雪城凪という女の子
クラスの中で、自然と目立つ人というのがいる。
騒いでいるわけでもなく、特別なことをしているわけでもないのに、なぜか周りの視線が集まる人。
雪城凪は、そういうタイプだった。
窓側の席。
長い黒髪が肩のあたりで揺れる。
女子の友達と普通に会話しているだけなのに、どこか絵になるというか、雰囲気が違う。
男子がさりげなく見ているのも分かる。
まあ、俺もその一人だけど。
「朝日奈」
隣の席から声がした。
顔を上げると、相沢蓮が椅子ごとこちらを向いている。
「何?」
「今見てただろ」
「何を」
蓮はニヤッと笑った。
「雪城」
俺は少しだけ言葉に詰まる。
「別に」
「いや絶対見てた」
「クラスにいるんだから視界に入るだろ」
そう言うと、蓮は肩をすくめた。
「まあ確かに」
そして、顎で凪の方を指す。
「ていうかさ、やっぱ綺麗だよな」
「……そうだな」
否定はできない。
整った顔立ちだし、スタイルもいい。
それに、何というか――雰囲気がある。
静かな空気というか。
近寄りがたい感じ。
「でもさ」
蓮が続ける。
「男子とあんま話してなくね?」
「そうか?」
「話してるの見たことない」
言われてみれば、そうかもしれない。
凪が話しているのは、ほとんど女子だ。
男子に話しかけられても、短く答えるだけ。
それ以上は続かない。
その距離感のせいか、クラスの男子もあまり近づかない。
遠くから見ている感じ。
……まあ、俺も同じだけど。
その時、凪が立ち上がった。
女子の友達と何か話しながら、廊下の方へ向かう。
すれ違う男子が、さりげなく道を空ける。
蓮が小さく笑った。
「王様みたいだな」
「違うだろ」
「いや、だって誰も近寄らないじゃん」
確かにそうだった。
でも凪自身は、そんな空気を気にしていないみたいだった。
普通に歩いて、普通に教室を出ていく。
それだけ。
「……」
気づけば、俺はその後ろ姿を目で追っていた。
黒髪が揺れる。
背筋が伸びていて、歩き方もどこか落ち着いている。
すると、蓮がまたニヤニヤする。
「朝日奈」
「何」
「結構見るよな」
「見てない」
「いや見てる」
「お前が言うから視線向いただけ」
蓮は笑った。
「まあいいけど」
俺は小さくため息をつく。
別に、特別気にしているわけじゃない。
ただ同じクラスにいて、少し目立つ女子がいるだけ。
それだけのことだ。
……多分。
しばらくして、凪が教室に戻ってきた。
女子の友達と話しながら席に戻る。
椅子を引いて座る。
それだけの動作なのに、やっぱり目を引く。
不思議な人だと思う。
その時だった。
凪がふと顔を上げた。
そして。
まっすぐ、こっちを見た。
一瞬。
目が合う。
俺は反射的に視線を逸らした。
……なんだ今。
気のせいかと思ったけど。
少しだけ気になって、もう一度そっちを見る。
凪はもうこっちを見ていなかった。
何事もなかったみたいに、友達と話している。
「どうした?」
蓮が聞く。
「いや」
俺は首を振る。
「何でもない」
でも。
さっきのは、多分気のせいじゃない。
昨日も、似たようなことがあった。
偶然かもしれない。
たまたま視線が合っただけ。
……そう思うことにした。
でも、なぜか少しだけ引っかかる。
雪城凪。
クラスで一番目立つ女子。
俺とは特に接点もない。
話したことも、ほとんどない。
なのに――
なぜか、時々目が合う。
それが偶然なのかどうか。
この時の俺には、まだ分からなかった。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子が引かれる音や、弁当の包みを開く音があちこちから聞こえる。
「朝日奈、今日どうする?」
相沢蓮が振り返って聞いてきた。
「購買」
「マジ?俺も行く」
二人で席を立つ。
廊下に出ると、同じように購買へ向かう生徒が何人もいた。
階段を降りて、購買の前へ向かう。
すでに結構な列ができていた。
「パン争奪戦だな」
蓮が苦笑する。
「まあ買えればいいけど」
そんな会話をしながら列に並ぶ。
その時だった。
少し離れたところで、小さな声が聞こえた。
「えっと……」
視線を向ける。
そこには雪城凪がいた。
購買の前で、少し困ったような顔をしている。
財布を開いたまま、立ち止まっていた。
「……」
俺は何となく様子を見ていた。
すると凪が、小さくつぶやく。
「足りない……」
どうやら小銭が足りないらしい。
パンを一つ手に持ったまま、少し困っている。
店のおばちゃんも少し待っている様子だった。
「……」
俺はポケットから財布を出した。
そして列から一歩出る。
「これ」
そう言って、足りない分の小銭を差し出した。
凪が驚いたように顔を上げる。
「え」
「足りないんだろ」
「……」
凪は一瞬迷ったような顔をした。
それから小さく言う。
「……ありがとう」
その声は思っていたより柔らかかった。
おばちゃんが会計を済ませ、凪はパンを受け取る。
俺はそのまま列に戻ろうとした。
「待って」
後ろから声がかかる。
振り返ると、凪が少し近くに来ていた。
「あとで返す」
「いいよ」
「よくない」
きっぱり言われた。
「借りたままは嫌」
「……」
思ったより真面目な性格なのかもしれない。
「じゃあ、あとで」
俺はそう言った。
凪は小さく頷く。
それから、少しだけ首をかしげた。
「朝日奈くん、だよね」
「……うん」
名前、知ってるのか。
少し意外だった。
「同じクラスだから」
凪はそう言って、小さく笑った。
ほんの少しだけ。
それだけなのに、なぜか印象に残る笑い方だった。
「じゃあ」
そう言って、凪はクラスで待っている女子の友達の方へ戻っていく。
黒髪がふわりと揺れた。
「……」
俺はその背中を見ていた。
すると横から声がする。
「なあ」
蓮だった。
「お前いつの間にそんなイベント起こしてんの」
「イベントじゃない」
「いや完全にイベント」
蓮は笑いながら言う。
「しかも雪城と会話してたし」
「小銭貸しただけ」
「それでも十分すごいって」
俺は肩をすくめた。
別に大したことじゃない。
困っていたから、助けただけ。
それだけだ。
でも。
さっきの笑い方が、なぜか頭に残っていた。
――その頃。
凪は教室の窓際に立っていた。
友達と話しながら、さっきのパンを食べている。
でも、視線は少しだけ違う方向を向いていた。
朝日奈陽真。
さっき小銭を貸してくれた男子。
クラスではあまり目立たない。
でも、さっき見た時――
当たり前みたいに助けてくれた。
少し考える。
それから、小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
凪は小さくつぶやく。
その時、スマホが震えた。
画面を見る。
そこに表示されていた名前を見た瞬間。
凪の表情が、わずかに変わった。
通知を開く。
そこには短いメッセージ。
『今日、学校の近く行く』
凪の指が止まる。
次のメッセージ。
『会えるよな?』
凪はスマホの画面をしばらく見つめていた。
それからゆっくり画面を閉じる。
教室の窓から外を見る。
校門の向こう。
まだ姿は見えない。
でも。
来る。
それは分かっていた。
凪は小さく息を吐く。
そして、もう一度だけ教室の中を見る。
視線の先には――
朝日奈陽真の席。
「……」
凪は何かを考えるように、静かに目を細めた。
それが。
すべての始まりになるとは、まだ誰も知らなかった。




