく、困った男だ。


「……バルト。借金は?」


「まだ残っている」


「全部返せ!」


「返したら!?」


「考えてやる!」


「よし! 絶対に返す!」


 バルトは私を抱きしめたまま、大声で笑った。


 私も笑った。


 借金はまだある。仕事も山ほどある。


 でも、もう絶望する必要はない。


 船も、商品も、船員も。


 そして、この騒がしい夫も。


 全部、無事に帰ってきたのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。