偽恋人の開始
次の日の朝。
教室に入った瞬間、少しだけ空気が違って感じた。
理由は分かっている。
昨日の放課後。
雪城凪と、“恋人のふり”をすることになったからだ。
(……いや、まだ何もしてないけど)
ただ約束しただけ。
それだけなのに、妙に意識してしまう。
席に座って、鞄から教科書を取り出す。
ふと視線を上げると――
目が合った。
雪城凪。
少し離れた席から、こっちを見ていた。
一瞬だけ視線が合って、すぐに逸らされる。
(……気まずい)
いや、気まずいというか。
どうすればいいのか分からない。
昨日の話は“本気”だったはずだ。
でも、だからといっていきなり何か変わるわけでもない。
そんなことを考えていると。
凪が立ち上がった。
そして、まっすぐこっちに歩いてくる。
「朝日奈くん」
周りの視線が、一瞬だけ集まる。
「……おはよう」
俺は少し遅れて返す。
「おはよう」
凪はいつも通りの表情で言う。
でも、そのまま俺の机の横に立ったまま動かない。
「……」
「……」
沈黙。
数秒。
「……何か用?」
耐えきれずに聞く。
すると凪は、少しだけ首を傾けた。
「恋人っぽくしないと」
「……ああ」
そうだった。
完全に忘れていたわけじゃないけど、現実感がなかった。
「でも、朝からいきなり?」
「人前の方が意味ある」
真顔で言う。
正論だった。
「……で、どうする」
凪は少し考える。
それから言った。
「とりあえず、隣」
「隣?」
「座る」
そう言って、当たり前みたいに俺の隣の席に座った。
本来の席じゃない。
それだけで、周りの空気がざわつく。
「え、雪城?」
「どうした?」
小さな声が聞こえる。
(……そりゃそうだ)
クラスで一番目立つ女子が、普段関わりの薄い俺の隣に座っている。
目立たないわけがない。
「……いいのか?」
小声で聞く。
「あとで戻る」
凪はあっさり言う。
「今は練習」
「練習って」
「昨日言ったでしょ」
「……まあ」
確かに言ってた。
“それっぽくする”って。
凪は机に肘をついて、少しだけ顔を近づけてくる。
「名前で呼ぶ」
「……え?」
「昨日、言った」
確かに。
「人前では名前で呼ぶ」って。
「……今やるのか?」
「今が人前」
間違ってはいない。
でも。
「……」
少しだけ息を吸う。
慣れてない。
かなり。
「……凪」
言ってみる。
思っていたよりも、声が小さくなった。
凪は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、小さく頷く。
「うん」
「……それでいい」
少しだけ間が空く。
なぜか、妙に恥ずかしい。
凪はその様子を見て、少しだけ首を傾ける。
「恥ずかしい?」
「……まあ」
正直に答える。
すると凪は少しだけ考えて、
「じゃあ慣れるまでやる」
と真顔で言った。
「……スパルタだな」
「必要だから」
即答だった。
その時、後ろから声がした。
「おい朝日奈」
振り返ると、蓮がニヤニヤしていた。
「どういう状況?」
「……ただの練習」
「何の?」
「……」
答えに詰まる。
凪が代わりに言った。
「恋人の」
一瞬、空気が止まる。
「は?」
蓮が固まる。
周りの何人かも、明らかに聞いていた。
「……え?」
「今なんて?」
「だから」
凪は変わらないトーンで言う。
「付き合ってる」
教室がざわついた。
一気に。
「え、マジで?」
「いつから?」
「なんで朝日奈?」
声が飛び交う。
俺は一瞬で理解した。
(……これ、そういうことか)
“練習”じゃない。
もう始まってる。
凪はそんな周りの反応を気にする様子もなく、俺の方を見る。
「ね、陽真」
名前で呼ばれた。
さっきよりも自然に。
「……ああ」
俺は頷くしかなかった。
こうして。
俺たちの“偽の恋人関係”は、思っていたよりずっとあっさりと、クラスに広まった。
昼休み。
教室のざわつきは、朝よりもさらに大きくなっていた。
「ねえ朝日奈、マジなの?」
「いつから付き合ってんの?」
「雪城と!?」
質問が一気に飛んでくる。
「……昨日から」
とりあえずそう答えるしかなかった。
嘘ではない。
ある意味、事実だ。
「昨日!?」
「急すぎだろ!」
「いやマジでなんで!?」
さらに騒がしくなる。
俺は少しだけため息をついた。
(……これ、思ったより大変だな)
すると。
「ごめん」
横から声がした。
凪だった。
「ちょっと借りる」
そう言って、俺の腕を軽く引く。
「え、あ、おい」
そのまま教室の外へ。
廊下に出ると、さっきまでの騒がしさが少し遠くなった。
「……悪い」
俺が言う。
「いや」
凪は首を振る。
「これくらいの方がいい」
「いいのか?」
「うん」
あっさりしている。
「噂になった方が、信じやすい」
確かに。
中途半端より、はっきりしていた方がいい。
「……計算してたのか?」
「してない」
即答だった。
「でも、結果的に良かった」
(……天然か計算か分からないな)
そう思いながら、俺は少し息を吐いた。
「で、これからどうする」
凪は少しだけ考える。
「練習する」
「まだやるのか」
「足りない」
きっぱり言う。
「……具体的には?」
凪は俺の方を見て、少しだけ距離を詰めた。
「これくらい」
肩が触れるか触れないかの距離。
さっきより、明らかに近い。
「……」
一気に心拍数が上がる。
「近くないか?」
「恋人なら普通」
「……そうか」
そうなのかもしれない。
でも、慣れてない。
全く。
凪はそのまま歩き出す。
俺も隣に並ぶ。
廊下を歩く。
周りの視線が、少しだけ気になる。
「見られてる」
「うん」
「気にしないのか?」
「少しは」
「少しはかよ」
「でも、必要だから」
真面目に言う。
その横顔は、やっぱり綺麗だった。
「……あと」
凪が言う。
「たまに、名前」
「……陽真って?」
「うん」
「慣れないな」
「慣れる」
またそれだった。
「じゃあ、凪も」
「呼んでる」
「確かに」
少しだけ会話が軽くなる。
その時。
凪がふと立ち止まった。
「……もう一つ」
「何?」
凪は少しだけ迷ってから言う。
「手」
「……手?」
「繋ぐやつ」
「……」
一瞬、思考が止まる。
「必要か?」
「分かりやすいから」
理屈は分かる。
でも。
「……今?」
「今」
即答だった。
凪は少しだけ手を差し出す。
ためらいのない動き。
でもよく見ると、ほんの少しだけ指先が固い。
(……こいつも慣れてないんだな)
そう思うと、少しだけ楽になる。
「……分かった」
俺は手を伸ばす。
軽く触れる。
凪の手は、思っていたよりも冷たかった。
そのまま、指が重なる。
しっかりと、繋がる。
「……」
「……」
一瞬、会話が消える。
周りの音だけが聞こえる。
(……やばい)
思っていたより、破壊力がある。
「どう?」
凪が聞く。
少しだけ声が小さい。
「……普通」
とりあえずそう答える。
すると凪は少しだけ頷いた。
「ならいい」
でも、その手は離さなかった。
そのまま、少しだけ歩く。
ほんの数歩だけ。
それだけなのに、妙に長く感じる。
「……これ、ずっと?」
「人前では」
「……そうか」
覚悟が必要そうだった。
やがて凪は手を離す。
「とりあえず、こんな感じ」
「……結構ハードル高いな」
「でも必要」
何度目か分からないその言葉。
でも、少しだけ納得している自分がいた。
凪は少しだけ考えてから言う。
「明日」
「……うん」
「多分、来る」
元彼。
すぐに分かった。
「……そっか」
「その時」
凪はまっすぐ俺を見る。
「今日の、ちゃんとやる」
距離。
呼び方。
手。
全部。
「……分かった」
俺は頷く。
やると決めたからには、やる。
中途半端にはしない。
凪は小さく息を吐いた。
それから、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……よろしく、陽真」
名前で呼ばれる。
今度は、ちゃんと意識して。
「……ああ」
俺は答える。
こうして。
“練習”は終わった。
でも――
本番は、明日。
あの校門で。
逃げられない形で、試されることになる。




