偽の恋人になって
ここまでが、プロローグの少し前の話。
新しいクラスになってからの数日間。
雪城凪と関わるようになって、少しだけ距離が変わっていった時間。
そして――
話は、あの夕方の教室に戻る。
静かな教室で交わされた、たった一つの提案。
「恋人のふりをしてほしい」
ここから。
俺たちの関係は、“偽の恋人”として始まることになる。
「……じゃあ」
少しの沈黙のあと、凪が口を開いた。
さっきまでの空気が、まだ教室に残っている。
夕方の光も、変わらないまま。
ただ一つ違うのは――
俺たちの関係だった。
「これで、いい?」
凪が確認するように言う。
「恋人のふり」
「ああ」
俺は頷く。
まだ少しだけ実感はない。
でも、もう引き返すつもりもなかった。
「……ありがとう」
凪は小さく言う。
それから、少しだけ視線を落とした。
「ちゃんと、説明しておく」
「説明?」
「うん」
少しだけ間を置く。
言葉を選んでいるみたいだった。
「さっき言ったのは、今の状況だけだから」
「……」
「どうしてこうなったか、ちゃんと話す」
そこまで言って、凪は一度息を吐いた。
そして、ぽつりと話し始める。
「一年の時は」
静かな声だった。
「今みたいなこと、なかった」
「……」
「元彼も、そこまでしつこくなかったし」
少しだけ間が空く。
「……ずっと、一緒にいた人がいたから」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「一緒に?」
「幼なじみ」
凪はそう言った。
「小さい頃からずっと一緒で」
「……」
「学校でも、帰りも」
淡々と話しているようで、その中に少しだけ温度がある。
「困ったことがあったら、あいつが何とかしてくれてた」
「……」
なんとなく想像できた。
そういう距離の人。
家族みたいな。
「元彼のことも」
凪は続ける。
「面倒になりそうだったからって、間に入ってくれてた」
だから――
「……大丈夫だった」
そういうことか。
俺は少しだけ頷く。
「いいやつなんだな」
凪は少しだけ黙った。
それから、小さく言う。
「……うん」
その一言に、少しだけ何かが混ざっている気がした。
でも、深くは聞かなかった。
凪は続ける。
「でも」
その声が、少しだけ変わる。
「二年になってから」
「……彼女、できた」
一瞬、教室の空気が止まった気がした。
「……そっか」
俺は短く返す。
それ以上の言葉は出てこなかった。
凪は視線を窓の外に向ける。
「最初は、よかったと思った」
「……」
「ずっと一緒だったし、そろそろそういうのあってもおかしくないって」
冷静な言い方だった。
でも。
「でも、ちょっとだけ」
言葉が止まる。
「……変わった」
小さな声。
「帰りも、一緒じゃなくなったし」
「連絡も、減った」
「当たり前だけど」
「……」
その“当たり前”が、少しだけ引っかかる。
凪は続ける。
「だから」
「元彼のことも、自分でどうにかしないといけなくなって」
「……」
「でも、うまくできなくて」
少しだけ視線が揺れる。
あまり感情を出さない凪にしては、珍しかった。
「断っても、来るし」
「無視しても、来るし」
「……」
「ちゃんと終わらせないといけないのに」
そこまで言って、凪は口を閉じた。
数秒の沈黙。
夕方の光が、少しだけ傾いている。
「……だから」
凪が、もう一度口を開く。
「彼氏がいるって、はっきりさせればいいと思った」
「……」
「中途半端にしてるから、来る」
「だったら」
少しだけ俺を見る。
「分かりやすくした方がいい」
それが――
この提案の理由。
「……」
俺はしばらく何も言わなかった。
話は分かった。
筋も通ってる。
でも。
「……その幼なじみは」
気づけば、そう聞いていた。
「今はもう、頼れないのか?」
凪は少しだけ驚いた顔をした。
それから、すぐに視線を逸らす。
「……頼ろうと思えば、頼れると思う」
「でも」
少し間を置いて、
「……嫌だから」
そう言った。
その理由は、なんとなく分かった。
彼女がいるから。
距離を取るべきだから。
でも、それだけじゃない気がした。
「……そっか」
俺はそれ以上聞かなかった。
聞くべきじゃないと思った。
凪は少しだけ安心したように、小さく息を吐く。
「だから」
もう一度、言う。
「朝日奈くんに頼んだ」
その言葉は、さっきよりもはっきりしていた。
「……」
俺は少しだけ考える。
それから言う。
「分かった」
「やるって言ったしな」
凪がこちらを見る。
「中途半端にはしない」
「……うん」
小さく頷く。
「助かる」
その声は、少しだけ柔らかかった。
教室の外から、部活の声がかすかに聞こえてくる。
夕方は、もうすぐ終わる。
「……じゃあ」
凪が言う。
「明日から、そういう感じで」
「そういう感じって」
「……恋人っぽく」
少しだけ言いづらそうに言う。
「……分かった」
俺は頷く。
凪は一瞬だけ迷ってから、
「あと」
と続けた。
「……偽恋人の間は、名前で呼んでもいい」
「……え?」
「その方が、それっぽいから」
確かにそうかもしれない。
でも。
「……急だな」
「必要だから」
真顔で言う。
「……分かった」
そう答えるしかなかった。
凪は小さく頷く。
それから、ほんの少しだけ表情を緩めた。
本当に、一瞬だけ。
「よろしく」
その言葉は、さっきよりも少しだけ――
近く感じた。
こうして。
俺と雪城凪の関係は、形だけ“恋人”になった。
理由は単純。
きっかけも単純。
でも。
この時の俺は、まだ気づいていなかった。
この“代わり”みたいな始まりが。
あとで、こんなに苦しくなるなんて。




